第12話 「たまにはこんな話」


ご注意:今回は、小説仕立てです。解説込みで、ちと長めです。

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 病院の逢魔ヶ時は、朝だ。

 昼間出発した長距離運送トラックの運転手は、夜通し高速道路を走り続け、疲労と眠気がピークに達している。

 通勤・通学の人々は、時間ぎりぎりに家をでて急ぐので、周囲への注意が散漫になっている。自家用車、タクシーも同じだ。

 両者が道路上で合流するときが、最も交通事故の多い時間帯となる(注1)。

 『逢魔ヶ時』は、朝だ――。



 カフェ・オレ色に濁った視界の向こうから、何かが呼びかける。浅い眠りの波打ち際を漂っていた男の意識を、揺り起こす。

 男は軽い頭痛を感じ、眉間に皺を寄せた。寝返りを打つ。体がひどく、重だるい。

 リリリン、リリリン、リリリン、リリリン……

 目覚まし時計だった。随分旧式のベルの音だ(注2)。枕に顔を埋めたまま、男は、片方の腕を伸ばした。いつも、手を伸ばせば届く位置に置いてあるのだ。だが、今日は届かなかった。

 リリリン、リリリン、リリリン、リリリン……

 しつこく、ベルは鳴る。大きくもならず、小さくもならず。一定の間隔で、頭蓋の内側を叩き続ける。

 男はうめき、さらに腕を伸ばした。くそっ、何故届かないんだ……?


 目に見えないハエを追うようにのた打ちまわった彼は、突然、思い出した。ここは、アパートではない。オレの目覚ましは、こんな音ではない。

 当直室だ!


 やっとの思いで枕から頭をひっぺがし、上体を起こす。眼に入るもの全ての輪郭がぼやけていた。メガネを探し出してかけ、内線電話の受話器を手に取った。

「はい?」

 寝不足で不機嫌にこもる男の声には頓着しない、冷静な声が応えた。

『近藤先生、国道二号線で事故です。救急車が入ります』

「んー、はい……分かりました」

 入りますって、どういう意味だ。誰が受けたんだよ。――という、毎度の愚痴は呑みこんだ。こちらに、それを言う権利はない(注3)。

 電話交換手の女性は、救急隊員の言葉を淡々と復唱した。

『三十代女性、頭部外傷。意識レベルⅢ-300さんのさんびゃく(注4)。下肢骨折しているもよう。出血多量。血圧100、SpO2サチュレーション 70%。自発呼吸なし。酸素吸入しながら向かっています。あと約十分で到着予定――』

 受話器に当てた耳の反対側からは、もう小さくサイレンの音が聞こえていた(注5)。立ち上がり、壁に架けておいた白衣に袖を通し、聴診器をポケットに突っ込みながら、近藤は軽く舌打ちした。

「分かりました。救急外来に連絡してください。下ります」

『はい。伝えます』

 電話を切り、近藤は駆け足で部屋を出た。朝の一本を吹かしている余裕はない(注6)。


 節電のために照明を落とした階段を駆け下り、一階の救急処置室に入ると、既にベテランの看護師が二人、負傷者を迎える用意をしていた。朝の挨拶もそこそこに、指示と確認が飛び交う。

「ルート(静脈注射の為の点滴)は何でとりますか?」

「ラクテックでいいよ。ヘスパンダーとボスミン用意して下さい(注7)。だいぶ出血しているみたいだから。血型けつがた(血液型)判定の準備」

「分かりました」

O2オーツー(酸素)要りますか?」

「要る。吸引も。挿管用意しておいて。アンビューバッグ(手動の呼吸補助器)も」

「(挿管)テューブ、何がいいですか?」

「うーん、女性だからなあ。あんまり太くなくていいと思うけれど、一応、7.0と8.0(内径mm)、二サイズ用意しておいて下さい」

「はい。人工呼吸器、要りますよね」

「自発(呼吸)が止まっているらしいからね。心電図モニターつけて下さい。パルス・オキシメーター(注8)も」

DCディーシー(Direct Current Defibrillator : 直流除細動器)は?」

「一応、準備しておこうか。放射線の技師さんに連絡してくれた? CTの電源入ってる?」

「連絡しました。大丈夫です。ICU(集中治療室)のベッド、空けないといけませんね」

「(意識)レベル300だからなあ」

 てきぱきと用具を揃える看護師たちを観ながら、近藤は溜息をついた。『意識レベルⅢ-300』とは、深昏睡だ。呼吸が停止している、かなり危険な状態だ。脳の損傷もあるだろう。到着までに、心臓が停止していなければいいが……。

 ゴム手袋をはめ、マッキントッシュ(気管内挿管用の道具)(注9)のライトを確認していると、看護師の雑談が耳に入ってきた。

「自転車とトラックらしいですよ」

「この事故のこと?」

「うん。交差点で衝突して、自転車に乗っていた女の人、二十メートル飛ばされたって」

 ぶるるる。惨状に慣れた看護師の一人が首を振り、近藤も苦虫を噛み潰した。 

「想像したくない状況だな……。どっちも気の毒だけど」

「一体、どういうスピードだったんでしょうね。二十メートル!」

 首を振った方の看護師が、腹立たしげに言った。もう一人が宥める。

「ブレーキを踏んだけれど、間に合わなかったんじゃない?」

「だって、国道ですよ。あんなところ、横断歩道しか渡らないじゃないですか。そこではねるなんて――」

 サイレンの音が大きくなったので、彼女達は口を噤んだ。ぴりりと、緊張が頬を走る。近藤は、内側からしか開かない自動ドアのスイッチを押して、外へ出た。

 雨か……。

 途端に煩くなる救急車のサイレンに眉をひそめ、近藤は空を仰いだ。薄灰色の雲から、細かい雨が降っている。これで、タイヤがスリップしたんだな、と考えたすぐ後だった。

 歩道と車道を隔てる縁石を破壊しそうな勢いで車体を寄せ、救急車はストップした。通りすがりの白いポロシャツを着た男性が、驚いて目を瞠る。毎度、よく事故を起こさないな、と思いながら、何故か、そのシャツの白さが印象に残った。

 バンと大きな音を立てて、救急車の後ろのドアが開いた。前方から、制帽をかぶった救急隊員が駆けてくる。

「ごくろうさまです~」

 民間人の医師や看護師と違い、彼等は訓練が行き届いている。きびきびとした動作には無駄がなく、間の抜けたこちらの挨拶に、目礼してくれる。

 ストレッチャーの上には、オレンジの毛布に包まれた女性が固定されていた。処置室へ運び入れて貰い、説明を聞く。

「国道二号線と港通りの交差点で事故です。トラックと自転車。自転車の方が、約四十メートル飛ばされていました」

「四十メートル?」

 先刻の話の倍になっているぞ。近藤は、眼を丸くした。

 さすがの隊員も、救急車内で記録した心電図を手渡しながら、渋い顔になった。

「ええ。警察が測定したところ、四十メートルでした。意識レベルは、ずっと300です。自発呼吸はありません。血圧微弱で、触診で80――」

 一人が近藤と話している間、もう一人の隊員が、呼吸補助を続けていた。看護師たちは無言で、さっさと心電図モニターをつけ、女性の腕に血管を捜す。

 近藤も、動きを止めなかった。救急隊のアンビューバッグを院内のものに交換して、人工呼吸を続けた。目だけで心電図を確認する。脈拍は110/分と速いが、VFヴイエフ(心室細動)やVTヴイティー(心室頻拍)にはなっていない。DC(直流除細動器)は必要なさそうだ。

「ご家族は?」

「今、こちらへ向かっています」

 雨で濡れているのだろうと思って黒髪に触れたら、手袋にべったり血がついたので、一瞬、近藤は眼を瞠った。散大している瞳孔を確認し、溜息を呑む(注10)。構わずに下顎を挙上し、気管内挿管を開始した。

 救急隊員は、固唾を呑んで見守っている。

 チューブが確かに気管へ入ったことを聴診で確かめ、人工呼吸を再開する。看護師が切羽詰った声で報告した。

「血圧、触診で70です」

「ルート、入りません!」

 救急隊の連絡では、血圧は100だった。到着時は80、今は70、どんどん下がっている。たぶん、胸腔内きょうくうない腹腔内ふっくうないで出血が続いている。出血が多すぎて、末梢血管が収縮しているのだ。

 焦っても、いいことはない。近藤は、落ち着いた口調を心がけた。

「IVH(中心静脈栄養)入れるからいいよ(注11)。準備して」

「はい」

 人工呼吸器を女性につなぎ、救急隊の報告書にサインをした。搬送された患者の診断名と重症度を書くものだ。――彼等は、すぐに次の現場へ行かなければならない。ご苦労さま、という挨拶もなく、救命作業は続いた。

 右の大腿静脈から心臓付近へ挿入したカテーテルへ、各種の点滴をつなぐ。昇圧剤、脳圧降下剤、電解質輸液。血液型を判定して、MAPマップを輸血……(注12)。どうにか呼吸と循環を確保した患者を、早速CT室へ運ぶ。

 院内用に電波を弱めたPHSを、ポケットから探り出した。

「外科の先生は、もう来ているかなあ。整形外科も頼まないと」

「意識、戻りますかね?」

 技師が、CTスキャンのモニターを眺めながら、問いかける。近藤は渋面を作った。両方の瞳孔が散大している。呼吸も停止……。心臓が動いていても、どれだけ回復が望めるだろう。

 頭部CT映像は、眼を覆いたくなるような状態だった。

「胸部と腹部(のCT撮影)もお願いします。胸写きょうしゃ(胸部X線撮影)二方向と、腹単ふくたん(腹部単純X線撮影)と、骨盤と四肢を撮って、ICUに上がってくれる? オレ、応援呼ぶから」

「はい」

 てきぱきとした看護師たちの動きを見ながら、外科医のPHSを鳴らした。

「井上先生、おはようございます。朝からスミマセンが、頼まれてくれませんか――」

 今日も、永い一日が始まった。



「ふう」

 朝食兼昼食代わりの缶コーヒーを喉へ流し込み、近藤は溜息をついた。いったい、何時間働いているのだろう?

 昨日は一日外来をして、夕方から病棟を回診し、日中の業務が終わったのは二十時過ぎだった。十七時から当直に入り、深夜に次々やってくる患者を、ほぼ徹夜で診察し……。

 『逢魔ヶ時』の急患の処置をして、家族にムンテラ(病状の説明)をし(注13)、外来患者を診察して……気づけば、十五時を回っている。三十二時間連続勤務だ。しかも、まだ終わらない(注14)。

 てっとりばやく血糖値を上げるには缶コーヒーが一番だが、もう味も解らなかった。

「先生、お疲れさま~」

 明るい声に振り返ると、夜勤で一緒だった看護師だ。白衣を脱ぐと見違える。近藤は、苦笑した。

「おう、お疲れ」

「まだ帰らないの?」

「もう少し。仕事が残っている」

「まだ? 早く帰らないと、次に掴まっちゃうよ」

 確かに。これではエンドレスだ――。



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 はい。お付き合い頂き、ありがとうございました。

 これは、かつて私が書きかけた現代ミステリー小説の冒頭部分を改稿したものです。この作品、私にとっては仕事の脳内再生で、書いていて全然楽しくなかったので、やめました。


 フィクションの体裁をとっていますが、救急現場のやり取りは現状に即しています。ここをお読みの方には、こういう場面を書きたい方もいらっしゃるでしょうから、情報提供のつもりです。ご参考になれば幸い。

 お目汚し、失礼いたしました。


       ◇◇◇


(注1)最も交通事故の多い時間帯

 朝は午前七時~九時。夕方は午後四時~六時ごろが、交通事故の多い時間帯です。


(注2)旧式のベルの音

 医療スタッフは院内PHSを持たされていますが、着信音は各自が勝手に変更していて、寝ていると気づかないことがあります。当直室の内線電話で起こす方が有効です。

 救急当直用のPHSの着信音が「笑点のテーマ」や「キューピー三分クッキング」の曲になっていて、非常に気まずい思いをしたことがあります……(誰が設定したんだ?)。


(注3)権利はない

 自治体により、夜間救急を受け入れる当番病院が決まっています。また、救急隊が、現場で、この人は心臓疾患だがらA病院、こちらはお産だからB病院、と判断して運んできます。受け入れ側の体制不備でもない限り、拒否は出来ません。


(注4)意識レベルⅢ-300

 JCS(Japan Coma Scale ジャパン・コーマ・スケール)と言います。救命救急現場で、患者さまの意識状態を判断する基準です。一桁は自発開眼、二桁は刺激があれば目覚める状態、三桁は刺激を加えても眼を覚まさない状態です。受け答えがきちんと出来るかどうかを加え、Ⅰ-3、Ⅱ-20、Ⅲ-100、という風に表現します。Ⅲ-300は最重症です。


(注5)サイレンの音

 救急病院に勤務していると、救急車のサイレン音にやたらと敏感になります。ドップラー効果で、近づいているのか遠ざかっているのか、街のどの病院に向かっているのか判断します。やがて、普通なら聴こえないレベルの小さな音も聴こえるようになり……(それは幻聴です)。


(注6)朝の一本

 病院は敷地内禁煙です。

 近藤医師は、ちょっと外に出て煙草を吸いたかったのです。


(注7)ラクテック、ヘスパンダー、ボスミン

 いずれも薬品名(商品名)。ラクテックは乳酸加リンゲル液、ヘスパンダーは膠質浸透圧輸液、ボスミンはアドレナリン製剤で昇圧剤です。


(注8)パルス・オキシメーター

 指先に洗濯バサミみたいな端末をとりつけ、皮膚や爪を光で透過し、血液の酸素濃度を測定する器械です。正常の酸素濃度は、90%以上。この酸素飽和度のことをSpO2(サチュレーション)と呼びます。


(注9)マッキントッシュ(気管内挿管用の道具)

 正式名称は、「マッキントッシュ型喉頭鏡」です。アップル社のコンピューターではありません。金属製で、小型の鎌のような形をしています。普段は二つ折りの状態です。意識のない患者さまを仰向けにして、口を開けさせ、この器具で舌根部を持ち上げて中を覗きます。先端にライトがついています。


(注10)散大している瞳孔

 対光反射の求心路は視神経、遠心路は動眼神経です。瞳孔括約筋の調節を行う動眼神経核は、脳幹のなかの橋という部分にあります。散大は、脳幹部分が損傷を受けていることを示しています。

 ところで、身体的「死」の三兆候は、①瞳孔散大、②呼吸停止、③心停止、です。三つ揃って「死んでいる」と診断しますので、作品中のこの女性は、まだ死んでいません。


(注11)IVH(中心静脈栄養)

 Intravenous Hypernutritionの略。末梢の血管から濃厚な輸液を入れると、血管が炎症を起こしてしまうため、身体の中心にある太い静脈(中心静脈)までカテーテルを入れ、そこから投与します。食事がとれない患者さまに、長期間の栄養管理をする場合、必要です。

 ここでは、大量出血のせいで末梢血管が虚脱して点滴が入らなくなっているため、医師が中心静脈までカテーテルを入れる、という意味です。


(注12)MAPを輸血

 正式には「赤血球MAP」。皆さまが献血して下さった200mL、400mLの血液から、遠心分離によって血漿と白血球成分を除いた後、赤血球を保存する溶液(MAP液)を加えた赤血球製剤です。4~6℃で保存され、採血後21日間は使用可能。急速な貧血や、輸血が必要な時に用います。詳しくは、日本赤十字社のHPをご参照下さい。


(注13)ムンテラ(病状の説明)

 ドイツ語のMund(口)+Terapie(治療)から作られた用語です。最近では、ICアイシー(Informed Concent 「説明と同意」)ともいいます。


(注14)三十二時間連続勤務

 看護師や他の医療スタッフは二交代、三交代制ですが、医師は交代勤務が出来ません。労働法上、夜勤明けには半日の休養をとることが義務付けられていますが、主治医としていろいろ活動していたら、平気で三十六時間~四十時間連続勤務などという事態になります。

 本人はカテコラミン過量分泌状態で活動していますが、はっきり言って危険です。だんだん言っていることがおかしくなり、やがて意識が飛び始めます。

 勤務医の激務は長年問題視されていますが(患者さまだって、寝不足で頭が変になっている医師に診察や手術をされたくないと思うのですが)、人手不足もあり、解決していません。

 

 


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