暇と退屈
三角海域
第1話
目的地まで一日ある。景色は美しいが、ただただそれを眺めていてもそのうち飽きるだろう。本も読み終えてしまったし、さて次は何をしようかと考えてみるが、なにも浮かばない。
そもそも、あまりにも静かすぎるのだ。
たまにはのんびり行くのもいいのではと言われ、旅の足にフェリーを選んだ。
最初は小波の音や心地よい潮風に船旅を選んで正解だったと思ったが、日が沈むにつれ、いつものように列車を使えばとっくに目的地に着いているのだなと考え始め、今ではどちらかといえば後悔の方が勝っている。
フェリーは妙に静かで、どこへ行っても咳をすることすら憚られる雰囲気がある。
気にしすぎなのかもしれないが、どうにもそれが落ち着かない。
静寂の中で小波と潮風の音だけが聞こえる。
静かでいいと思う人もいるのかもしれないが、あまりにも静かすぎる。
寝てしまおうとしたがどうにも寝付けない。目を閉じると、静かだと思っていた小波や潮風の音が耳につく。こんなことならもう一冊くらい本を持ってくればよかった。
そんな私の気分と同調するように、日はどんどん沈んでいく。夕暮れの橙色はその強さを増し、私の顔に影を作る。
落ち着かない。
私は船内をあっちへこっちへと歩きまわる。最初は船内マップを見ながらあちらこちらへと足を向けていたが、同じところを行ったり来たりしている内に、船内の構造を把握してしまった。
未知が既知に変わると、また暇が顔を出す。一時間ごとにバーカウンターで酒をもらうが、酔うこともできない。
デッキに出てみる。窓越しに見ていた夕景の眩しさが増す。私はデッキにいくつかおいてある椅子に腰かけ、誰に言うでもなく「暇だ」と声に出してみる。
大きな仕事を成し遂げた報酬としてもらった休暇。旅館で三日ほど体を休めようと考え、宿を予約した。そんなことは初めてだったので、気分が高揚していたのだろう。同僚から提案された船旅という言葉がとても魅力的に思えた。別に船旅がつまらないというわけではないが、することがないというのは、なんだか落ち着かない。毎日働き続けていたが、そんな働くだけの生活が自分の中の当たり前になっているのだろうか。
「まさか」
そんなことはないだろう。ないと思いたい。
「ないよな」
ないだろう。
「ないよな?」
誰に訊いているのだ。
「暇だなぁ」
言葉は小波と溶け合い、潮風に流されどこかへと飛んでいく。そのうちこだまのようにどこかの誰かの耳に届くかもしれない。
日が沈み、影が消えていく。沈む寸前の太陽は蝋燭のように淡い光を放ち、空をぼんやりと照らしている。
「もう夜だ」
「そうですね」
反応が少し遅れた。誰もいないと思っていたし、さっきから独り言をぼそぼそとつぶやいていたから、急な返答に反応できなかったのだ。
「どうされました?」
「あ、いえ、いつからそこに?」
声をかけてきたのは、身なりのしっかりとした男性だった。夏場だというのにきっちりとスーツを着ている。
「ついさっきです。だいぶ酔っておられるようですし、そのせいで反応が遅れたのかもしれませんね」
男は静かに笑った。
沈みかけの太陽の淡い光が、男の口元に影を作る。そのせいでよく口元が見えないが、目元で笑っているのがわかる。
私は酔っているのだろうか。まったく酔えていないと自分では思っていたのだが。
「何か考え事ですか?」
「いえ、そういうことではないのですが。どうにも、暇で」
「なるほど。では、少し話でもしませんか?」
「話、ですか」
「ええ」
日はまだ完全に沈みきらない。日が沈むまでが随分長く感じる。海の上だからだろうか。私たちは並んで腰かけ、話を始めた。
「この船には、ご旅行で?」
「ええ。久しぶりに長い休みがとれたので、旅館でのんびりしようと思いまして。あなたはどちらに?」
「僕は帰りなんです。知り合いのところを訪ねてまわっていたのですが、それも済んだので」
暗くなったからだろうか。そよ風のように感じていた潮風や、ささやかに思えた小波の音が、やけに強く、大きく感じる。
「あなたと似ています」
男は唐突にそう言った。
「え?」
「僕は、退屈だったんですよ。だから、ひとりでなくなればそれも消えるかと思い、知り合いを訪ねてまわることにしたんです」
「退屈、ですか」
「ええ。とても」
そう言ってはいるが、男の声は妙に明るい。
「あなたは暇で、僕は退屈」
男は言い、空を見上げた。私もつられるようにして空を見る。デッキの照明は明るさが抑えられており、空を見上げると星がよく見えた。
「暇というのは、自由があるということだと思うのです」
男が言う。私は男の方を見たが、男の目は空を見つめたままだった。
「自由と不自由の間にあるもの。言葉の意味そのままではありますが。しかし、退屈には自由も不自由も、間もない。ただただ無がそこにあるだけ。そうしているうちに、その無に飽き飽きしてくる」
男はずっと空を見つめている。
「どういうことですか?」
私が問うても、男はこちらを見なかった。
「暇という感情は、雑多に物が溢れた空間で、何をすればいいのか分からないということで、退屈というのは、何もない、ただの空間にひとり取り残されるということだと思うのです」
頭がぼんやりしてくる。やはり、男の言う通り、酔っていたのかもしれない。
「僕は、その無を埋めるために知り合いのもとを訪ねてまわったのです。ですが、誰かに会うたび、むしろ僕の無はその大きさと深さを増していきました。遅すぎたのでしょう。私には、もう退屈を埋める暇がなくなってしまったのです」
うとうとし始める。会話の途中で寝てしまうのは失礼なので、なんとか意識を保とうとするが、瞼の重さはどんどん増し、目をあけていることすらできなくなってくる。
「僕は、暇がほしかったのかもしれません。人生は辛く苦しい。ですが、その間にある何もない時間を愛すべきだったのかもしれないと、今思いました」
ああ、ダメだ。もう意識が……。
「誰を訪ねても、人生は悪いことばかりではない。疲れたなら休めばいいと優しい言葉をかけてくれました。人生には意味がある。躓いたのは僕のせいではないと。でも、きっと僕がほしかったのは、そんな言葉ではなかったのでしょう。僕はただ、お前はそのままでいいと言ってほしかった。優しくされればされるほど、僕は自分への嫌悪を増していったのです。お前は間違っていると罵られているように思えてしまった」
男の声が遠ざかっていく。
「ありがとう。あなたと話せてよかった。僕はようやく僕のことを知ることができた。眠いのですか? それならば、少し眠ると良いでしょう。しばらくしたら起こしますから」
「すいません。では、少し……」
小波が、潮風が遠ざかっていく。意識が完全に途絶える瞬間。
「暇があるということは、悪いことではありませんよ」
そんな言葉が聞こえた気がした。
目が覚めると、もう夜はあけていた。男の背広が毛布のように私に掛けられていた。
男の姿はなかった。
私は後に、男が船から身を投げたということを知った。
暇と退屈 三角海域 @sankakukaiiki
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