藍玉の涙

さかな

第1話 出会い


 山奥の小さな洞窟。男がそこへ立ち入ったのは、一晩雨露をしのげる場所を探してのことだった。松明は使わず、冷たい岩肌をつたって奥へと進む。少し入ったところでちょうど良い広さの場所を見つけて、ようやく腰を落ち着けようとした時だった。

 どこからか泣く声がきこえた。ひどくか細く、悲しみと苦痛に満ちた声。ただひたすらに助けてとこいねがう、子供の声だった。

 ああまたか、と思う。男はこういう手の者に好かれるたちだった。普段は全く気にせず、むしろ関わりたくないと遠ざかるのが常である。だがなぜかその時は違った。ひどく心惹かれる声だった。震える心を落ち着かせ、その声の主を探す。暗闇が支配する洞窟の中、目を凝らしてみると、岩陰にぼうっと青い燐光を放つ小さな塊があった。


「おい、お前。なぜ泣いている」


 苛立ちを含む尖った声。男の問いかけに塊はぶるりと身を震わせ、さらに泣き声を大きくした。その反応に舌打ちした男は、苛立ったように頭を掻く。どうすれば子供を泣き止ませられるのか、見当すらつかなかった。


「こたえろ。お前は誰だ」

「わたし……わたし、は。この山の、鉱石龍です……」


 返ってこない答えに焦れ、なおも語気強く問いかける。すると、意外にも一呼吸おいて返答がきた。消え入るような、しかし明確な意思をもって返された言葉。その返事に男は目を見開き、思わず一歩踏み出した。 

 鉱石龍――それは、山に眠る豊富な鉱石資源が長い年月をかけて精霊化し、具現化したものを指す。めったに人前に姿を見せず、山に抱かれて一生を終える儚い龍だ。その姿は天上の乙女と呼ばれるほどに美しく、気高く人を寄せつけないが、見たものはみな虜になるという。

 だが目の前の子どもは消えてしまいそうな儚さはあっても、美しいと評するには足りなかった。不規則に切り刻まれた髪の毛に、傷だらけの手足。衣服も所々が破れ、肌がのぞいている。淡い燐光と透き通るような声がなければ到底人外の者とは思えず、ただの乞食の子供にしか見えないだろう。


「おまえ、鉱石龍なのか」

「は、はい……きゃっ!」


 折れそうな手首をつかんで上を向かせると、泣き濡れおびえた二つの瞳が露わになった。凍てつき全てのものを拒絶する、冬の湖の色。踏めばぱきりと割れてしまいそうな薄氷が涙にぬれ、色を変えながらさざめき光を放っている。どこまでも透明で薄く青みがかった色の瞳は、じっと男を見つめていた。


「……っ」


 どきり、と男の心臓が飛び跳ねた。だんだんと早鐘を打つ鼓動に、ただひたすら戸惑う。今までどんな妖艶な女を見ても胸躍ることなく、何の衝動も抱いたことはなかった。それなのに、こんな傷だらけの子供を見ただけで、訳のわからない衝動に突き動かされてしまったのだ。なぜかはわからないが、決してこの子供を傷つけてはならないと、そう強く思った。


「いたく……しないで……っ」


 掠れた声が男に請う。ひどくしないでと訴える声に、熱くなった頭がすうっと冷えた。男は慌てて子供の手首を放し、一歩後ろへと下がる。子供を怖がらせてしまわないように。できるだけ柔らかく、優しく聞こえるよう気を付けて、言葉を選ぶ。


「悪い、痛い目に合わせるつもりはなかった。どうしてこんなところで泣いている」


 先ほどとはうって変わって優しくなった男の問いかけに、子供の怯える目がわずかに和らいだ。ほろほろと零れていた涙はようやく止まり、体の震えが小さくなっていく。子供は喘ぐようにはくはくと浅い呼吸を繰り返しながら、ひび割れた声でこたえた。


「……にんげん、が……」

「人間がどうした」

「みんな……わたしのからだを、けずりとってしまうの……!」


 いたい。くるしい。そう訴えかける子供の表情は苦痛に歪んでいて、今にも儚く砕け散ってしまいそうだった。うめき声に合わせて、ほろりと涙があふれる。透明な雫はこぼれ落ちた瞬間に小さな藍玉となり、粉々に砕けて地面へと散っていく。青く透明な、勿忘草色の宝石。その光景を、ひどく美しいと男は思った。


「けずる……採掘されるってことか?」

「どんどんからだがなくなっていくの……これいじょうなくなったら、わたしはりゅうでいられなくなってしまう……!」


 ひときわ大きく泣き声を上げ、子供はぶるりと身を震わせる。硝子が粉々に砕けたときのような、耳を塞ぎたくなる声。思わぬ声量に男が目を瞬いたのち、目の前にいたのは一匹の龍だった。全身は半透明の青い鱗でおおわれ、そのひとつひとつが淡い光を放っている。まるで鉱石で出来ているかのように美しい鱗。だがそれも所々が剥がれ落ちていて、痛々しく赤い皮膚があらわになっていた。


「おねがい、たすけて……!」


 硝子がぶつかり合う音に似た、硬質な声。人間に怯えて泣いていた子供が、なぜ自分のようなものに助けを求めるのかわからない。そして龍の願いに応えたいと思ってしまう自分の感情もまた、男は理解できないでいた。


「助けるって言ったって、どうすればいいんだ。俺はただの人間だぞ」

「いいえ、あなたはちがう……にんげんだけれど、おにのちからをもったひと」

「――おまえ、どこでそれを知った!」

「においが、するの……やさしくてあまい、つちのにおい。にんげんの、てつのにおいとはちがう……!」


 誰も知らないはずの事実を龍は口にした。男の秘められた出生。人里を避けて流浪する男の、その理由。鬼の父親と、人間の母親の間に生まれ、山奥でひっそりと育てられた子供が男だった。両親が死んだあと、興味本位で人里に下り、自分は人間ではないのだということを知った。桁外れの怪力を見せれば化け物と蔑まれ、段違いの足の速さを見せれば恐れられ、常に山へ帰れと罵られてきた。半分は、人間なのに。ただ、彼らの役に立ちたかっただけなのに。

 どこへ行っても自分を受け入れてくれる場所はなく、日雇いの仕事で食い繋ぐ毎日だった。生きている実感も、意義すらもすり減っていき、男はいつしか死にたいと思うようになった。そうして、死に場所を探していたところで通りかかったのが、この洞窟だった。

 この龍がどこまで知っているのかはわからない。血に混ざる、人ならざる者のにおいをかぎ取っただけかもしれない。だが男はその助けを請う声に、ふつふつと体の血がわき、力がみなぎるのを感じていた。この儚く美しい龍に助けを求められ、誰がその願いを断れるだろうか。己の人ならざる力で、この子供を助けられるのであれば。誰だってその身を喜んで差し出すに違いないと男は思った。


「助けてやろう。その代わり、お前をよこせ」

「わたしをたべるの……?」

「そんなことはしない。ただ、そばにいて護ることを許せ」


 この美しい龍を己の手で守りたい。ただそれだけだった。きっと、母を見染めた父もこのような心境だったのだろうと思う。鬼は生涯でただひとりの相手を選び、命を懸けても守り抜く。それは血に刻まれ脈々と続く鬼の気質であり、男にもその気質は正しく受け継がれていた。


「これから、ずっとまもってくれるの……?」

「ああ。約束しよう。この命が尽き果てるまで、ずっと」


 身をかがめ、美しい龍の前へとひざまずく。龍は、一呼吸おいてからそっと男へ身を近づけ、頬をすり寄せた。硬質な鱗が肌をちくちくとさす感覚に、男はくすぐったそうに目を細める。その瞬間龍の姿は消え、小さな子供の姿へと戻っていた。


「わたしのなまえは、コウ。あなたは……?」

「俺の名前は、がいだ」

「がい……これから、よろしくおねがいします……!」


 ほたほたとコウの目から涙がこぼれる。泣き虫だな、と凱は優しく子供を抱きしめた。これ以上子供が身を削られぬように。二度と痛い思いをしないように、守り切って見せると決意を込めて。その腕の中で、コウはただ藍玉の雨を降らせていた。悲しみの涙ではなく、この龍もまた、生涯でたった一人の相手を見つけた嬉しさゆえに。

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