hiyu


 恋人を殺してきた。

 13年ぶりに顔を合わせた高校時代の友人の台詞を、信じるべきかどうか、悩んだ。

 たった今、この手で。

 開いたその手はきれいなものだった。少し骨ばった、四角い指先。長い指。

 なぁ。

 お前は俺を、救ってくれる?

 考えなくても答えは出ていた。

 その手に触れたい、と思っていた。13年前から、ずっと。


 狭いビジネスホテルの一室で、服を脱いだ。わき腹に、サージカルテープで貼られた大きなガーゼ。それに真っ赤な血が滲んでいた。俺の顔から血の気が引いていく。

 震える手で静かにはがす。思ったよりも傷口は小さかった。ただしぱっくりと口を開けたそれは、次々に新しい血をあふれさせている。

「刺された」

 こともなげに言った。痛むらしく顔をわずかにしかめているが、それ以外は何の反応もない。

 俺はタオルで傷口を押さえ、圧迫した。さすがにうっと声を漏らして苦痛の表情を浮かべる。

「病院、行ったほうがいい」

「まさか。殺人犯だぜ、俺」

 自嘲するように笑う。

 ホテルに入る前にドラッグストアで買い集めた消毒薬や包帯をベッドにぶちまける。とりあえず、止血。それから消毒、ガーゼを当て、包帯を固く巻く。そんな風に頭の中で手順を繰り返してみるのに、俺の手はさっきから震えが止まらないし、気を抜いたら倒れてしまいそうだった。

 友人の息は少し荒く、その吐息は熱を持っていた。

「本当に──」

「殺した」

 俺の問いを先読みし、答える。あっけないくらいに簡単に。

「簡単に死ぬんだな、人って。1分かからずに気絶したよ。それから後は文字通り息の根を止めるだけ」

 タオルにも血が滲んで、俺の手も汚れていた。べたつく血がまるでまとわりつくように俺の指にその色を広げていく。

「本当、簡単に死んだよ」

 大きな溜め息をついたあと、悪ぃ、とつぶやいてベッドに横になった。血が止まるまでは圧迫したタオルから手を離せない。俺は友人が横になるのに合わせて体勢を変えた。

 顔色は悪く、乱れた熱い息、かさついた唇。俺がタオル越しに押さえつけるその傷口は、友人が呼吸するたびにゆるく動く。傷口が落ち着く暇はなさそうだった。このままでは確実に悪化する。

「……人ってさ」

 声もさっきより力がなくなっていた。それでも痛いと一言も口にしないのは、ただの意地なのだろうか。

「すごくくだらないことで殺意持てるんだな」

 俺は黙っていた。友人も別に答えが欲しいのではない。その目は開いているが、俺を水にただぼんやりと天井を見つめている。

「今となっちゃ、本当に愛してたのかも分からないんだ」

 俺の手のひらに伝わるのはぬるりとべたつく血液の温度。

「長い間一緒にいたから、惰性になっていたのかもしれない」

 新しいタオルを引っ張り出し、その傷口に当てる。ぐっしょりと濡れ、重みを増した真っ赤なタオルはビニール袋に突っ込んだ。

「些細なけんかだったんだ。本当に、些細な」

 友人は喋るのをやめない。

「いつの間にかそれが大ごとになってた。──俺はさ、いつものようにそれを聞き流すつもりだったんだ。言いたいだけ言わせてやれば気が済むからさ。いつもそうだったから」

 もう喋るなといいたかったが、黙っていた。苦痛から気がそれるならそれに越したことはない。

「でもな、あいつが言ったんだよ。あれだけはどうしても──我慢できなかった」

 友人がゆっくりと目を閉じた。俺はその顔を覗き込む。自分の意思で閉じたようなら、まだ大丈夫。少しほっとする。

「私の時間を返してよって」

 13年来会っていない友人が、その恋人と何年続いていたのかは分からない。けれど多分、引き返せないほどの長さだということはなんとなく分かった。

「あんたと付き合ってた時間を、全部返してよって」

 俺たちは30歳になり、もう若いとはいえないだけの年齢になっていた。長く付き合っていた恋人ならば、多分同じくらいの年齢なのだろう。

「俺さ、どうしても我慢できなかったんだ。俺との時間、全部否定された気がして」

 大きく息を吸い込む間隔が短くなってきていた。苦しいのかもしれない。

「殺したいなんて思ってなかったんだ。でも、向こうは違った。俺、簡単に刺されたんだよ。びっくりする暇もないくらい、簡単に」

 傷口の大きさからすると、多分果物ナイフか何かなんだろう。深さのほどは分からないが、致命傷を与えるには難しいくらいの大きさだった。

「殺してくれって、言われた」

 俺は顔を上げ、友人を見た。その目が閉じられたときとおなじようにゆっくりと開き、また天井を見つめた。

「最初は呆然としてただけだったんだ。ナイフ握り締めて、ぽかんとしてた。そしたら、急にパニック起こして、泣き喚き始めてさ」

 タオルに滲む血が、量を減らしていた。俺はそっとタオルをめくった。止まっていた。

「私を殺してって」

「少し、痛むかもしれない」

 俺はそう言って消毒液を傷口にぶちまけた。ぐぅっと声を漏らして身をかがめるようにした友人の身体を押さえつける。

「大丈夫か?」

「──ああ」

 落ち着くのを待って、大量のガーゼを用意した。

「……殺してくれって何だよ、って思った」

 友人の話はまだ続いていた。

「初めは冗談じゃないと思ってたんだ。血は止まらないし、痛いし、死ぬかとおもってさ、急いで病院に行くつもりだった」

 そうすればよかったのだ。俺はそのガーゼにサージカルテープを貼り、固定する。

「包帯巻く。身体、起こせるか?」

 友人はうなずき、身を起こそうとした。痛むのか、一瞬息が止まる。俺はそれを手伝い、ベッドに上半身を起こさせた。

「何度も言うんだ。殺して、殺してって。相手にするつもりはなかった」

 タオルでほとんど乾いた血のついた手を拭ってから包帯を巻きつける。ガーゼ部分を覆うように、何周も。

「けどさ、俺が家を出ようとしたら、あいつ、言ったんだよ」

 1本では足りないので、2本目の包帯を巻きつける。

「このままじゃ私は犯罪者じゃない。あんたなんかを刺しちゃったから。そんなくだらない理由で犯罪者になるくらいなら死んだ方がましだ、って」

 俺の手が止まった。友人の手が包帯を巻く俺の手をつかんだからだった。

「あんたなんかを刺しちゃったから、って。そう言ったんだよ。そんなくだらない理由で、って」

 さっきまでただ天井を見上げていただけの視線が、まっすぐに俺を見ていた。

「俺を刺して犯罪者になるくらいなら、俺に殺された方がましだって言ったんだ、あいつは」

 急激に、さっきまで乱れていた俺の心が静けさを取り戻した。唐突とも言えるくらい、突然。俺はそこで初めて返事をしてやった。

「──それで」

「一瞬で、我を忘れた。気付いたらあいつの首を絞めてた」

「……そうか」

 友人の手をそっと外し、包帯を巻いた。巻き終わりを留めて、俺は苦しくないかと訊ねた。友人は首を振った。包帯は俺の手に残る血によって赤く汚れていたが、目立つほどではない。血は案外早く乾くのだと初めて知った。

「部屋の真ん中で、あいつはもう動かなかった」

 その目はまだ俺を見ていた。

「──どうして、俺のところに?」

 突然の電話で、すぐに会いたい、と言われた。一刻の猶予もないのだと。

 13年。連絡先くらいは共通の友人を通じて知っていた。元気か、なんてメールが届いたこともある。けれど俺は一度だって会いには行かなかった。

 だって、俺はこいつに合わせる顔がなかった。

 いつの間にかまた、友人の手が、俺の腕をつかんでいた。俺の手の震えはとっくに止まっていたが、今度は友人の手が震えている。

「お前しか──」

 かすれた声でつぶやいた。けれど続きを口にすることをぴたりやめた。だから代わりに俺が続きを言ってやった。

「俺ならお前を救うだろうと思った?」

 友人の顔がゆがんだ。それはまるで屈辱にも似た表情だと俺は思った。俺は苦笑し、続けた。

「俺なら、かばってくれるだろうって、思った?」

「──悪い」

 高校を卒業するときに決めていた。俺はもう、この友人とは一生会うことはないだろう、と。

 ずっと胸の内に留めておくつもりだった。

 俺の気持ちなど、打ち明けてどうなるというのだ。

「利用するんだな、今さら」

 俺は吐き捨てるように言った。友人は黙っていた。

 俺は高校の3年間、この友人に惚れていた。そして、欲情していた。

「やっぱり──」

 俺は手を振り払い、立ち上がる。そしてベッドの上の友人を見下ろした。

「押し倒しておけばよかった、13年前に」

 友人の表情は変わらなかった。そりゃそうだ。そうでなくても失血で限界まで真っ青になっているし、苦痛で眉間にしわが寄っている。これ以上どう顔色を変えるって言うんだ?

 卒業式、俺は、やたら陽気に、俺たちずっと親友だよなー、なんてへらへら笑うこの友人を突き放した。俺の気持ちを知ってか知らずか、馴れ馴れしく抱きついてきた友人を、このままでは力ずくでどうにかしてしまうような気がした。だから、思いきり。

 呆然とした友人に、俺は言った。言うつもりのなかった言葉を。

 俺はお前を親友だと思ったことは一度もない、と。

 愛していた。

 願わくばその唇を奪い、組み敷いて、乱れさせたいと思うほどに。

 突然のことに驚き、そしてショックを受けた顔をして、友人は俺を見ていた。だから俺はその胸倉をつかんでキスをした。今度は向こうから突き放された。

 ようやくこれで終われるのだ、と思った。

 俺を突き飛ばした友人は、自分のしたことにすら驚いたようだった。俺に向かってごめん、とつぶやいた。

 謝る必要はない、そう言いたかった。

 だって俺は、もっとひどいことをしようとしていた。

「無理矢理押し倒して、嫌がるお前をめちゃくちゃにしてやればよかった」

 友人を見下ろしたまま、感情のこもらない声で言ってやる。友人は俺を見上げたまま微動だにしなかった。

「そうしたら未来は変わってたかもしれないな」

 手のひらを真っ赤に染めた血は完全に固まっていた。俺はその両手を広げた。

 人を殺したという友人の手はきれいで、犯罪を犯していない俺の手は血に染まっている。

「手当ては済んだ」

 俺は友人に背を向けて、洗面所へ向かった。汚れた手を洗い流す。

 洗っても洗ってもそれは落ちないような錯覚を覚えた。

 13年前、友人を力ずくでモノにしたら、俺も犯罪者の一人だったはずだ。

「俺は──」

 蛇口をひねって水を止めると、ベッドから声がした。

「俺は、ただ──」

「自首か。逃亡か」

「俺は──」

「どっちだ」

 友人は肩を落としうなだれた。

 どちらでもよかった。自首するというのなら今すぐに警察に連絡してやるし、逃亡ならば駅でも空港でも連れてってやるつもりだった。

 答えを出すつもりがあるのかないのか、友人は黙ったまま肩を落としている。

「おい」

 俺はその肩をつかんだ。揺すられた肩をびくりと震わせ、友人が顔を上げた。

「俺は──」

「どっちだ」

 ぼろぼろと突然、友人が泣き出した。

 俺は肩を放す。

 助けてやりたいと思っていた──さっきまでは。

 悔しいことに俺はこの友人をまだ愛していて、その手に、その指に触れたいと思っていた。そして触れて欲しいと思っていた。

 けれど、それも友人のさっきの言葉を聞くまでだった。

 ──俺を刺して犯罪者になるくらいなら、俺に殺された方がましだって言ったんだあいつは。

 その台詞で友人は我を忘れ、恋人を手にかけた。逆上したと思っているに違いない。

 けれど俺にはそうは思えなかった。

 だって、その恋人は殺してくれと言ったのだ。殺された方がましだ、と。

 友人は、恋人の最後の願いを聞き入れてやったのだ。犯罪者になるくらいなら──そう言った恋人の、願いを。

 許せなかったのなら生かしておくべきだった。

 そして犯罪者にしてしまえばよかった。

 俺を頼ってきてくれたのなら、それを歓迎するつもりだった。けれど、友人は結局、恋人の願いを聞いた。恋人を思ってその行動をえらんだ。

 恋人ではなく、自分が犯罪者になることを選択したのだから。

 本人が気付いていないとしても、そういうことだ。

 けして、俺を選んでくれたわけではなかった。

「どっちだ」

 俺は問う。

 友人は答えない。

 13年もの長い間、忘れたことは一度もなかった。

 俺の気持ちを知っていて、利用しようというのは構わない。あの台詞を聞くまでは俺だってこの身を犠牲にしてもこの友人を救っただろう。

 けれど──

 狭いビジネスホテルのベッドで、友人は泣き続ける。

 俺はただ、答えを待つ。

「お前を愛していたよ、ずっと」

 多分、これが最後の言葉。

 もう二度と口にしない、最後の告白。

 俺はただ、その言葉を投げ捨てる。

 それが過去形であることに、友人が気付いているのかどうかは、分からないままだ。

「自首か、逃亡か──どっちなんだ」

 俺は問う。

 友人はゆるゆると顔を上げ、俺を見た。


 了

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