魔導書の間は闇の中

  階下から絹を引き裂くような悲鳴が聞こえ、2階にいた4人は手を止めた。

「なに、今の?」

 驚いて辺りを見回すハジメと、顔を引き締める詩織。

「下から……まさか、地下に入ったの?」

「地下って、まさかクレエさんに話してなかったの」

 桐山が咎める。

「ええ。鍵もありませんし、零子さんは連絡がつきませんし、仕方なく……」

 答える詩織の声は尻すぼみになっていく。

「と、とにかくお嬢様を!」

 慌てて立ち上がるのはパピヨン。

 彼女たちが二つの階段を駆け降りると、ドアの向こうの漆黒の壁を叩きながら声を枯らしている執事が見えた。

「お嬢様、お嬢様ぁ! ご無事ですか! お返事をなさってください!!」

「鈴木さん、これは……」

 弱り切った顔で振り向く鈴木。

「はい、地下室を見つけたことをお伝えするとお一人で調べるとおっしゃったので……ああ、この鈴木、一生の不覚でございます。なんとお詫びすれば……」

「落ち着いてください。つまりクレエさんが地下の扉を開いてここに入ったと?」

 鈴木は重々しく頷く。

「これはいったい……地下室ってこんなだったの?」

 家主であるハジメは、目を丸くして戸口を眺めている。

「これ、魔術で出来た障壁……みたいだけど、見たことないタイプね……触った感覚はないのに、向こうへは突き抜けられない。熱くも冷たくもない……」

 桐山の言葉を裏付けるように、伸ばした手で押しても手ごたえが一切ない。壁というより濃密な靄のようだ。

「お嬢様!」

 叫んで、メイドが頭から飛び込んだ。が、あっけなく跳ね返されて尻もちをつく。

「痛い!」

「先生にも分からない……どうしたらいいの? 私が黙っておくように言ったのが悪かった……?」

 詩織は青い顔でぶつぶつと呟いている。誰も、クレエを助ける手立てが取れずにいた。

「えっと……」

 周囲と違ってハジメは落ち着いていた。というより、みんなが取り乱すのに一歩テンションが付いていかなかった。と、何か柔らかいものがジャージの足元に触れる。

「あれ、クロスケ? 猫缶ならもうないよ?」

 いつの間にか入ってきていた黒猫は、じっとハジメを見上げると、前足でハジメの足をバシバシと叩く。

「ちょ、痛いって」

 さらに、裾を咥えてひっぱる。

「やめてって伸びちゃう」

 叱るように言ってもクロスケはお構いなく、ハジメを書庫のドアの近くに連れていく。

「えっ? なに?」

 一声鳴くと、クロスケはまた足を叩く。人間なら、背中を押しているつもりだろうか。

「えええ、行けってこと? ファガルドさんを助けに?」

 鋭く鳴くと、苛立ったようにさらに猫パンチを繰り出す。

「ううん……」

 墨のように黒い霧を見つめ、ハジメはためらった。

 ハジメはもう一度他のみんなを見回す。桐山はいくつもの魔術を使っているが、障壁を破れない。詩織はパニックになっており、執事とメイドも打つ手はない。そんななかで、ハジメにできることと言えば、出来ることといえば……なんだろう?

「でも……」

 クレエについてメイドが語っていた言葉を思い出す。クレエの、友達……

「友達……わたし、なれるかな?」

 クロスケは、呟いたハジメの顔を見上げて、もう一度、今度は優しく前足を触れさせた。

 ハジメはつられて笑顔になったが、黒い靄の壁を見て首を振る。

「いやいや……先生でもこの中に入れないんだから、絶対無理だって……」

 右手を顔の前でぶんぶん振って、黒い壁に左の手のひらを触れさせる。当然、跳ね返される……と思いきや、左手は靄を突き抜け、肘まで沈み込んでいく。勢いあまって体が体が傾く。

「うぇっ? ど、どうなってるの?」

 慌てたころにはもう遅かった。踏ん張ろうとした片足を猫パンチで払われ、バランスを崩したハジメは真っ黒な靄の中へ転がり落ちた。

「は、ハジメ!?」

 詩織が気づいた頃にはハジメの姿は消えていた。後を追おうとしたが、黒い壁がそれを阻む。

「この書庫はどうなってるのよ!」




 足を踏み外した――と思ったクレエは、闇の中をゆっくりと落ちていった。口から飛び出した悲鳴が止んだころには、異常さに気が付く冷静さを取り戻していた。これは高所からの落下ではない。まるで紙がそよ風に踊るように、漂うように下へ下へと向かっていく。

「っく……これは、一体」

 呟く。どうやら風圧は感じないようだ。

 地下とは言え、ここまでの空間があるとは信じられない。床は何メートル下なのか、そもそもこの空間に「底」はあるのか。

「冷静になりなさい……ファガルド家の人間として、切り抜けるだけのこと」

 スマートフォンから、照明を作り出す術式を選び指を走らせるが、何も反応がない。他の魔術も試すが、やはり画面はフリーズしたように変化しない。

「なら……っ」

 開錠に用いた魔導書を開いても、結果は同じだった。

「魔術が……使えない?」

 まるで目が見えなくなったような衝撃。

 ハジメが魔導書を暴走させたように伝子が過剰に吸い込まれているのか? それなら、猛烈な冷感があるはずだ。だが、恐怖を感じこそはすれ、実際の寒さは感じない。そうでないなら、クレエが今落下し続ける空間には、それだけの容積に見合った伝子と魔力があるはずだ。

 それに手を付けられないのは、

 理屈に合わない。理解できない。

 冷静であろうと強いてきたもののタガが外れ、胸の中をパニックと恐怖が満たす。

 自らを家名に恥じぬ後継者となるべく魔術の研鑽を積み、年相応の遊びや交友を禁じてきたクレエにとって、その魔術がことごとく使えず窮地に陥るのは耐え難いことだった。

 積み上げた努力と自信、縋ってきた才能――それら全てが濃密な闇に奪われ、嘲笑われているようだった。

 分からない、分かりたくない。信じたくない。

「いや……」

 知りたくない、知らされたくない。

「いや、いやよ……」

 自分には出来ないのだと。

「……いや……」

 自分には本当は才能などないのだと。

「いや……助けて……助けて……」

 ファガルドの家を継ぐのに相応しくないと。

「だれか……たすけて……」

 父に、認めてもらえないのだと。

「おかあさま……」

 亡き母に誇れる自分には、成れないのだと。

 否定するたびに溢れるものに、心が押し潰されていく。

(おお、クレエ。これに興味があるのかね)

 幼き日の、穏やかな声。急に頭の中に響いた。それは頭の中だけでなく、この空間の中にも響いていた。

(クレエは賢いな。もうこんなに読み進めてしまうとは。さすがはファガルドの娘だ)

(偉いわ、クレエ。将来が楽しみね)

 初めて魔導書に触れ、褒められた記憶。彼女が誇りとしてきたもの。だが今は、遠いトンネルの向こうから届く音のように、寒々しく虚ろだ。

(わたくし、クレエ・ファガルドは必ずやおとうさまと、おかあさまが誇りに思っていただけるような魔術士になります)

(ええ、きっとなれるわ)

 たどたどしい幼い自分の誓い。そのためにこれまで魔術に打ち込んできた。

(どうして? なんでお母さまのように出来ないの)

(焦らなくてもいいのよ。最初はだれでもそうなの。ほら)

 初めて難題にぶつかったとき。小さな胸を満たした焦り。

(主席合格……フランツ。流石だ。鼻が高いぞ)

(光栄です、父上。……クレエはどこに?)

 兄を抱きしめ、頭をなでる父の背中。同じ日に魔導書を暴走させ、部屋を一つ駄目にしてしまったクレエは叱られる恐怖と、劣等感で自室に駆け戻った。

(お母さま!? どうなさったの!?)

(フランツ、クレエ、よく聞きなさい。お前たちのお母さんは……)

 血を吐いて倒れた母――看病の甲斐もなく息を引き取った。臨終を告げる医師の横で、父は何事か呟いていた。

(お父さま、どうして? どうして行ってしまわれるの?)

(この事業のためにはどうしても必要なんだ。分かっておくれ)

(待って! お兄様も留学してしまって……お父さまも言ってしまったらわたくしは……)

(鈴木が何もかもしてくれる。誕生日とクリスマスには戻るから……)

 だが、父は数えるほどしか戻ってこれなかった。

(大きくなったな、クレエ……見せたいものとは?)

(おお、それはフランツの進めている研究とも一致する。さすがはクレエだ……)

 あるクリスマスの夜、必死で文献を調べ、どうにか再現して見せた実験だったが、疲れを滲ませる父はまずフランツの名を出した。頭を撫でられもしなかった……。

(じいや、お父さまは、なんて? そう、今年も……)

(誠に残念です。で、ですがご安心ください。当日のディナーには最高級の……)

 鈴木が懸命に説明するメニューも、耳から滑り落ちていった。

 やがて父と顔を合わせる機会はめっきり減った。最後に会ったのは何年前だったか。

 反対に、フランツや一族の若枝の名声……成果が耳に入ってきた。論文、錬金術を応用した宝飾品の開発、新規事業、開祖の遺した秘術に近づく発見……未だ学生で、せいぜい十代の子供の中で優れているだけで、一族を驚かせる目ぼしい成果など何一つない。

(叔父様の特許論文……先日不明だった部分だわ。こんな方法が……)

成し遂げたと思ったことは他の誰かがすでに辿り着いていた。

(『電子制御による伝子操作制御の絶対的限界とその矛盾』……『近代魔導書に見る古典の改竄』……お嬢様、この資料はいささか今学ばれるには早すぎるのでは)

(フランツ兄さまには出来てわたくしには出来ないと言うの!? 鈴木!)

(ゴナガル家のご主人にお礼を書いたわ。送って頂戴。それから、ヴォ―リス伯にも打診を)

(かしこまりました。しかしクレエ様、『錬金のうたかた』のためとはいえこれほど多くの国家に渡る訪問は、お体に触ります。もっと休養を。高校にも連絡を入れておきますから)

(駄目よ鈴木。学業を疎かには出来ないわ。それではファガルドにふさわしくない)

 だから、研究と鍛錬に打ち込んだ。だから錬金術の開祖の魔導書を求めた。

(クレエさーん、今度みんなでカラオケ行くの。クレエさんもどう?)

(ありがとう。でも、わたくしにはすることがありますから)

(そっかー、ハジメちゃんもお金ないって言ってたしなー)

(クレエ様がこっちを見たわ!)(あの魔術の腕前……先生よりもっと素晴らしいわ!)

(っけ、なんだよあのお嬢様。ちやほやされちゃって)(せっかく仲間に入れてあげるっていったのに。あんな子知らないわ)

無駄と断じたことは切り捨てた。自分を盲目的に慕い、あるいは敵視するクラスメイトたちから距離を置いた。露骨に贔屓をし、あるいは理不尽に接する大人たちを拒んだ。だから、外では一人だった。いつでも。

(クレエ様! 見つけました、『錬金のうたかた』を! 間違いなく初版です)

(本当に!? 本当なの、鈴木!?)

 今、ようやく掴みかけた輝かしい成果。

 自分はそれに手を届かせることはおろか、自分ひとりの身すらも助けられない。

 いつしか体は震え、目からは涙が流れていた。

(クレエ、お前はファガルドの人間だ。滅多なことでは泣くな。弱音を吐く前に……)

 押しつぶされた自信に鞭打つように、闇がスクリーンとなり、追憶の情景を映し出す。

 眩しい日の光を背に、父が幼い自分を険しい顔で見下ろしている――

(クレエ、頑張るのはいいけど無理はしないでね……お母さん、心配なの)

 やせ細り、ベッドに横になった母が、自分の頬に手を伸ばす。枯れ枝のような指は冷たく、その笑顔は寂しそうだった。

 場面が切り替わった。母が寝て居るのはベッドではなく棺だった。花で彩られ、目を閉じた姿。過去の自分の涙声。それを見ているクレエは、嗚咽を押し殺そうとした。こらえきれず、顔を覆った手の間から雫がこぼれ出た。

 塗り固めてきた己のあるべき像と、なすすべのない今の自分。その違いが、クレエを苛んでいく。

 ああ、いっそこのままこの真っ暗な闇の中にすべて溶けて消えていけたら……

「いった! 痛い……えっと……ファガルドさん?」

 突然声が聞こえた。頼りのない、間の抜けた、どこか暖かい声。

 体を捩じって声のほうを見ると、暗闇の中に立ち、こちらを見下ろす槙野ハジメが、そこにいた。痛そうにぶつけた鼻を押さえている。

「槙野……さん?」

 見られた、という衝撃が胃を打った。

 みっともなくしゃくりあげている自分を。誰にも見せないようにしてきた自分を。誇りと自信のメッキを暴かれた、貧弱な女の子の姿を。

 クレエは、怯え切って震える体を硬くした。

「こないで!……わたしを見ないで!」

ぎゅっと目をつぶり、どんな言葉が降ってくるかをただ待った。

 だが、ハジメは――

「大丈夫? どっか痛いの?」

 閉じた目を開けると、ハジメが心配そうに覗き込んでいた。闇の中、彼女は平然とそこにいた。

 弱弱しくかぶりを振る。まるで幼いころ、母親に泣いているのを慰められていたときのように、無力で、なにかに縋りたかった。

「じゃあ、お腹すいた?」

「な……そんなことではわたくしは泣きません! 馬鹿にしているのですか!」

 身を起こし、反論する――不安と恐怖を一瞬忘れていた。

「うーん、違うかあ……」

 頭の横を片手で掻いてから、ハジメは手を伸ばす。

「なんか、ここ暗いね。とりあえず、外に出よ? それから、休憩しておやつ食べない? おまんじゅう買ってあるんだよ」

 ぼんやりした、締まらない笑顔で、ハジメはクレエに右手を差し出した。

「槙野さん……」

 お菓子など――そう反撥しようとして、口を開き、しかしそれを飲み込み、代わりにこう言った。。

「でも、どうやってここから出ると言うの? こんな、出口の見えない場所で……魔術も使えない場所から」

いやいやをするように首を振った。状況の深刻さを知らないようなハジメに、もどかしさすら覚えながら。

 「わたし、前にもここに入ったことがあるんだ。こんなんじゃなかったけど。でもそのとき出てこれたんだから、きっと今も帰れるよ。なんでこうなってるかはさっぱりだけど」

 ハジメは言葉に迷いもしなかった。

 無茶苦茶な理屈だった。いや、屁理屈ですらないのかも知れない。保証も、推論すらもない、それはただの感覚だった。あてずっぽうだ。

「なんですの、それは」

 涙が止まっていた。腹立たしかった。

「あなたは怖くないの、不安ではないの!? 未知の、わたくしたちにはどうにもできない状況に放り出されて! 魔術も、この端末ですらも、自由にならないのに!」

 責めるようにハジメに言葉を投げた。

「だってわたし、普通でもちゃんと魔術が出来ないし、ケータイそもそも置いてきちゃったし。焦ってもしょうがないから」

 開き直るように、ハジメは手をひらひらさせた。

「わたくしはあなたとは違うんです!」

 またも反撥したが、ハジメは瞬きしただけだった。

「家名が! 誇りが! それにふさわしくならなければ、わたくしは!」

 先ほどまでとは別の涙が、あふれ出した。

「あなたには分からない! 天才の槙野博士の元に生まれながら、魔導書に囲まれながら、知識も実践も深めず、失敗して、バカにされて……なのに焦りもせず、そうやってへらへらと笑っていられるあなたには! 分かってたまるものか!」

 先日から胸に渦巻いていたものを一息にぶちまけたクレエは、肩を大きく上下させた。呼吸が苦しい。

 ハジメは――受け止めた言葉の重みを持て余すように、眉を下げた。

 彼女にはその意味を本当の意味では理解できない。頭の足りないハジメだが、感覚でそれだけは分かった。

「うん。わかんない」

 だが、彼女はそれで黙るほど賢くなかった。

「わかるよって、知らないよそんなの、ってわたしは言えないよ、詩織みたいに頭よくないから」

 ハジメは悩んでいないようだった。ただ少しだけ心配そうだった。激情をぶつけられた相手に向かって、ただただ手を伸ばしているだけだった。その手を引っ込めるほど賢くもなければ、強引にクレエを引っ張りあげるほど愚かでもない、それだけだった。

「でも、ファガルドさん、頑張ってるんだね。すごいね。うまく言えないけど、すごく頑張ってるんだね」

 にこっと笑った顔は、一切の邪気がない。というより、たいして考えていないのだろう。

「なんですの、それは……」

 数日前の決闘の後と同じく、クレエはハジメにただただ呆れ返っていた。

「あ、そうだそうだ! わたし、メイドさんに言われたんだ。お友達になってって」

「お友達?」

「うん」

 誰と、誰が?

「わたしと、ファガルドさん」

 ハジメは自分とクレエを指差した。

「パピヨンが、そんなことを……」

 どこか軽率な若いメイド。彼女のささやかな望み。目の前のこの少女の口から聴くと、なぜかそれは難しいことではないように思えた。そんな自分に、少し戸惑った。

「うん。友達。嫌かな?」

 ハジメは小首を傾げた。ここで拒否したら、彼女はなんと言うのだろう? 傷ついて悲しむ? せっかくの好意を、と怒る? どちらも違う気がした。ただ彼女は呆れるほど単純なのに。ずっと手を伸ばしている。クレエがそれを掴むことを疑わずに。メイドの、あてにもならない言葉を信じて。

クレエは差し出された白い手のひらをしばらく見つめ、それからハジメの顔を見上げた。

 (ほら、クレエ。手当しなくちゃ。それから、手を洗ってお茶にしましょう)(……おかあさま……)

 耳に蘇る、母の声。思わず涙が滲む目を拭うと、彼女はハジメの手を取った。

「……構いませんわ」

 答えた声はか細い。それでも嬉しそうにハジメが握り返すと、周囲の靄が消え去り、戸口から光が差し込み、分厚い魔導書がぎっしり詰まった書架が照らし出される。

「やった! ね、やっぱり外に出られるんだよ」

 ハジメは原理をいぶかしむこともなく、ただ喜んだ。

 本来の目的も忘れ、ハジメの手に縋りつくように立ち上がったクレエはしかし、白く浮かぶ戸口に恐怖した。

「槙野さん……」

「どうしたの? お腹へった?」

「ですから違います」

 ハジメへの呆れが怖さを紛らしてしまう。否定して、なんとか伝える。

「……このまま外に出るのが怖い、のです。わたくしはもう、誇りあるファガルドの人間に、なれないのでは……」

 そうしたら、また恐怖に飲まれてしまう。白い手を固く握る。今は彼女しか捕まるものがない。

「うーん、友達でしょ? そうなったら頼ってよ。構いませんって、OKってことでしょ」

 相も変らぬ、無責任なほどに保証のない言葉。愚かしいほどに。

 それでも、クレエはつないだ手のささやかな温度を感じ、少しだけ頬を緩めた。

「……あてになりませんが、感謝しておきましょう。あなたはあてにはなりませんが」

「ひどーい! ファガルドさん、詩織みたいなこと言っちゃって」

 ぷーっと頬を膨らませる、子供っぽい顔を見ていると、肩の力が抜けた。今だけはそれがなんだか心地よかった。

「……友人だと言うなら、まずはファーストネームくらい呼んだらどうなのです」

「うん! クレエちゃん!」

「……」

「クレエちゃんも! わたしのこと呼んで」

「……槙野さん」

「あー! なんで? 恥ずかしいの?」

「恥ずかしがってなどいません!」

「じゃあハジメって呼んでみてよ」

「……考えさせてください」

 そうして、二人の少女は書庫の外に出た。眩しい電灯の光の中で、彼女たちを待つ人々の顔が見えた。

「ハジメ!」「お嬢様!」

「えへへ。救出成功! みたいな?」

 にこにこVサインを作る彼女は、詩織に頭をはたかれた。

「クレエ様、お怪我は……申し訳ありません、お役に立てませず」

「いいのよ、大丈夫よ。鈴木、パピヨン。……ありがとう」

 痛切な表情の執事と、体中をぺたぺたと触って無事を確かめるメイドに、クレエはそっと囁いた。

彼ら人間の様子を見ていた黒猫は、満足そうに一声鳴いて、階段を上がっていった。





「で、どうしてハジメはあの中に入れたわけ」

 二階の居間で、クロスケの背中を撫でながら、詩織が鋭く問う。

「うう~ん、わかんない。真っ暗で何も見えなかったけど、着てる服がキラキラしてたからどこにいるか分かっただけ」

 饅頭で頬張りながら、ハジメは素直に答えた。

「でも、まあいいじゃんファガルドさん無事だったし」

「良いわけないでしょ、一応は専門家の私が正体も分からないものを何もしてないのに素通りって……」

 爪楊枝できんつばをつつきながら、桐山がため息をつく。

「でも、そういう無茶苦茶なら先生もやってましたよね? あの暴走をボール一個で止めるなんて」

「あれはごり押せばなんとかなるやつで、今日のは完全な理不尽なの。零子だって、こんなとんでもないことは……」

「そのことなのですが……あの書庫に障壁を作ったのは槙野零子様なのでしょうか?」

 湯呑を両手で持ちながら鈴木が問う。着ているのは燕尾服だが、彼が背筋を伸ばして正座していると何故か様になった。

「少なくとも零子からは聞いたことないですね。けど、あそこにあるのは売り物よね。仮に盗まれないように魔術を設置するとしてもあんなもの置いたら、取りに行くのも大変なはず」

「マキノママって、あの部屋のキイ持って旅に出てるんだよね。マキノにはあそこの本、売って欲しくないのかな。でもでも、それだと本屋さん儲からないんじゃないかな?」

 パピヨンは頬杖をついてさかんに首をひねる。

 彼らは、クレエを助け出した後もう一度書庫に入ろうとした。だが、またあの黒い靄が行く手を阻んだ。

 打つ手もなく、書庫に求める魔導書があるのかも分からず、ハジメの主張に従ってこうして休憩を取っている。

「お母さんに聞ければいいんだけど……」

「滅多に連絡もないし、ね」

「結局、錬金術の魔導書も見つからなかったわけだしね……」

 桐山がクレエの手にある本、すり替えられた魔導書を見遣る。

 クレエは、饅頭の置かれた皿を見つめて黙っていたが、目を伏せたまま口を開いた。

「きっと……わたくしには、まだ早いということですわね。仮にあの部屋に『錬金のうたかた』の本物が隠されていたとしても、あの障壁が槙野博士の仕掛けたものだとしても。私がそれを突破し、奥義を掴むには、未熟に過ぎるということですわ」

 苦い表情で、その言葉を絞り出す。プライドの高い彼女が、自分に言い聞かせるように、諦めるように。その顔色には先ほど味わった恐怖がぬぐい切れていない。

「お嬢様……」

「だったら……そう思うなら、自分を高めて、頑張りなさい。それであの靄を突破出来るようになればいいのよ」

 そっと寄り添うように、桐山が言った。

 クレエが、滲む目で桐山を見る。

「先生……」

「まあ、さっきも言った通りこの私にもあの靄だか壁だかの理屈は分からないから、あんまり偉そうなことは言えないけど。でも、急ぎ過ぎずに、たまにはこんな先生でも、そこの同級生二人でも、誰かを頼ることも覚えなさいね。一応は先生だから、言っておくわ」

 ふっと、諭すように笑うその顔は、人生の先輩としての大人のものだった。

 以前なら、きっとクレエは聞き入れなかっただろう。だが、今は――

 クレエは目を何度か瞬かせてから、桐山に頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 頭を上げると、彼女のお腹が小さく鳴った。

「あ、やっぱりお腹すいてた! もっと持ってくるから、いっぱい食べてね!」

 ハジメは明るい声で言うと、台所に向かっていった。

 クレエはハジメの姿を目で追っていくと、

「……頂きます」

そっと自分の饅頭に手をつけた。


 商店街には夕焼けのオレンジ色が差し込んでいる。

「じゃあ、今日は早く休むのよ」

「槙野様、本日はありがとうございました」

 店の看板の下で、ハジメたちはクレエたち三人を見送った。

 捜索はひとまず打ち切りとなった。零子と連絡が取れない以上、あの書庫には手を付けられず、また専門機関に調査を依頼することはやはり書店の経営を考えると躊躇われたからだ。加えて、クレエが今すぐに件の魔導書を手に入れずとも良いと言った。

「それでは、御暇いたしますわ……槙野さん。助けて頂きまして……ありがとうございました」

 目を逸らしながらも、クレエはハジメに頭を下げた。

「ううん、わたしも、なにか分かったらすぐに言うからね。クレエちゃん」

 友達に――ハジメは、取り合えずそこからはじめた。名前を呼ぶこと。距離が近くなった気がするからだ

「……ええ、よろしくお願いいたします。。……ハジメさん」

 少しだけ、クレエはぎごちない笑顔で頷いた。

「うん、クレエちゃん!」

 にっこりと、この日一番の笑顔を浮かべた。

「えっと、あの……」

 そんな二人を見て、詩織が居心地悪そうに切り出す。

「あの、クレエ……地下の書庫のことを黙るように言ったのは私よ。そのせいであんなことに……ごめんなさい」

 詩織の謝罪に、クレエは苦笑を漏らした。

「そうですわね。今後は……信用して、相談してくださると助かりますわ。頭を柔らかくして、ね」

「なっ……」

 下げていた顔を跳ね上げて、詩織が睨む。

「お互いに」

 真顔を僅かに頬を緩める。詩織は意外そうな顔をした。

「あれ、詩織、クレエちゃんと仲良しだね」

「仲良くないわ!」「ありえませんわ」

 同時に言い放つ二人に、大人たちは微笑みを浮かべた。




薄青く染まる車窓の外の町並み。クレエは、見るともなく流れていく景色を見ていた。そうしていると、全身に疲れと眠気を感じた。

「お疲れでしょう。しばしお休みになられては?」

 執事のバリトンが耳にやさしい。生まれてからずっと、実の親以上に聞いてきた声。

 いつもなら跳ねのけたろうが、今は意地を張る気が起きなかった。代わりに、鈴木への愛おしさすら感じていた。

「クレエ様、笑ってる! なんかいいことあったの?」

 隣に腰掛けるメイドが嬉しそうにした。

「これパピヨン、言葉遣いを……」

「いいのよ、鈴木」

 どこか気の抜けたパピヨンは、ハジメに似ているのかもしれない。だが、その軽薄な口調に似合わず、ずっと主人を心配していたのだ。

「わたくしは……」

 今日一日で掴みかけた何かを、口に出して確かめようとして、そこから先はむにゃむにゃとした寝息に変わっていった。

 メイドが年下の妹を見るように目を細めて、クレエの頭をそっと撫でた。

「……お疲れさまでした。クレエ様。ごゆっくりお休みになってください」

 鈴木の顔にも、父親のような笑みが浮かんだ。




 商店街の最後のシャッターが降りた夜半。

 月の光を浴びながら、黒いローブの男は『槙野よろず書店』の看板を見つめた。

「地下の空間……定かには探れなかったが、間違いなく求めるものはそこにある。あのメッキのお嬢様には感謝せねばならんな」

 一人ごちると、男は闇夜に消えていった。





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