第一幕「みにくいかえるのおうじさま」
「アンタ、どうかしたの? 元気ないけど」
「え~、そうかな?」
登下校中、詩織はいつもと様子の違うハジメに顔を近づけて尋ねた。
「アンタがそんな顔してるのは痛んだものを食べてお腹を壊したときか、食べ過ぎてお腹壊したときくらいよ」
「ええ~、ひどいよ詩織」
「そんなにお腹壊してばっかりじゃないよー」
「そうじゃないでしょ、何かあったの、って聞いたのよ」
「えっと……」
ハジメは少し眉を寄せて考える素振りを見せたが、すぐに笑って口を開いた。
「えっと、まだ内緒」
「はあ?」
詩織は思いっきり怪訝げな声を出した。
幼馴染のハジメは、いつも間が抜けていて、テストでは赤点すれすれで、魔術を使うにもしょっちゅう失敗して、何もないところで転んで、クレエのように敵意むき出しの相手にもにこにこ笑いかけてしまうような、とにかくアホの子。
もし悪意を持って近づいてきた輩がいても、何かされる前に察知出来るとは思えない。
昔から彼女はそうだった。呆れるくらいに……。いや、それは自分のせいでもある。
だから――ハジメは、私が守らなければならない。絶対に。
「えっ……?」
「っと、どうしたのよ」
教室の入り口で突然立ち止まったハジメの背中にぶつかった詩織は、親友の白い髪ごしに中を覗き込んだ。
「なに、これ?」
朝の教室の黒板を埋め尽くしているのは、
『河津キモイ』『河津はカエル』『醜いカエルは池にカエレ』……
色とりどりのチョークで書き殴られた、あまりにたくさんの罵詈雑言。それがすべて、河津満雄を攻撃する内容だった。
誰か河津を嫌っている生徒が書いたのだろうか? だが、これだけの数の落書きを一人で書けるものなのか。
詩織は教室の中を見回した。河津満雄は自分の席で俯いていた。その机の上にもたくさん落書きがあり、周囲のクラスメイトたちが彼に向けているのは冷ややかな目、ニタニタとした笑み、一様に否定的な表情だ。離れたところのクラスメイトは黒板の状態など気にも留めず、いつものような先生の陰口やテレビ番組の話題などで盛り上がっている。
これでは、まるで……
「みんなで、河津くんをいじめてる……?」
突然目の前に広がった事態に、詩織は訳も分からず寒気を感じた。
「そんな……」
詩織の頭の下で、ハジメが息を吞む。
「何突っ立ったてるの二人とも」
詩織の頭に、軽く出席簿が当てられる。
「桐山先生……」
振り返って見た担任教師はいつもと変わらない様子で、詩織はほっとした。
「先生、河津くんの悪口が黒板に……」「ひどいんだよ先生!」
二人は口々に訴えた。桐山は厳しいが、情に厚く生徒のトラブルが分かれば必ず世話を焼く。今回もそうしてくれるだろうと期待してのことだった。
だが、
「悪口……?」
怪訝げに黒板を一瞥すると、
「なんだ、当たり前のことじゃない。今更騒ぐほどのことじゃないわ」
さも河津がこんな目に合うのが当然だというように言い放った。
「え、ええ……?」
「ほらアンタたち、さっさとコレ消しときなさい。書きたくなるのは分かるけど板書出来ないでしょう―が」
「はーい」
言われて何人かが黒板消しを手に取ったが、それ以上は何もない。
そのまま、平然と朝のホームルームの準備に入る。
詩織が河津の様子を見ると、彼は裏切られたような悲痛な表情で桐山先生を見ていた。
「嘘……あれ、本当に桐山先生なの? あんなこと言うなんて……」
「うん……先生に相談したかったけど、どうしよう」
「相談? 何よそれ」
「あっ、えっと」
問いただそうとした詩織だったが、
「河野! 槙野! 早く席に着きなさい!」
ドスの効いた声で一喝され、
「は、はいぃ!」
ひとまず教室に入るしかなかった。
その日の学校では、ことあるごとに河津への迫害を見ることになった。体育と魔術実技の時間では競技中にボールや魔術球をパスすると見せかけて河津の体、時には顔にぶつけ、たまらず彼が倒れて蹲ると、嬉々として何度もその背中にボールを放った。まるで打ち合わせでもしていたかのように、誰も、教員たちも咎めない。そればかりか、意図的に河津が答えられそうにない問題を答えさせたり、わざと彼にきつい仕事を回させたりした。そして誰も彼も、河津が泣きそうになっているのを見て薄笑いを浮かべている。
まるでおかしいのは自分だけなのかと不安にかられ、傍にいるハジメを見る。その顔には珍しく不安げな、心配そうな色が浮かんでいて、少しほっとすると同時に、ハジメにこんな顔をさせている今日の学校の全てに苛立ちを覚えた。
やっと昼休みのチャイムが鳴り、詩織はハジメを教室の外に連れ出そうとした。得体のしれない、いじめの連帯感からハジメを庇って逃げ出したかった。
だというのにハジメは、
「ごめん、いくとこあるから」
「どこに行くっていうのよ?」
「えっと、校舎の裏……?」
「何しに?」
「よ、呼ばれてて……」
歯切れが悪い。ハジメのことで、自分が把握していないトラブルの種がある――それは詩織をひどく苛立たせた。
「言いなさい」
低い声で促す。が、意外にこういうときのハジメは強情だった。
「ううん、黙ってるって言ったから」
「じゃあいいわ、勝手についていく」
「ええ……」
「ほら行った行った!」
背中を半ば乱暴に押して、ハジメの後をついていく。目の前で揺れる白い髪を見ていると、何度目かの苦い記憶が刺激される。ハジメは私が守る、今度こそ必ず。
校舎の裏、古ぼけたベンチが置いてある場所。そこまでハジメが歩いていくと、影になっていたところから何人かの女子生徒たちが現れた。校則に違反しない範囲内の厚化粧、マニキュアやアクセサリーで、金色やクローバーを取り入れたものを身に付けているグループ……クレエの『親衛隊』を気取る取り巻き連中だ。あの決闘のとき、ハジメにブーイングを浴びせていたことを、詩織は忘れていない。
「あら、槙野さん。河野さんまで」
リーダー格の少女が、どことなく棘を含んだ口調で話しかけてくる。詩織は確信した。こいつはハジメの『敵』だ。
「ハジメに何の用なの」
「あら、そんなに睨まないで。親睦を深めたいだけよ。あなたも混ざる?」
「ふざけないで。こんなところに呼び出して何を……」
ハジメを庇うように進み出る詩織は、妙なことに気が付いた。親衛隊の生徒たちは、リーダー以外ハジメを見ていない。まるでハジメ以外に嫌悪の対象がいるかのような……。
「決まってますわ」
「この、身の程知らずの河津満雄に、鉄槌を下すのですわ」
一瞬、詩織は理解が遅れた。状況が、文脈が噛み合っていない。戸惑いは、親衛隊の輪の中で砂利だらけの地面に土下座するようにして蹲る河津を見ても収まらなかった。親衛隊はハジメを脅そうとしていたのではなかったか?
「河津君……?」
ハジメが名前を呼ぶのが後ろから聞こえた。
「ほら、はやくそのベルトを外しなさいな」
一人が弄ぶようにつま先で河津の背中を小突き、彼は身震いしながら音を立ててベルトを差し出す。
「ちょっと!? 何を……」
制止しようとするのを遮るように、縮こまる背中に革のベルトが叩きつけられ、鋭い音が響いた。ハジメが「ひっ」っと息を吞むのが分かって、詩織はようやく頭が動くようになった。
(こいつら、まさか本気で……? でも、直接暴力を……?)
この手の連中は、おおよそ陰で悪質な噂を広めるなどして間接的ないじめをネチネチと行うものだ。直接に、しかも証拠になる体の傷を残すような真似をするのは、『らしくない』。
「ほらほら、次は貴女の番でしてよ」
「あら、ありがとう」
ベルトは別の親衛隊の手に渡る。彼女は嬉々としてそれをしならせた。
「まさか、あなたのような底辺が田端菜帆のような子に告白するなんて、身の程知らずも良いところ。しっかり体に教えてあげなければいけませんねぇ?」
ねっとりと言うと、また背中を鞭打つ。肉を打つ鈍い音。
「ううっ……」
再度の鞭うちで、河津の口から呻きが漏れた。
「底辺は悲鳴も無様ですねえ。ねえ、今度は顔にしませんか? 二度と田端奈帆にたわけたことを口走れないような顔にしてあげましょうよ」
「良いアイデアです、そうしましょう。顔をあげなさいな」
涙をいっぱいにためた河津の目を眺めて、至極楽しそうな彼女たち。三度ベルトが渡され、顔にゆっくりと近づけられる。
「ちょっとやめなさいよ! 寄ってたかって……」
詩織が一歩踏み出したとき、後ろにいたハジメが飛び出し、河津と親衛隊の間に割って入った。
「あら、槙野さん。貴女もおl仕置き、したいんですか?」
歓迎するように、彼女は右手にぶら下げたベルトを差し出す。
「……ダメだよ」
締まらない顔をそれなりに引き締めて、ハジメは両手を左右いっぱいに広げた。制止のジェスチャー。
「あら……? これはどういうつもりかしら、槙野さん」
「ハジメ! 何してるの、危ないでしょ!」
思わず駆け寄り、真横に広げた腕を掴んで引き離しにかかる。
「詩織は、詩織は! 河津君を助けなくてもいいの!?」
珍しく強情に、ハジメはその場から離れようとしない。詩織の引っ張る手に抗い、河津を庇い続ける。
「アンタに何が出来るっていうの! いいから……」
「ひどいよ! わたしだって、やるときはやるんだよ!」
「そんなのろくなことにならないでしょーが!」
言い合う二人に辟易したように、親衛隊のリーダーがかぶりを振る。
「参加しないのなら大人しく見ておいてくれないかしら? ほら、そこをどいて」
「どかないよ! 御崎さんだめだよこんなこと!」
詩織を取っ組み合いながらハジメがリーダーに向けて叫んだ。
「クレエちゃんはこんなことしても喜ばないよ!」
「クレエ……クレエ様……?」
クレエの名前を聞いた途端、親衛隊リーダーは動きを止めた。目が映ろになり、ぶつぶつと何かを呟く。
「クレエ様……? でもわたくしは田端奈帆のために……」
「な、なに、どういうこと?」
糸の切れた操り人形のように立ち尽くすリーダーを見て、詩織は説明を求めたが、
「おい、何をやっとるか」
野太い声の方向を見ると、教師の堀川が非常階段に立ってこちらを見下ろしている。
「堀川先生、この子たちを止めて下さい! 何があったのか知りませんけど、いくらなんでもやり過ぎです!」
「そうです!」
依然引っ張り合いながら堀川に訴える。
だが、堀川の反応は桐山と同じように、
「何を言っておるか。当然のことだろう」
と答えるのみだった。
(堀川先生まで……)
「お~い手が止まってるぞ! はやくしろよー」
「もっと叩いてぇ!」
「デブのカエルを踏みつぶせ~」
いくつもの声が頭上から飛んできて、詩織もハジメも弾かれたように上を見た。
校舎の裏側の窓という窓から生徒たちが実を乗り出してこちらを見物している。滅多に見れない見世物のように――
「あ、あんたたち……?」
詩織はぞっとした。
(なに? 全校生徒、先生みんなが……いじめを?)
そうだとしたら、あまりにも常軌を逸している。違うクラス、違う学年ならそもそも河津の名前すら知らない生徒だっているはずだ。なおかつ、彼がそんなに大勢の不興を買っていたならもっと早くこなことがあってもおかしくない。
(どうして、今日になって突然……)
「みんな!」
考え込む詩織の手を振りほどいて、ハジメが校舎の生徒に向かって呼びかける。
「みんな、どうして河津くんをいじめるの!? いじめは、よくないよ!」
「ハジメ!?」
それはその通りだが、様子の可笑しい圧倒的大多数にそんなきれいごとが通用するはずが――
「邪魔だなあ……黙っててくれない?」
誰からともなくそんなことを言い始めたかと思うと、非常階段を使って十数人の生徒が降りてくる。手に手にスマートフォンを持ち、どうやら魔導書アプリを立ち上げている。
周りの空気が一気に熱を失い、冷えていく。魔術戦のセオリー、使える伝子リソースの確保。二人は確実に出遅れた。しかも詩織はアプリで魔術が使えるがハジメはハードカバーを教室に置き去りにしたままだ。当然のように堀川も魔術を使った私闘を咎める様子はない。
「な、なんで……」
ハジメは怖気づいたのか、一歩下がった。
降りてきた生徒たちはゆっくりと迫り、二人を半円状に包囲する。口々に魔術式が読み上げられ、重なって聞こえるそれは不気味な調べだ。
「ハジメ」
詩織は片手で端末を操作しながら、傍らの右手をもう一方の手で握った。包囲を見渡しながら、
「撃ってきたら、私が防ぐからハジメは隙を見て逃げなさい」
「えっ……ダメだよ! みんなに詩織がいじめられるのほっとけないよ! 河津くんも助けないと……」
言い募るハジメに詩織はぴしゃりと言い返す。
「駄目。ハジメは私が守るから」
「詩織……?」
「ほら、来るわよ!」
二人に向けて、炎、氷、雷、闇の特性を持つ魔力ボールが、バレーボールのサーブの要領で打ち出される。
詩織が張った半球状の防壁に次々と着弾。相手は多数、こちらは一人のため長くはもたない。次々に透明な防壁にひびが入りはじめる。
「次の一発で敗れる、あっちに走って!」
なおも躊躇うハジメを詩織は突飛ばそうとしたが、その前に3発のボールが飛んできた。
とっさに自分の体で庇おうとしたが、
「――『復讐の四枚葉』!」
凛とした声の魔術式が響き渡り、黄金の光が二人の前に飛んできて、巨大な四つ葉のクローバーの葉を形作る。四枚のうち一枚を地面に突き、十字架のように二人を守った。
放物線を描いたボールは三つともクローバーに弾かれ、投げた者のほうへ跳ね返るように戻りながら消滅した。
「これって……」
「ハジメさん、詩織さん!」
校舎の反対側から駆け寄ってきたクレエは、さらにスマートフォンで魔術式を操作した。窓からも、魔術で矢を飛ばしてくる生徒が見えたからだ。
「回りなさい!」
地面に突き刺さっていた四つ葉が浮き上がり、コマのように回転する。上階から射かけられた矢が、当たるなり砕かれる。
「なんだ!? あれ!?」
「く……クレエ、様?」
「クレエちゃん、すっごーい!」
「関心してる場合じゃないでしょ!」
見とれているハジメの腕を引っ張ると、クレエも間髪入れず、
「こちらに! 状況が分かりません、一度引きますわよ!」
「待って、河津くんも……」
ハジメは彼が蹲っていたところ振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「あれ?」
「ほら、早く!」
「走りますわよ!」
ハジメを急かし、手を引いて、詩織とクレエはその場から走って逃げた。
校門の近くまで、主に親衛隊の何人かが追ってきたが、
「――鈴木!」
校門ぎりぎりに黒い高級車が素早く滑り込み、停車する。
「お待たせいたしました。槙野様、河野様も」
息一つ乱さず、運転席の執事は挨拶した。
「うわ、たかそう……」
「乗って!」
足が止まるハジメを後部座席に押し込み、自分も乗り込んだ。
「出して、鈴木」
「かしこまりました、クレエ様」
執事がアクセルを踏み込み、三人を乗せた車はあっと言う馬に学校を後にした。
「あ、お昼食べてない!」
「今はそれどころじゃないでしょ!」
菜帆は、誰もいない教室の窓から全て見ていた。鞭打たれる河津を、止めに入ったハジメと詩織を攻撃しようとする生徒たちを。
「こ、こんなの……」
あの魔導書が、ここまでの力を持っているなんて……。
「どうや、すごいやろウチの商品」
振り向く。そこにいたのは、象牙のように白い髪、墨のように黒い服。
「……夏樫さん」
夏樫はにやりと口の端を吊り上げ、
「どうや、気に入ったか?」
続く
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