保健室でおやすみなさい

 

「どう、少しはあったまった?」

「まだでず」

 ココアの入ったマグカップを両手で抱えながら、ハジメは弱々しく首を振った。

 養護教諭の丸山先生は困ったように笑って、

「まるで南極越冬隊ね。ここのココア全部飲んじゃうんじゃないかしら」

  ありったけの毛布とカイロをハジメとクレエに提供してくれた彼女は大きな体を揺するように笑った。

「さ、桐山先生はものすごーくピリピリしてるみたいだけど今はとにかくあったかーくして寝てなさい」

「わたくしは結構ですわ。こんなもの物の数にも……ひゃあ!?」

  クレエが言い終わらないうちに、丸山先生はひょいと彼女を抱き上げた。手慣れた手つきである。

「だめよー保健室では私がルールなの」

 有無をいわさずベッドに寝かしつけ、毛布をかぶせる。

「ほら、槙野さんもだっこしてあげる」

「い、いえ大丈夫です」

 大地母神のように微笑む先生にかぶりを振る。

「あら、何で?」

「……今の寒さでだっこされたら離れられないし……」

 遠慮がちに呟いた途端、ハジメは正面から大きな体に包まれた。消毒液の匂いと化粧の匂いが鼻いっぱいに広がる。

「もー遠慮しなくていいのよかわいいんだからもー」

「あの……苦しいですっ……」

 弾力に富むお腹に押しつけられて息が出来ない上、抱き上げられてつま先が床から浮いている。訴えを意に介さず、先生はハジメをそのままベッドに寝かせた。

「ぷはっ」

「じゃー大人しくしててね、二人とも。あら、河野さんは戻らないの?」

「はい、そこのバカが大人しくしてるように見張っておきます」

  まじめくさった顔で答える詩織に「あらあら、じゃあよろしくね」と笑いかけて先生は保健室を出て行った。

 後には妙な沈黙が降りる。ハジメが頭を横に動かすと、隣のベッドからこっちを伺っているクレエと目が合った。が、クレエは慌てて目をそらす。

 何か声をかけようとしたとき、にゅっと目の前に伸びてきた手がほっぺたを摘んで引っ張った。


「いひゃいいひゃい、なにしゅんのしふぉり」

「このアホハジメ、心配かけさせて」

  なおも詩織はぶすっとした顔でハジメの頬をつねり上げる。

「だいたい相手を攻撃するはずなのに何で体育館中冷やし尽くすのよ。いったい何がしたかったの」

「いたた……詩織が教えてくれたやつ。ファガルドさん相手にも使ってたでしょ、火竜の」

 つねられたところをさするハジメ。

「あれは大きさも威力も絞って早く撃ったほうがいいって言ったでしょ? あんな大きくする必要ないわよ」

「んー、ファガルドさんに撃たれて欠けちゃうから直さなきゃってやってたらおっきくなったかな……途中から本が暴走しちゃったけど」

「ああ、意外とがつがつしてるわねお嬢様。こっちの攻撃をちまちま邪魔してくるとか」

「ちょっと、聞こえてますわよ」

 咎めるように口を挟んだのはクレエだ。

「獅子はウサギを狩るのにも全力を尽くす。わたくしはたとえ槙野さんの実力が低かろうが手を抜いたりしません。それこそ力を持つものの流儀ですわ」

 胸を張るが、分厚い毛布にくるまっているせいで威厳は感じられない。

「わたし、ウサギなの?」

「クレエがライオンならアンタはハムスターね」

「ハム……もー、またバカにして!」

 頬を膨らませるハジメ。

「純然たる事実よ。だいたい、いったい何をしたらあんな暴走なんてするのよ。ハードカバーでもよっぽどのことしないとそんなことにならないはずでしょ」

「うーん……キスがいけなかったのかな」

「はああ!? き、キスぅ!?」

 何気なく言った言葉に詩織が血相を変えた。

「なによそれ!? だ、誰といつ!?」

 襟首を掴んで揺さぶられ、ハジメは目を回した。。

「ちょ、まってまってぐるじいって」

「キスって……どういうこと!?」

「あの、その当たりにしてさしあげたほうがよろしいのでは? それでは何も説明出来ませんわ」

「アンタは黙ってなさい!」

 見かねたクレエが口を挟み、一瞬詩織の手が止まった。

「うう……本だよ、ハードカバーで矢を防いだら顔に落ちてきて、ぶちゅっと」

 途端、ハジメの上体がベッドに倒れ込んだ。詩織が襟首を放したのだが、彼女の顔色はまた急激に変わる。

「アンタねえ!」

 両肩を掴み、のしかかるようにハジメをベッドの上に押さえ込む。

「なにがキスよ紛らわしいのよ全くこのバカハジメ!」

 鼻先まで眼鏡を近づけて怒鳴られる。

「だいたい、そんな……キスなんかで暴走してたら商品にならないでしょうが! そもそも魔導書で攻撃受けるとか何考えてんの! 生命線よ!?」

「そうですわね。魔導書を取り扱っている書店の人間なら、本をもっと大事に扱うものではなくて? そもそも……」

 クレエにまでなじられる。

「いや、お母さんがよく夫婦喧嘩のときにやってたから……」

「零子さんはとんでもない天才なの! 常識がぶっ飛んだことやってもつじつま合うくらいの。ハジメはとんでもないアホなんだから一緒にしない!」

「うう、ごめんなさい……」

「え、待ってくださいな。貴女のお母様ってあの槙野零子なんですの!?」

 衝撃を受けているクレエを余所に、詩織はヒートアップする。

「だいたいハジメはいつもいつもそののほほんとした顔でとんでもないことばっかりして! 危なっかし過ぎるのよ、私の気持ち考えたことある!?」

 すさまじい剣幕の詩織を前に、ハジメはとりあえず思ったことを口にした。

「心配してくれるの? ありがと、詩織」

「なっ……」

 目の前の詩織の顔がその眼鏡のフレームと同じくらい赤くなる。

 口をぱくぱくさせた後、近づいた顔を離すと、ぼそりと呟いた。

「……当たり前でしょ、ばか」

 目をそらす詩織の気持ちがよく分からず、首を傾げていると、音を立ててドアが開かれ、桐山先生が飛び込んできた。

「二人とも大丈夫!? ……何してるの、あんたたち」

 肩で息をしていた先生はハジメのベッドの上に乗る詩織を見て目を丸くする。

「先生!? こ、これはその……ハジメが大人しく寝てるように……」

「いや、大人しくしてないのは河野さんでしょ」

「はい……」 

 黙り込むと真っ赤な顔のまま、詩織はハジメの上から降りた。

「で、大丈夫なの」

 改めて彼女はハジメとクレエを見る。

「わたくしは平気ですわ。それよりもーー」

「いや、顔青いわよファガルドさん。槙野さんは」

「詩織が離れたから寒いです」

「変なこと言うな!」

 のしかかられたときは意識しなかった冷えが戻ってきて、ハジメは毛布を首元に引っ張り上げる。

「そう、やっぱり放課後までここにいてもらうことになるわね。ファガルドさんのお宅には連絡したわ。迎えにこられるそうよ」

「結構です、すぐにでも授業に戻れますわ。それよりも槙野さんの」

「槙野さんのハードカバーだけど、職員室で預かるわ。まだ暴走の危険が収まったか確認出来ないし、ちゃんと沈静化しないと」

「分かりました……あ、今日の店番とか家事とかどうしよう」

「しょうがないわね、ついてってあげるわ」

「ありがとー、ついでに何か買ってってよ」

「調子に乗らない」

「あの……」

「あんたたち相変わらず仲良いわね。まったく、心配かけさせないでよね。ハジメちゃんの担任してたら毎日ヒヤヒヤものよ」

「あの! お願いですからわたくしの話を聞いてくださいませ!!」

 好き勝手に喋る三人に、しびれを切らしたクレエが叫んだ。

「何よ?」

「槙野さん! 槙野さんのお母様があの天才槙野零子だというのは本当ですの!?」

 興奮しきった様子のクレエ。ハジメと詩織は顔を見合わせ、ハジメはこともなげに「そうだよ?」と答えた。

「あ、あの方はどこにいるんですの? 学会を去ってからどこで何をしてるんですの!?」

「へ? さあ……高校入ってからお父さんと仕入れに行くって言ってそれっきりかな。昔から二人でどこか出かけて、色んな本持って帰ってくるんだ。たまに宅配便で送ってくるよ」

「で、では貴女の書店は零子様が!?」

「うーん……もともとお父さんの家で代々やってた本屋らしいよ。店長は一応お父さんで、お母さんは店番さぼってよく売り物の本読んでた」

「本屋……あの希代の天才が、本屋の店員……」

 巨大な衝撃を受けて青ざめるクレエに、ハジメは首をひねる。

「お母さんそんなにすごい人なの? 昔の話されても、大したことないわよーって言ってたけど」

 酸欠の金魚のように、クレエが口を開け閉めする。

「あ、あなた知らないんですの!? 槙野零子の実の娘が!?」

 ほとんど悲鳴のように問いつめられ、ハジメは困った顔になる。

「なんで槙野零子の娘がその功績も知らず、魔術に習熟してないんですの!? おかしいでしょう!?」

「そう言われても……魔術のことなんてそんなに教わらなかったし。本の売り方は言われたけど」

「信じられない……だいたい、どうしてアプリケーションではなくハードカバーを……槙野教授は開発者なのに」

「あれ、そうなの?」

「それも知らなかったんですのぉ!?」

 裏返った甲高い声で、クレエが叫ぶ。

「うん、どっちかっていうとお母さん紙派だったし」

「嘘でしょおおお!?」

 ひっきりなしに声を上げたクレエは息も絶え絶えで布団に倒れ込んで呻く。

「もうなんなんですの……訳がわかりませんわ……」

「ねえ、これって私が悪いの?」

「自覚ないからたちが悪いのよあんたは」

「えー?」

 ハジメは母親の姿を思い出してみたが、よく食べよく寝てよく笑い父親と仲のよかった様子だけで、クレエの言うような有名人らしさは皆無だ。ただ一つ、心に焼き付いているのは――

「それで、ファガルドさん、気は済んだの?」

 一部始終を辛抱強く見守っていた桐山先生が口を開く。

「ま、まだ問題は解決していませんわ」

 ショックからなんとか立ち直ったクレエがハジメを睨んだ。

「[練金のうたかた]の中身がすり替えられ、どこにいったのか、どうやって起きたのか、そして誰がそんなことをしたのか、突き止めて取り戻さなくてはなりません」

「あ、ハジメの疑いは晴れたのね」

「……認めざるを得ませんわ。あれだけ魔術がその……少し苦手というか……」

「「ポンコツだからね」」

 詩織と先生の声がそろう。

「みんなひどいよ……」

「わたくしだって信じたくありません、槙野零子の娘が、こんな……」

 クレエは心底残念そうにかぶりを振った。

「ともかく、槙野さんには無理でも、私の使用人が買い取り、持ち帰るまでにすり替えが起きたはず。ならば、貴女の書店を調べる必要があります」

「調べる……?」

「店舗内、貴女の住居も徹底的に調べて魔術の痕跡や、すり替わった中身を探します」

「待ちなさいよ、勝手に人の家を家捜しする気?」

 詩織が噛みつくが、クレエは動じる様子はない。

「しかるべき機関に依頼してもよろしいですわ。ただし、そうなると店舗運営に支障が出るでしょう?」

「それは困るよー……お客さんこなくなったら私どうすればいいのー?」

「いや、元々来てないでしょ」

「商店街のみんなに心配されちゃうし」

「それもそうね……」

 当事者のハジメが言うのなら、とこの中の大人として桐山が首を縦に振る。

「分かったわ。なら先生もついて行きます。みんなで槙野さんの本屋を調べてみましょう。土曜日あたりでいいかしら」

「先生が?」

「生徒同士の問題なら私も立ち会うわ。それに、零子の店に誰かがちょっかい出してるなら許せないし」

「え、桐山先生も知り合いですの!?」

「あの子も友達くらいいるわよ。手分けして調べてみて、原因が分かればそれでよし。もし手に負えなければ警察か専門機関に。本当に本屋に何もなければ喧嘩は止める。それで恨みっこなしよ、いいわね三人とも」

「はーい」

「分かりました」

「承知いたしますわ」

 三人がうなずくと、桐山先生は踵を返した。

「じゃあ後は大人しくしてなさい! また来るからね」

 そして慌ただしく戻っていく。どうやら授業の合間にやってきたらしい。

 嵐の過ぎ去ったように静かな保健室で、ハジメがとりあえず口を開いた。

「えっとじゃあ……今度の土曜日遊びにくるんだね。ファガルドさん、何かお菓子買っとくね、甘いのと辛いのどっちが好き?」

「甘いもの……って、遊びじゃありませんわ!」

「まあ、何も出てこないと思うけど。気が済むならつき合うわ」

「ええ、結構ですわ」

 再びにらみ合う詩織とクレエ。空気が緊迫するがーー

「じゃあ、五反田さんとこのおまんじゅうと……八野さんのおせんべいと……」

 むにゃむにゃとしたつぶやきが途切れる。詩織が見ると、ハジメは今まで喋っていたのが嘘のように目を閉じて寝息を立てていた。

「はあ、全くもう……」

 詩織は首を軽く振ると、毛布を引っ張り上げてハジメにかけてやった。

「その……仲がよろしいんですのね」

 ためらいがちにクレエが言うと、

「ただの、腐れ縁よ」

 詩織はいくぶんか柔らかい声で答え、眠るハジメの頬を指でつついた。  


続く

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