槙野よろず書店――今日もお客さんは来ない――
「んーよく寝たー、お腹すいたー」
ホームルームの時間まですやすや眠っていたハジメは、校舎から出ると大きく伸びをした。
「まったく……お気楽ねえ。魔導書も返ってきてないのに」
「大丈夫、だって詩織、来てくれるんでしょ?」
「はあ、まあ欠席したぶんのノート借りたしね。二人で見たほうが早いわ」
「うっ……午後の授業って数学だよね」
「そうよ、逃がさないからしっかり勉強しなさい」
「うう……」
長い影を二つ伸ばして、商店街まで歩いていく。
「で、もう大丈夫なの?」
「んー、指先が冷たいくらいかな」
「指?」
詩織はハジメの空いたほうの手に目をやると、ひょいと掴んだ。
「そうね、まだ冷たいわ。……じゃあ、ごはん私が作るわ」
「え、いいの? ありがとー」
「こんな手で料理したら絶対失敗するもの」
「えー、大丈夫だよー」
「信用できないわ」
「ひどいなあもう」
手を握られたままのハジメは、詩織の手の温度が伝わるのがなんだか嬉しくて、にっと笑った。
「何笑ってるのよ」
顔を背ける詩織と繋いだ手を、軽く揺らす。
「あらおかえり、ハジメちゃん。しーちゃんも」
「おばちゃんただいまー」
「おかえり」
「ただいまーおじちゃん」
ところどころシャッターの降りた商店街の奥に進むと、住人たちが声をかけてくる。ハジメは昔から名前を知っているが、みんな「おばちゃん」「おじちゃん」で済ませてしまう。
やがて「槙野よろず書店」のシャッターの前まで来ると、ハジメは錆びた鍵を、詩織はスマートフォンを取り出した。受け取ったハジメが、詩織に指示されるままに開錠の魔術を使うと、シャッターが音を立てて上がり、レジの電源が点いて空調が働き始める。
「いつもやって欲しいなあ、私の本じゃ時間かかるし、シャッターめちゃくちゃ重いんだよね」
自分の手で開けようとして挟んだ指の痛さを思い出して、ハジメは呻いた。
「毎日は無理、私だって部活あるもの」
「んー、残念」
話しながら、ハジメはエプロンを付け、レジの釣り銭を確かめた。残額がかなり厳しく、付箋にマジックで「十円玉が少ないです、ご協力ください」と書き込んで貼り付ける。
「さて、お客さんが来ますように!」
ぱん、と手を合わせてハジメは祈った。
「お客さんこない……」
店を開けて半時間。レジに突っ伏して呻く。
「いつものことじゃない」
その横で、詩織がスマホをいじる。
「今度、田端さんたちがカラオケ会やるって。どうする?」
「いきたい!けどお金ないなー」
「そう。じゃあ断っておくわね」
「詩織は?」
「そこまでカラオケ好きじゃないもの」
「そっかー」
返事をして、外に目をやる。商店街の奥にあるここへは、なかなか通行人も通らない。昨日は店の前で呼びかけをしてみたのだが、喉が痛くなるので控えることにした。
にゃあ、と足下で声がした。レジの前をのぞき込むと、真っ黒な猫がじっとこちらを見上げている。
「クロスケ、また来たの?」
エサ代が財布に辛いハジメは眉を八の字にしたが、
「クロ~クロスケやーい」
詩織はニコニコして抱き上げた。頬を寄せると、嫌がるように体をよじらせる。
「この子私には冷たいわよね、なんでだろ」
「さあ……でもみんなにそんな感じだよ」
クロスケは数年前からこの商店街に居着いており、住人のほぼ全てに可愛がられている。が、店の余り物やエサをもらうのは良くてもべたべた触れられるはお気に召さないらしい。
「あ、ちょっと」
詩織の腕の間から抜け出し、レジを飛び越えてハジメに向かって飛び込んでくる。
「わわっ……どうしたの、クロスケ」
エプロンの胸にぶつかってきた猫の体を慌てて抱える。
胸元からじっとハジメの顔をのぞきこんだクロスケは、まばたきを一度すると、舌を伸ばして目の前の頬をぺろっと舐めた。
「なあに、くすぐったいよ」
なおも黒猫はハジメに抱えられながら見上げていたが、興味をなくしたように欠伸をすると膝の上に降りて丸くなった。
「こら、勝手に寝ない……って、聞いちゃいないか」
諦めると、ハジメは耳と頭を撫でてやった。どこかで日向ぼっこでもしていたのか、黒い毛並みがぽかぽかと温かく、手に心地よい。
「ハジメにはやたら懐いてるわよね、ずるいわ」
「懐くっていうか……エサくれエサくれって絡んでくるからただでさえ厳しいのにお金がなくなっちゃうよ」
「でも買ってあげるんでしょ、だから甘えるのよ」
「甘え方が可愛げないけどね」
口を尖らせるハジメ。
「そこが猫のかわいいところじゃない」
詩織も手を伸ばして耳を撫でる。
「はあ、クロスケが招き猫になってくれたらいいのに」
呟くと、一瞬クロスケの耳がぴくりと動いた。
「ハジメちゃん、いるかい?」
きさくな声のほうを見ると、ほっかむりをしたご近所のおばさんが入り口をくぐるところだった。
「五反田のおばちゃん」
「これ、回覧板ね。今度ゴミの回収日変わるから、メモしとくんだよ。忘れるんじゃないよ」
手渡しながら念を押されたのは、以前ハジメがゴミの分別回収の曜日を間違えてちょっとした臭いトラブルが起きたからだ。
「あはは……気をつけます、ありがと」
「うん。あれ、詩織ちゃん、来てたのかい」
「この子が学校で保健室送りになったので、手伝いに」
「保健室? ケガでもしたのかい、平気かい?」
ぐっと身を乗り出して来るので、慌てて手と首を振る。
「平気平気、ちょっと魔術で失敗して凍えただけだから」
「魔術で? 気をつけるのよ」
こくこく頷くと、おばちゃんは両手を腰にあててやれやれと首を振った。
「あ、そうだ。今度の土曜日、学校の友達遊びに来るから、お饅頭とか買いにいくね」
「あらそうかい。毎度ご贔屓に。どんな子なんだい?」
「えっと、金髪で目が緑で魔術が強くて……」
「気の強いわがままなお嬢様よ。ハーフの」
指折り数える特徴を、詩織がまとめた。
「お嬢様? お金持ちの口に、あたしらの味が合うかねえ」
やや不安げなおばちゃんの表情は珍しい。いつもは店の味に絶対の自信を持っているのだが。
「大丈夫! 五反田のお菓子気に入らない子はいないよ」
「そうかい、じゃあたんと買っておくれ」
ハジメと微笑み合うと、おばちゃんは二人の頭を交互に撫で、ついでにハジメの膝の上のクロスケも撫でていった。
ちなみに本日も、槙野よろず書店の売り上げはなかった。
「ところで、クレエのことだけど、どうするの」
店を閉めた後、二階に上がって詩織の作ったカレーを食べていると、詩織が突然真剣な声で尋ねてきた。
「どうって、言われた通りお店調べるだけだけど」
「あのね、ああいう子に言われるがままになってたらダメ。勝手なことばかり言われるわよ」
「でも、あの本がないとファガルドさん困るんでしょ。うちの商品だった訳だし、協力してあげないと」
「あんな上から目線で言われておいて腹立たないの?」
もどかしそうな詩織は、ハジメの目をのぞき込んだ。ハジメはルーとごはんを半分ずつ掬いながら、
「うーん、腹立てたらお腹空くし。お腹だけに」
ふざけてみると、無言で詩織にデコピンを食らった。
「痛い!」
「痛いのはアンタのダジャレよ。そもそも、全部調べるってことは自分の部屋も見られるのよ?」
「だ、大丈夫だよ、ちょっと散らかってるだけだし」
「……小学生のときの作文とか見られても平気なの?」
「そ、それは……」
なにやら恥ずかしいことを書いたような気がして、ハジメは弱々しく首を振った。
「それに、本も……あの倉庫は?」
「あ……地下の倉庫かあ」
口にスプーンを突っ込んだまま、ハジメは顔を曇らせる。
「絶対入っちゃいけないって言われてるんでしょ?」
「うん……ちっちゃい頃よく勝手に入っちゃって、すごく叱られた……はず」
「はずってなによ」
「ぜんぜん覚えてないんだよね。中がどんなだったか、どんな風に叱られたのか、きれいさっぱり。だから、お母さんから聞いた話でしか知らなくて。とにかく中には入らない、お客さんも入れちゃダメって。そもそも鍵がどこにあるのかも聞いてないし」
「まあ、二人が持っていったんでしょうけど、クレエがそれで引き下がるかしら」
「ちゃんと説明すれば分かってもらえるんじゃない? たぶん」
と言いつつ、ハジメの頭には昼休みにこちらに啖呵を切った彼女の顔が浮かんでいた。
「最悪、零子さんに連絡を取れって言いかねないわよ。こっちから連絡出来ないんでしょ?」
「うん、携帯めったに見ないみたいだし」
詩織はスプーンをもてあそびながら、溜め息をついた。
「零子さんも困ったものよね。一人娘をほっぽっといて。それもこんな抜けてる子を」
ちゃっかり上がり込んで猫缶の中身を平らげていたクロスケが、同意するように小さく鳴いた。
「どうしたらいいかなー。クロスケ、何か思いつかない?」
もちろん猫が返事をすると思わないが、声をかけてみる。当然と言うべきか、こちらを見たクロスケは黄色い瞳を瞬かせ、知らないとばかりにそっぽを向いた。
「だよねー」
結局何も思いつかず、二人はカレーを平らげ、おかわりをした。
食後に二人で欠席した授業のノートを写し、宿題を済ませて浴槽にお湯を溜め始めたあたりで(お湯をあふれさせないようにとタイマーと、お湯の水位を知らせる警報を鳴らす魔術まで仕掛けて)詩織は帰り支度を始めた。
「カレーおいしかった。ありがとね」
「ん。早く寝なさいよ、ちゃんと温まって風邪ひかないように……あ、そうだ」
店の裏の玄関で靴を履きながら、詩織が振り返る。
「模擬戦のとき、転移術使ったでしょ」
「うん、とりあえず鏡を呼び寄せてみたけど」
「あれ、校長室の高い鏡だったみたいよ。桐山先生のカミナリ、覚悟しといたほうがいいわよ」
閃光に消えた鏡の姿を思いだし、ハジメは心臓が跳ね上がる感覚を覚えた。
「うそ……」
眼鏡の奥でいたずらっぽく笑うと、詩織はドアを開いた。
「まってよ詩織! そんなの覚悟出来ないよ!怖すぎるよ!」
という訴えは、「諦めなさい」という笑みですげなく却下されてしまう。
「そんなー……」
立ち尽くすハジメの足下を掠めて、クロスケが詩織の後を追い、ドアが閉められた。
このときは、ハジメも詩織も想像も出来なかった。
禁じられた書庫の空間。それが巻き起こす一大事件を。
続く
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