第十一章 その1 おっさん、助けられる

「おい、今の叫び声は何だ?」


 ハーマニーの悲鳴を聞いて通行人が駆けつける。


「あそこ見ろ!」


 血を流して倒れ込む大男と、それに守られるように抱きかかえられた女の子というあまりにも奇妙な状況。たちまち群がった通行人によりハーマニーは引っ張り出され、ハインが路上でうつ伏せに寝かされる。


 いつの間にか眼鏡の女はいなくなっていた。倒れ込んだほんのわずかな隙にいなくなるなど、かなりの手練れのようだ。


「ひどい怪我だ、急いで病院へ!」


「おっさん、しっかりしろ!」


「お嬢ちゃん、怪我は無いかい?」


 通行人が口々に言う。酔っ払いも下級貴族も、幸いにも親切な人ばかりのようだ。


「私は無事ですから、ハインさんを早く助けて!」


 涙ながらに懇願するハーマニー。その時、すぐ近くに走ってきた魔動車が停車し、中から血相を変えた貴婦人が飛び出す。


「ハイン!」


 身に纏う高価なドレスが乱れてもまるで意に介さず、力ずくで人垣を掻き分ける女性。


 あの美人は誰だ? 誰が見ても高貴な身分の奥方だと直感的に理解できるほど内面からにじみ出る気品に、人々は言葉を失いながら道を譲った。


「遅かっ……た」


 倒れ込むハインを前に口元を押さえて崩れる女性。首を曲げたハインは彼女を見た途端、ぎょっと眼球を剥かんばかりに驚いた。


「エ、エレ……ン?」


「ハイン、しっかりして!」


 苦しそうに息を荒げながらも絞り出すハイン。その手をエレンと呼ばれた女性が強く握りしめる。


 だがエレンという名を聞いた途端、ハーマニーは口から心臓が飛び出す気分だった。


「エレン……も、もしかしてブルーナ伯爵夫人ですか!?」


 ハーマニーの一声に通行人たちが一様に「ええ!?」と驚きの叫びを揃える。


 伯爵夫人エレンは「そうよ」と一言だけ返すと、今にも意識の途切れそうなハインの頬に手を当てて何度も呼びかけ続けた。後ろから使用人であろう中年の女と回復術師も遅れて到着し、ハインの状態を一目見るなり絶句した。


「伯爵夫人、こんな場所にいては危険です。早くお逃げになられた方がいい」


 人垣から飛び出した男が伯爵夫人に駆け寄る。下級貴族だろうか、他に比べて整った身なりをしている。


 だがエレンは涙を浮かべた眼を瞑ると首を横に振った。


「いえ、この人は私の大切な人なの。だから私に任せてくれない?」


 静かながらも強い意志を感じさせる声。男は彼女の気迫に気圧され、返す言葉が見つからなかった。


「わかりました。みんな、伯爵夫人の車にこの男を担ぎ入れろ!」


「おお!」


 伯爵夫人の想いは既に周囲にも伝わっていた。集まった見ず知らずの男たちがハインの巨体を慎重に担ぎ上げると、「わっせ、わっせ」と息を揃えて伯爵夫人の乗ってきた魔動車に運び入れる。


 すぐさま回復術師がハサミで服を切って背中の傷を見て、そっと手を添えると強く念じ手を光らせる。血液中の成分を活性化させ、かさぶたの形成により止血を促す応急処置魔術だ。


「あなた、もしかしてハーマニーさん?」


 ハインが運び込まれたのを見届けながら、伯爵夫人は茫然と立ち尽くすハーマニーに声をかける。


 自分とはあまりにかけ離れた身分の夫人から前触れもなく声をかけられてハーマニーは「ふぇ!?」と少しばかり取り乱したものの、すぐに声の調子を整えるとスカートの裾を掴んでできる限り作法に則った挨拶を行う。


「はい、コメニス書店のハーマニーと申します」 


「私はブルーナ伯爵夫人エレン。あなたのことはハインから聞いているわ」


「私もです」


 まだ出会って間もないが、ハーマニーはすでに伯爵夫人に全幅の信頼を寄せていた。ハインや使用人の男の子から伯爵夫人については色々と聞いていたが、こんなに美しくも逞しい人物であることに同じ女として見とれてしまっていたのだ。


「家まで送るわ、あなたも車に乗って」


「あの……何故ハインさんが狙われたのでしょう?」


 弱々しく尋ねるハーマニー。伯爵夫人はぎゅっと口を噤むが、やがてふうとため息を吐くと重々しく口を開いたのだった。


「詳しくは話せないけど、ハインが回復術師になると不都合な人がいるのよ」




 全身を包み込む心地よい温かさに再び眠りに落ちてしまいそうな気分の中、ハインは再び意識を取り戻した。


「こ、ここは?」


 ゆっくりと目を開く。細かい装飾の施された天井に、吊り下げられた小型のシャンデリア。寝かされていたのはふかふかのベッドの上だったようだ。


 自分の部屋でも病院でもない、こんなに豪勢なつくりの部屋、ハインは見たことが無い。


 いや、それは違う。自分にとってかけがえのないあの女性ひとなら、いつもこんな部屋にいるはずだ。


「気付いた? ここは私の別荘よ」


 枕元から聞こえる優しい声に、ハインはゆっくりと首を動かした。疲れたように座り込んだ伯爵夫人が、そっとハインの顔を覗き込んでいる。


 他には誰もいない。部屋の中はハインとエレンのふたりきりだった。


「エ、エレン……一体なぜ?」


 そこでハインは言葉に詰まる。座り込んで震えるエレンの両目からは、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれていた。


「ハイン、ごめんなさい。もう少し早ければこんなことにはならなかったのに」


「君が謝ることじゃない。ハーマニーは無事かい?」


「ええ、あの子は何も怪我は無いわ」


「そうか、良かった」


 ほっと安堵の息を吐く。だが気が緩んだせいか、背中に走る激痛に顔を歪ませてしまった。


 それは突如のことだった。横になったハインに伯爵夫人が飛びつき、その太い首に腕を回す。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい!」


 わんわんと泣きながら謝る伯爵夫人。かつて息子を失った時以来、こんな泣き方をする彼女をハインは見たことが無かった。


「ど、どど、どうしたんだ!?」


 当然ながらハインもほとんどパニックに陥る。今まで互いに心を通わせる関係ではあったが、これほど強く抱きつかれたことは一度として無い。取り乱したハインは腕をエレンの背中に回すことも突き放すことさえもできず、情けなくもなされるがままであった。


 しばらく抱きついて泣き叫んだ後、伯爵夫人はようやく涙を拭って椅子に座り直す。そして呼吸を整えると、真っ赤な眼をハインに向けて話しかけたのだった。


「ハイン、これから話すのはどうしてもあなたに知ってほしいこと。とんでもない話かもしれないけど、聞いてね」


「とんでもない話? 僕が刺されたことと、関係あるのかい?」


「ええ、それも、あなたの出生に関わることなの」


「そんな、僕は親の顔も知らない孤児だ。教会運営の孤児院前に生まれたばかりの僕が捨てられていたって、何度も聞かされている」


「ねえ聞いて。信じられないと思うけど、もしかしたら……いえ、おそらくは」


 ここで伯爵夫人の心臓が一際強く鼓動する。これを聞かされた時、ハインの今後の人生は大きく狂ってしまうかもしれない。だが知らなければ、ハインは自らの意志で人生を歩むことすらできなくなってしまう。


 ついに彼女は覚悟を決め、ゆっくりと、はっきりと口にした。


「ハイン、あなたはね……王家の血を引いているの」

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