第五章 その6 おっさん、先生を心配する

 ヘレン・パーカース先生は頻繁に同じ夢を見る。


 大学に入学した頃からの級友たちと一緒に笑い、読書に実験を重ねる日々。友としてライバルとして、ともに研鑽し合う研究発表会。まさに絵に描いたような輝きあふれる学生生活だった。


 だがある時のこと、ふと気付けば彼女の周囲は真っ暗な闇に包まれていた。


「ここは?」


 手を伸ばしても何も無い。一筋の光明さえ見いだせない完全なる闇。少しずつ、一歩一歩足元を確かめながら進み続けるも、果たして自分が真っ直ぐ進めているのかさえわからない。


 その時、手を伸ばせば触れるほど少し先の場所に、級友の姿がぼうっと浮かび上がる。だが彼はどういうわけか先生には背中を向けていた。


 それでもよく知った友人の登場に先生はほっと安心し、安堵の息を吐く。


「良かった、ひとりで不安だったの。ねえ、一緒に……?」


 だが友人は足音も立てず、前へ前へと歩み出したのだ。徐々に距離の開く二人の間、先生は小走りで駆け出した。


「ねえ、置いていかないで!」


 奇妙なことに、いくら足を動かしても距離は縮まらない。目の前の友人は相変わらず同じような足取りで歩いているだけなのに。


 ふと周りを見て先生は余計にぎょっとする。ここにいるのは一人だけではなかった。同時期に入学した仲間全員が先生に背中を向け、すたすたと闇のはるか彼方へと突き進んでいたのだ。


「ちょっと、みんなどこ行くの!? ねえってば!」


 涙ながらに必死で叫ぶ。だがその声は聞こえていないのか、皆振り返ることなくひたすらに歩み続け、徐々に徐々に小さくなるとついには暗闇に完全に消えてしまうったのだった。


 最後には先生の周りには誰もいなくなっていた。皆、この闇から抜け出していったのに、自分だけがいつまでも取り残されている。


「うわああああああああ!」


 絶叫とともにベッドから跳び起きる。


 激しく息切れしながら周囲を見渡し、図書と山積みの書類に埋め尽くされた狭い見慣れた自分の部屋であると気付いてようやく安心するのだった。


「いつもの夢か……」


 冬も近付いているというのに、全身は汗でぐっしょりと濡れていた。先生は寝間着を脱ぐと急いで化粧を済ませ、教員用のローブを羽織り壁にかけた鏡の前に立つ。


 映り込むのは虚ろな瞳。いくら化粧を重ねても疲れを隠し切れないその眼は、まだ23歳の彼女を10歳以上老けさせているようだった。


「私は所詮、井の中の蛙だった。もっと早く気付くべきだったのね」




 パーカース先生が出勤したとき、学校は妙にざわついていた。まだ授業も始まっていないどころか生徒もほとんど来ていないというのに、明らかにいつもとは異なる空気が漂っている。


 特に軍事魔術師科の校舎は騒がしく、通信用水晶で慌ただしくどこかに連絡を取る事務員や互いにつかみかかる一歩手前の勢いで口論を続ける男性教員など、殺人事件でも起こったかのようなピリピリとした雰囲気に満ちていた。


「彼の家系は代々の軍人だ、私たちは彼を立派な軍人に育て上げるようお父上から期待されている。それなのに退学なんてことになったら、もう軍部に顔向けできない」


「いや、退学は本人の希望だ、止める権限は教員側には無い」


 廊下の一角で舌戦を繰り広げているところを小さくなってすり抜け、何があったのだろうと一目ちらりと振り返るも、あの中に割り込んで尋ねるような勇気はパーカース先生は持ち合わせていなかった。


 だがちょうど廊下の向こうからヘルバール先生が走って来たので、ちょうど良いかとパーカース先生は声をかけたのだった。


「ヘルバール先生、どうされたのですか?」


 不安半分興味半分に、先生は尋ねる。軍人上がりのヘルバール先生は気さくで人当たりが良く、他の教員の間を取り持つ役割もこなしていた。


「ああ、今朝突然ヘルマンが退学届を出しやがってですね。ほら、去年首席でうちに入学したヘルマン・ベーギンラードですよ。もう教員全員訳が分からないので、さっきからずっと問い詰めているんですよ」


 ヘルバール先生が突き当りの『相談室』を指差す。確かに、中からは先生と生徒と思しき会話が漏れ出していた。


「べーギンラード君、どうしてそんなに軍人が嫌なんだ!?」


「嫌とは言っておりません、ただ、別にもっとやりたいことを見つけただけです。私は退学後、学園の魔術工学技士科を受験し直します」


「入り直してどうするというのだね?」


「魔動車を設計し、より高速で安全な乗り物を作りたいと思います。幼い頃から魔動車に乗っている時は何よりも楽しく感じていました。そしてようやく気付いたのです、それこそが私の本心より望む道であったと」


「ご両親は何と?」


「当然、驚かれました。ですが父は笑ってくれました、お前が自分の生き方について決断を下したのはこれが初めてかもしれない、と」


 相談を聞いてヘルバール先生は複雑な顔を浮かべるものの、どことなく安心しているようだった。


「まさかヘルマンがあんなこと言い出すなんて、思ってもいませんでしたよ。でもあいつ、前よりもずっといきいきしてるんですよ」


「自分の進むべき道が見つかったのは良いことだと思います」


 パーカース先生がすっと眼鏡のずれを直す。。


 だが直後、彼女は分厚いレンズの下から彼女は実に険しい眼をじっと相談室のドアに睨みつけるように向け、吐き捨てるように強く言い放ったのだった。


「ですが、それが果たして本当に正しい選択であったかは誰にもわかりません。この選択がベーギンラード君にとって後悔の無いものであることを願うばかりです」


 誰に聞かせるのかまるで考えていないような口ぶり。とげとげしい物言いに、生徒の新たな決意を喜んでいたヘルバール先生は「え、ええ」と尻込みするしかなかった。




「なんだハイン、お前の仕業だったのか」


「すまなかったね」


 夕方、いつもの酒場でカウンターに並んでジョッキを交わすヘルバール先生とハイン。


 余計なことしやがって、などと怒られる覚悟を決めていたハインだったが、意外にもヘルバールはにこっと笑うとハインの背中をポンと叩いてくれたので拍子抜けしていた。


「いや、むしろ感謝している。あのままなら遅かれ早かれヘルマンは学園を去っていただろう。あいつの背中を押してくれた上に、次の目標まで持てることができたのはお前がいてくれらからだよ。マスター、ビールもう2杯追加で! 今日は俺が全部払うよ」


 改めてジョッキを打ち鳴らし合い、そして一気に喉に流し込むふたりの大男。ペースが速かったか、いつもより早く顔を赤らめながらも談笑を続けていた。


「それにしても……パーカース先生が言ったことが気になるな。ヘルマンの選択をまるで冷めて見つめているようだ」


 ヘルバール先生の一言にハインは酒を飲んでいいた手を止める。先生の抱える負の感情は相当なものだと直感が告げたのだ。


「ヘレン先生のことだけど……どうもナディアの大学進学に反対しているらしいね」


「ナディアってナディア・クルフーズのことか? あそこまで賢い子、滅多にいないぞ。それなのに反対するなんて、変な話だな」


 ヘルバール先生も素直に驚く。ナディアの才覚は別の学科にも行き届くほどで、学園の教員は誰もが彼女はいつか大学に行くものだと思い込んでいた。


「僕が思うに、先生は大学に何かしら心残りというか、嫌な思い出があるのかもしれない。前は話さなかったけど、寝言で『どうして認めてくれないの』とか『賢すぎてもう理解できないわ』とか、色々口にしていたんだ。その時は学会のことかと思ったけど、どうもそれだけじゃないと思うんだ」


「……たしかに、王立大学を出てすぐに養成学園の教師になるなんて、珍しい経歴だからな。普通はもう何年か研究員として残って、実績を積んでから教授職に就くのが多いんだが」


「人の過去を詮索するのは好きじゃないけど、先生も苦労してきたんだろう」


 ハインはじっとジョッキに残ったビールを見つめる。白い泡はすっかり消え失せ、黄金色の液面にハインの逞しく凛々しい顔が映り込んでいた。


「そう言えばヘレン先生、この前の研究紀要に載せる論文が締め切り間に合わないで落としたんだったな」


 ヘルバール先生が中空を見つめながら思い出したように言う。その聞き慣れない言葉にハインは「研究紀要?」と尋ね返した。


「学園の教員が独自に研究した内容を論文にまとめて年に一回出版している冊子だ。他の学者による査読も無いから、みんな結構自由に思ったことを書いている。だがヘレン先生、仕上げる仕上げると言っておきながら結局間に合わなかったんだ。その時に編纂の手伝いをしたから覚えてるよ」


 にへへと笑いながら次のビールに口を付けるヘルバール先生。その隣でハインは先生のあの若くして人生を諦めたような顔を思い出し、ジョッキの中わずかに立ち昇るビールの小さな泡をじっと見つめていた。


 そして「なんだか辛い事情がありそうだね」とだけ呟くと、残っていたビールを全て飲み干したのだった。

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