第4話

さくらさんが住んでいるマンションは、僕や曜が住んでいる所から自転車で十五分の所にある。僕はけだるい空の下、車庫に自転車を止めた。体は自転車をこいできた直後で熱いくらいなのに、肌は痛いほど冷たかった。

「ポトスに水、やっていい? 」

 さくらさんの部屋に入るなり、僕は如雨露に水をくみ、ポトスに水をちょろちょろとやった。部屋に幾つかあるポトスの水やりは彼女の部屋で最初にする、僕の欠かせない儀式になっている。青々とした葉をそっとなでてみる。柔らかく、つるりとした感触。頑丈なつる。観葉植物は彼女の部屋と相性が良いらしく、どれもすくすくと育っている。

「聖司君、水やり上手いのね」僕の様子を傍で見ていたさくらさんが言う。

「そう? 」

 水やりに上手いも下手もあるの、と笑って聞き返すと、さくらさんは全然違う、と真剣な顔で言った。

「聖司君がやった後はよく育つのよ。本当に」

 しゅわしゅわ、と台所からやかんの沸騰した音がした。立ち上がろうとすると、さくらさんは、いいわ、水やりやっててちょうだい、と台所へ歩いて行く。僕は水やりを続けながら、ふと思い出した。

「あ。一つ教えてもらおうと思ってたんだ」

 何、と台所から彼女の声が返ってくる。

「前、曜が変な事言ってた」

 言われた事をさくらさんに話すと、彼女は曜も上手い事言うのね、と楽しそうに笑った。

「雰囲気が華奢って、どういう意味」

「そのままの意味よ」

 僕は首をひねった。さくらさんはまだくすくす笑っている。

「ぴったりよ、聖司君。言われた事ない? 」

「さあ。ずっと男子校だし」

「それは関係ないんじゃない」

 しばらく笑っていたさくらさんは、ふと何かを思い出したかのように真顔になった。曜、曜にね、と彼女は続ける。

「やっぱり分からないと言われたわ」

 僕はポトスから目を離し、彼女を見た。曜の問いの意味は、聞かなくても分かった。さくらさんの言葉が思い出される。

一人を深く愛する事ができない人。

「曜の気持ちはよく分かるの。聖司君達の歳の頃は・・・信じていたと思うから」

永遠の愛と言う物を。

さくらさんは台所のテーブルに軽く身をもたれかけた。視線は僕を通り越して、どこか、遠くを見つめている。

「いつ頃だったかな、二十歳を過ぎた辺りからかしら。考えが変わったのって。それまではね、一対一の付き合いをしていたの。でも、ある日当時の恋人に他にも彼女がいるって分かったのよ。その時、何故か嫉妬心は全く起こらなかった。裏切られたって悲しみもなくって」逆にすごくね、と彼女は少し沈黙した。

「すごく安心したのよ。ああ、この人は、私だけを見ていないって。私に何かあっても、生きていかれるって。それがきっかけ」

聖司君も、変だと思ってるでしょ、と彼女はぽつりと呟いた。

彼女は今三十一歳だと聞いた。曜が教えてくれた。「絶対怒ると思ったけど」聞いてみたらあっさり教えてくれたそうだ。元々年齢にはこだわっていないのかもしれない。他人に対しても、自分に対しても。彼女が続ける。

「でもね、一人に夢中になるのが怖くて。自分が無くなっちゃうのが。恋に夢中になるなんて、その人がいなくなったらどうするのかしら。でも、相手が一人じゃなかったら、そう夢中にもならないでしょう。安心できるの。今までの男の人もね、恋人は自分だけじゃないって聞いたら、逆にほっとしてたわ。私はとても幸せだと思う。一人を見ていかれる人も、それはそれで幸せだと思う。私には当てはまらないけれど・・・変よね、やっぱり」

そう言い終わると、彼女は深呼吸した。全身をまっさらにするかのように。宣告を待つ人のように。僕は少し考えて、言った。

「そうは思わないけど」

 彼女は珍しく目を丸くした。元々喜怒哀楽の表現は激しくない。

「そんな事言う人初めてだわ。皆言うのよ。そんなの恋じゃないって」

「それも恋だと思う。人それぞれだから」

 さくらさんはしばらく僕の顔を見つめると、

ありがとう、と静かに言った。身を起こし、紅茶を入れ始める彼女を何となく眺める。

情熱的な恋は苦手だ。早急に相手を求める分、冷める事も早いような気がして。ゆっくり、ゆっくり恋をしていきたいと思う。そうすれば、その分恋が長続きしそうに思えて。どうせいつかこの思いが消えるなら、少しでもここに留めておきたいと思う。破滅までのその日を、長引かせておきたいと思う。

ただ、それだけの事だ。僕にとって恋愛は。自分が無くなる事が怖いなんて、考えた事もなかったけど。それほど恋に夢中になった事実も、僕にはない事に気付く。恋は、人それぞれだから。

「どこを見ているの」

 気が付くと、さくらさんがティーポットを持って傍らに立っていた。僕は彼女を見ているようで、実は見ていなかった。彼女を通り越して奥にある白い部屋の壁を、窓辺に飾られた可憐な花を、窓からこぼれる木漏れ日を、窓の向こう、彼女の目にも毎日映っているだろう外の世界を、彼女を取り巻く世界を、見ていた。

窓を、と僕はかみしめるように言った。

「・・・窓や、外の世界を・・・見てた」

 空気を。その時、さくらさんはいつもの整った笑顔ではなく、初めて心から嬉しそうな顔をして、私もよ、と言った。

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