第18話 甘えた
「おかえりなさい、兄さん。いいお湯でしたか?」
入浴を終え自室へ戻ると、さも当然のようにカレンがベッドに寝転がっていた。手にはティナ達用の課題ノート。小さい頃と同じように、僕のブランケットを羽織ったまま上半身を起こし、お澄まし顔で口を開く。
「幾つか文字が間違っていたので、訂正しておきました。褒めてください」
「助かるよ、ありがとう。――リディヤは?」
「アトラ達と一緒にぐっすりです。王宮内の愚痴を言っていました」
「そっか」
普段なら『一緒に寝るわ』と全力で駄々をこねるのだけれど……アトラ達がいるとはいえ、珍しいな。余程疲れていたのだろうか?
僕は若干の疑問を覚えつつも、ベッド脇の椅子に腰かけ頭を布で拭いた。
窓際の机には、ここ数ヶ月間調べている大精霊関係の古書、まだ読んでいない各所からの書簡や報告書が山積みになっている。今晩中にある程度は片付けておきたいな。ああ、エリーの御両親についての調査も、新しい方法を模索しないと。
……テト達が難しいなら、自力でやろうかな?
そんなことをつらつらと考えつつ、妹を促す。
「さ、カレンもそろそろ部屋へ」「嫌です。戻りません」
どうやら僕の言葉を予測していたのだろう。
妹は獣耳と目を細めた。
はぁ、と嘆息し左手の人差し指を立てる。
「来年は大学校生になるんだよ?」「リディヤさんは王女殿下付護衛官です」
「いや、あいつはさぁ……」「言い訳禁止です!」
そう叫ぶや、妹はブランケットを頭から被り直し、浮遊魔法を自分自身に発動。
ふわふわと浮かび上がって僕の後方へ回り込み、椅子の背もたれに両手をついた。
物や他者ははともかく、自分に浮遊魔法をかけて移動するのは制御が難しいのだけれど……こっそりと練習していたらしい。
僕の自慢の妹は才能に溺れない努力家なのだ。
濡れた僕の髪を布で拭きながら、カレンが拗ねた口調で訴えてくる。
「前々から思っていました。兄さんは我が儘公女殿下よりも、世界で一人しかいない妹をもっと甘やかすべきです」
「甘やかしていると思うけどなぁ」
「全然足りません。……今だって褒めてくれませんし。そもそもです」
背もたれを起点に、空中で半回転。
そのまま僕の膝上に腰かけた獣耳お化け少女が、頬を膨らます。
「何だかんだ、兄さんはリディヤさんを信頼しているのに、私達を出来る限り戦場から遠ざけようとしています。それでいて、御自身が傷ついたり、危ない目に遭うのは気にされない。『氷鶴』を宿すティナは万歩譲っても……この前のララノアでもそうでしたよね?」
「え、えーっと……」
いけない。この話題は余りにも不利だ。
心底不満気に尻尾で僕の足を叩く妹から、目を逸らす。
「い、いや、ほらさ? やっぱり、妹や教え子達に危ない目に遭ってほしくはないし、さ??」
「大枠で考えれば、リディヤさんだって兄さんの教え子です。ああ――同じ魔法式を、な・ぜ・かっ! 使われているリリーさんもそうでしたね。そして、あの御二人は、兄さんと一緒に戦われています」
「…………ぐぅ」
は、反論し難い。
確かに、リディヤの魔法式を組んでいるのは僕だし、年上メイドさんに到っては僕と丸っきり同じ魔法式を使っているのは事実なのだ。
妹のジト目を間近で感じつつ、両手を軽く挙げる。
「参った。僕の負けだよ」
「だったらっ!」「――でもさ」
小さな頭を、ぽんぽん、と叩く。
キョトン、としたこういう時はまだまだ幼い妹と目を合わせる。
「こればかりは性分だよ。カレンは間違いなく、僕よりもずっと強くなるだろうし、今だって凄い。でも、僕はお兄ちゃんだからさ。妹には危ない目に遭ってほしくないし、幸せに過ごしてほしいんだ」
「…………う~」
拗ね、悔しさ――そして、甘さ混じりの呻き声。
ぽすん、と身体を倒し、僕の胸に頭を押し付けてくる。
「……兄さんは相変わらずズルいです」
「そうかなぁ?」
「そうです。あと、自分の過小評価も禁止です!」
「……客観的な」「評価じゃありません。もうっ」
ぷく~と頬を膨らませ、妹は紫電を散らした。苦笑し、浮遊魔法を発動させて、ベッドへと戻す。
頑なにブランケットを外そうとしない妹へ注意する。
「さっきも言ったけれど、カレンも来年は大学校生なんだからね? 女の子が夜、男の寝室に来るのは止めよう」
「え? 絶対に嫌ですけど」
「……カレン」
「私だって良識は弁えています。兄さん相手にしか、こんな事はしません」
「……いや、僕相手にするのもさぁ」
ごにょごにょと言葉を濁す。
僕の妹は可愛い。世界で一番可愛い。
でも、だからこそ、甘やかし過ぎたのも自覚しているわけで……。
尻尾をゆっくりと振りながら、ブランケットを羽織り直し、カレンがわざとらしく嘆息した。
「はぁ……仕方ないですね。だったら」
「うん?」
小首を傾げ、言葉を待つ。
――微かに家が震えた。
カレンが唇に触れ、妖艶に笑む。
「後ろの方にも禁止してください。ええ、今ここで、はっきりと、です!」
「――……へっ?」
瞬間、肌が粟立った。ま、まさか!
とても静かに、聴き馴染んだ声で名前を呼ばれる。
「ア~レ~ン★」
「………………」
し、しまったっ!
家の内外に張り巡らせている感知魔法を逆手に取られたっ。
こ、これだから、天才はっ!!
カレンが小さく「……あの睡眠薬でも、この程度の時間稼ぎにしかなりませんか。フェリシアにまた探してもらわないと……」と物騒なことを呟くのが聞こえ、背中の圧がより一層増した。
―――ふ、振り返りたくないっ。ぼ、僕にはまだやらなくちゃいけないことがあるんだっ。
必死に逃走経路を脳裏で構築しつつ、魔法を紡ぎ、
「あら、駄目よ?」
「! くっ!!」
直上に『黒猫遊歩』で転移した寝間着姿のリディヤ・リンスター公女殿下が、天井を蹴り猛然と降って来る。
――……うん。白、かぁ
引き攣った笑いを零しつつ、僕の意識は刈り取られた。
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