終わらない話

@seizansou

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 昔と言うほど昔ではなく、未来と言うほど未来ではない時代のあるところに、人間がいました。その人間は子どもと言うには大きすぎ、大人と言うには小さすぎました。ここでは取りあえずその人間のことは、「コドモ」と「オトナ」を足し合わせて、「コトナ」と呼ぶことにしましょう。

 コトナにとっては毎日の生活は苦しいもので、「何で自分がこんな目に遭わなければならないのだろう」「自分はどうすれば良いんだろう」といつも悩んでいました。


 ある日、コトナはベンチに座っていました。太陽は出ていましたが、周りを行き交う人はいませんでした。コトナはその時間にそのベンチに座る、ということをいつもしていました。その時間にそのベンチに座ることが好きだったのかどうか、コトナには分かりませんでした。ですが、気持ちは落ち着きました。その日もいつものように、周りに人がいないベンチに座っていました。

 すると突然、コトナに誰かが声をかけてきました。

「いつも何か悩んでいるようだけれど、何に悩んでいるの?」

 コトナはびっくりして、誰が言ったのだろうかと辺りを見わたしました。普段ここに人は来ないはずです。そしてそれは今日も同じでした。周りには誰もいません。立ち上がって周りを見わたしてみても、誰も見つけられませんでした。

「こっちだよ、こっち」

 また声がします。コトナはだんだん怖くなってきました。声が聞こえる方を向いても誰もいません。ついにコトナは声を出して聞いてみました。

「だ、誰? どこにいるの?」

 すると、さっきと同じ声が答えました。

「君の目の前だよ。僕はポストだ」

 コトナは訳が分からなくなりました。ポストが話すはずがありません。でもさっきから声が聞こえてきたところには、確かにポストがありました。

「中に誰かいるの?」

 コトナはポストに向かって声をかけました。

「誰もいないというのが本当のところだけれど、別に誰かがいると思ってくれても良いよ。君がそう思った方が気が楽ならそれでもいい」

 ポストはなんでもないというふうに答えました。

「僕としては、いつも隣でうんうん悩まれていて気になってしまったんだ。それで声をかけてみた。それだけだよ」

 ポストが続けて言いました。

「さあ、君の悩みを僕に聞かせておくれ」

 コトナは悩みました。今まで誰にも悩んでいることを相談したことはありません。なぜ相談しなかったのか、コトナにも分かりませんでした。コトナには分からないことが沢山あります。相談しない、相談できない理由も、分からないことの一つでした。ただ、なんとなく他の人に相談することが嫌だったのです。

 ふと、コトナは考えました。ここにいるのは、コトナと、自称しゃべるポストです。他の人間はいません。コトナの家族も、コトナの知り合いもいません。それに気が付くと、なんとなく、悩みを話しても良いかな、という気持ちになりました。

「自分にとっては毎日が辛い。生きているのが苦しい。他の人は楽しそうに生きてるのに、何で自分だけこんなに苦しい思いをしながら生きなきゃいけないんだ。死んでしまいたい。でも死ねない。死ねないのがとても悔しい。自分は何で生きているんだ。自分はどうすれば良いんだ」

 コトナは、自分が言いたいことをちゃんと言えたのかどうか良く分かりませんでした。今まで誰にも言った経験が無かったこともあったのでしょう。ただただ、思っていることが口からぼろぼろとこぼれ落ちました。言った後、コトナはなんとなく力が抜けてしまい、ベンチに腰をすとんとおろしました。

「なるほど、ちょっと格好つけて言えばこういうことかな? 『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』といったところかな?」

 ポストがお芝居で台詞を読み上げるように、大げさな言い方で答えました。コトナは実際にちゃんとしたお芝居を観たことはありませんでしたが、なんとなくそう思いました。

「その悩みに答えることは難しいね。何せ僕はポストだ。そもそも生きていないから死ぬことも無い。それに、存在する意義というものをちゃんと持っている。皆の手紙を預かって雨や風から守り、預かっていた手紙を郵便屋さんに渡すという役目がね。君とは正反対だね。君の悩みに答えられなくて残念だ」

 ポストは言葉では残念と言っていましたが、特に残念そうな言い方でありませんでした。どちらかといえば、当たり前のことを当たり前のように話しているといったように感じられました。コトナはなんとなくむっとしました。せっかく自分が悩みを打ち明けたのに、ポストにその悩みを否定されたように感じられたからなのかもしれません。

「おっと、怒らないでくれよ。ただ本当のことを言ったまでだよ。だって僕はポストだからね。人間じゃない。辛いとか苦しいとか感じることもないし、死にたいけど死ねなくて悔しいとかって感じることもない。感じる必要が無いからね。それに僕はポストとして作られたのだから、ポストとしての役割があって当然じゃないか。皆の手紙を預かって、郵便屋さんに取りに来てもらう、そのために人間によって作られたんだ。存在している意味があるのも当然だよ」

 ポストは言葉を続けます。

「とはいえ、せっかく悩みを打ち明けてくれたんだ。僕としても誠意を見せるべきだろう。僕から、君の悩みに対して何か答えないとね」

「でもあなたはポストだよね? ポストに人間の気持ちなんて分からない」

「そこだよ、そこ」

 ポストが少し強めに言葉をつなぎました。コトナは言葉の強さにおされたようになり、少しのけぞりました。そして、ポストの言うことが分からず、首を捻りました。

「君が悩んでいるというのは、その『気持ち』って奴のせいなんじゃないかい? 辛いとか苦しいって言う『気持ち』に振り回されて、せっかく生きているのに死ぬだの何だの悩んでいるんじゃないのかい? その『気持ち』って奴のせいで死のうとしているんなら、『気持ち』を持たないポストからすれば、そんなもの捨ててしまえって思ったりもするけどね」

 ポストは「全く不思議だよ」と、本当に不思議そうに言いました。コトナはなんとなく納得したような、だまされているような、なんともはっきりとしない気持ちになりました。ただ、これだけははっきりと分かりました。

「人間なんだからそんな簡単に気持ちを捨てられるわけがない。気持ちを持たない人間なんてロボットみたいなものだ」

 そうです。人間なのですから、気持ちが切り離せないのは当然です。ポストが言っていることはめちゃくちゃです。

「全く騒々しい。お前達は一体何を話しているんだ?」

 今度はポストとは違う声が、ポストとは違う方向から聞こえてきました。コトナはまたきょろきょろと辺りを見わたします。ですが、やはり誰もいません。

「こっちだよ、こっち」

 声がする方を見ると、背の高い雑草が生えていました。コトナの腰くらいまでありそうです。

「そうそう。私だ。雑草だよ」

 その声に合わせて、雑草が風もないのにざわざわと揺れています。

「いやなに、この人間がいつも僕の隣に座って悩んでいるようだったからね。少し話を聞いていたんだ」

 ポストが答えました。

「なるほど、そういうことだったのか」

 雑草が相づちを打ちました。

 コトナはもう訳が分からなくなってしまいました。ポストに続いて雑草まで言葉を話し出したのです。自分は頭がおかしくなってしまったのか、それとも夢を見ているのか。悩みこんでしまいました。

「どうした人間。そんなに悩むことはないだろう。人間はたまに、呼ばれてもいないのに呼ばれたような気がすることもあるというじゃないか。幻聴とか言うのかな? それと同じようなことだと思ってくれれば良いさ」

 雑草がそう言いました。しかし、幻聴というにはあまりにもはっきりとコトナには聞こえています。

「あまり細かいことを気するもんじゃないよ、人間。ただでさえ悩んでいたらしいじゃないか。これ以上余計な悩みをかかえてどうする? 聞こえている、話ができる、それだけで充分じゃないか。『なんで』『どうして』というのは、お前達人間の長所でもあり短所でもあるな。いまのお前には短所として現れているようだがね」

 雑草が少し偉そうな口調で言葉を発し続けます。雑草の言うとおり、なのでしょうか? コトナは不思議でしたが、たしかに考えても答えが出そうにないようにも感じられました。

「よしせっかくだ。私がお前の悩みに答えてやろうじゃないか。さあ、何を悩んでいるのか話してみたまえ」

 雑草は偉そうに言いました。図鑑を調べればちゃんと名前がついた草なのかもしれませんが、コトナには分かりません。だからコトナにとって雑草は雑草でしかありませんでした。

「ポストにも言ったけど。生きるのが辛い。死にたい。でも死ねない。悔しい。苦しい」

 コトナはぽつぽつと言葉をこぼしました。さっきよりも発した言葉は少なくなりました。理由は分かりませんが、コトナはなんとなくそれでもいいか、伝わるだろうな、と思えました。ポストと違って、雑草は生きているからでしょうか。コトナはそんな気もしましたが、それが正解だとも思えませんでした。

「なるほどな」

 雑草は大げさな言い方で相づちを打ち、言葉を続けました。

「全く理解出来ない」

 コトナはうなだれました。雑草がなるほど、と言ったので、きっと理解してもらえたのだと一瞬思ってしまったからです。ポストに続いて、雑草もコトナの悩みを分かってくれなさそうです。

「いやなに、私達雑草としては、生きることがすべてだからな。そこに辛いだの苦しいだのといった考えはないのだよ。生きることがすべてと言っても、別に必死に生きているというわけでもない。ただただ生きているだけだ。別に何かを目指して生きているわけでもないし、ポストのように存在している意味を持っているわけでもない。くりかえしになるが、ただ生きている、それだけだ」

 雑草はそこで言葉を止めました。コトナには何を言っているのか分かりません。『ただ生きる』ということがどういう意味なのか、さっぱり理解できません。難しい言葉を使っているわけではないようでしたが、なにか適当なことを言ってごまかされているような気分になりました。

「ただ生きるって、じゃあなんで生きてるの?」

 コトナは雑草に聞きました。意味も無く生きていると言うことが全く理解出来なかったからです。意味も無く生きているくらいなら、死んでしまったほうがましじゃないか、心のどこかでそういう気持ちもあったような気もします。

「それがお前達人間の悪い癖だ。何でもかんでも意味や理由をつけたがる。それこそ不思議だよ。まあ、君達がここまで増えたのは、そうやってなんでなんでと考え続けてきたからこそなのかもしれないがね。まあ、私達雑草はそんなことをしなくてもこうやって増えて、生きていられるんだがな。逆に言えば、人間はそうやって考えて考えて、それでやっと増えることができている生きものだとも言えるかもしれないな。生きものを生命力の強さで上下関係をつけるなら、お前達人間という奴は私達雑草以下の存在というわけだ」

 コトナはむっとしました。雑草のくせに生意気だ、と思ったのです。コトナのその様子を察したのか、雑草が言葉を続けました。

「まあそう怒るなよ。今のは生命力だけで比較したときの話だ。だがお前達人間には、考えるという力がある。考えるだけじゃない。考えたことを実行に移すこともできる。お前達は私達よりも生命力が低いのに、その『考えて実行する』という力でここまで増えてきたのだろう? そこは誇ってもいいのではないか?」

 雑草がコトナをなだめるように言いました。雑草の言葉のお陰か、コトナの中のいらだちもいくらか落ち着きました。落ち着きはしましたが、元々の悩みが解決したようには思えませんでした。なんとなく、全然違う話をされているような気がします。

「でも自分は辛い。それは今の話を聞いても変わらない。他の人がどうとかは分からないけれど、とにかく自分は辛い」

 コトナの口から思いがこぼれ落ちました。

「まあ待て待て。いまのは人間という生きものについての話をしたまでだ。お前の話はこれからする。そうあせるんじゃない」

 雑草がコトナをたしなめるように言いました。

「私達雑草はただ生きている。それが私達にできる事だからだ。そしてお前達人間というのも、ただ生きるということはできるだろう。だが、他にもできる事がある。その一つが考えて行動すると言うことだ。まあ、ここまではさっきまでの話だな。だが問題は何を考えて行動するか、だ。私達雑草はどんなに辛く厳しい環境でもただ生きるだけだ。その点についてはお前達人間も同じだろう。だが違う点がある。それが考えると言うことだ。ただ生きるだけでなく、考える事ができる。考えて、考えて、よりよい状況にするための行動をとることができる。それがお前達人間の取り柄であり、また逆に言えば、そうしなければ生きてはこれなかった訳だ。人間というのは生きものとしてはかなり弱々しいからな」

 雑草はそこまで言って、言葉を止めました。ですが、コトナのことについては結局まだ良く分からないままです。雑草が言っていることが、コトナの悩みとどういう関係にあるのか。雑草が何を言いたいのか。コトナにはさっぱりわかりませんでした。

「さて、ここからがお前の話だ、人間。お前の場合、生きるために、生き延びるために使うはずの『考える』という力を、間違って使っている。それが問題なのだ。生きる意味が無いなら死ぬなどと考えているようだが、もしそうなら、地球上の全ての生物が死ななきゃならん。役に立つ生きものがいるだの、食物連鎖だの、生態系のバランスだのといった考えが人間にはあるようだが、それはお前達人間が勝手に意味を後付けしただけだ。元々生きものというのはただ生きているだけなのだ。生きる目標だの意味だのは持っていないし、別にそれが無いからと言って死ぬわけでもない。ただただ生きているだけだ。それだけだ。生きる目標がない? 生きる意味が無い? それがどうした。そんなことをいちいち気にしているのはお前達人間くらいのものだ。なんでせっかく持っている考えるという力を、そんなどうでも良いことで使っているのか。まったく、生きるということに対して不誠実だ。いっそ不愉快ですらある」

 雑草はすこし興奮気味に、すこしいらだった様子で言葉を並べ立てました。いきなり興奮しだしたので、コトナは少しびっくりし、同時に少し怖くなってしまいました。ただ、不満もありました。なんで悩みを打ち明けただけなのに、怒られなければならないんだ、と。それに、なんとなく雑草が言っていることはコトナの悩みとずれているような気もしました。

「でも、毎日が辛い。苦しい。いっそ死んで楽になりたい」

 コトナの口から、思わず言葉が漏れ出ました。

「いいかげんにしてもらえませんかね? 貴方達は少々騒がしすぎますよ」

 また別の声が聞こえてきました。今度はとても近いところからです。もう驚かないようにしよう、とコトナはなんとなく心に決めました。

「今度は誰? ベンチ?」

 とても近いところから聞こえたので、ベンチかなと思いそう口走りました。

「違いますよ。貴方の体です」

 コトナの頭はしばらくの間真っ白になりました。自分の体が自分に話しかけている? 全く意味がわかりません。心構えをしていたつもりでしたが、さすがに自分の体と話をすることになるとは思ってもいませんでした。

「体……?」

 コトナはそれを口にするのが精一杯でした。

「そうです。貴方の体です。いいかげん黙っていられなくなったので、失礼かとは思いましたが話に割り込ませていただきました」

 体は丁寧な言葉遣いをしていましたが、それがかえってよそよそしく、まるで自分のものではないように感じられました。

「今までの話は全て聞かせてもらいました。私が貴方の悩みに答えさせていただきます。ポストさん、雑草さん、それで構いませんよね?」

 自分の体が自分の思いと関係無く勝手に話をしている。コトナはもう本当に訳がわからなくなってしまいました。

「ああいいよ」

「構わない」

 ポストと雑草が答えました。

「では失礼して。まず真っ先に言わせていただきますが、私、体としましては、死ぬのはまっぴらごめんです」

 体はコトナに対してぴしゃりと言いきりました。コトナはまだ頭の整理がつけられず、話についていけません。

「いいですか? お腹が空いたとか、眠いとか、疲れたとか、痛いとか、そういうメッセージを貴方に伝えているのは、全部生きるためなんですよ。私は死にたくないんです。さっき雑草さんもおっしゃっていましたが、生きる意味とかそういうのは私としてはどうでもいいんです。ただ生きたい。そのために貴方に様々なメッセージを送っているんです」

 体は今まで黙っていた反動なのか、コトナの様子にかかわらず、一気にまくしたてました。コトナは何とか話に付いていこうと頭を回転させました。

「でも、辛い」

 かろうじて、コトナの口から言葉が出ました。そうです。みんなが色々と理屈をつけているようでしたが、辛いと感じているのはコトナなのです。みんながどう言おうと、どう思おうと、辛いものは辛いのです。

「だから雑草さんも言っているように、そこで考えるのです。ただ、貴方は考える内容を間違えているのです。『なぜ辛いのか』と、辛い理由を考えてしまっているのです。それが間違いなのです。辛いと感じている、いいでしょう、それは認めましょう。実際貴方が辛いと感じているときは、体としても調子が悪いですからね。ただ考えるべきは『なぜ』ではなく『どうすれば辛くなくなるか』ということではないのですか? 生きることが辛いなら、生きることが楽になるためにはどうすれば良いかを考えた方がよっぽど考える力を役に立てられるのではないですか?」

 なんとなくですが、体が言いたいことが、ぼんやりとわかったような気にもなりました。でも、とコトナは思います。

「辛いときに、そんな難しい事を考える余裕なんてない……。辛いときは辛いことで頭がいっぱいになって、他のことなんてなにも考えられない」

 そうです。さっきから考えろ考えろと言われますが、そんな元気はないのです。

「生きる意味とか目標だってそう。みんな無くても良いとか言うけれど、それが無いと生きていることに耐えられない。生きることの辛さに耐えられない」

 コトナの思いが口からあふれ出します。

「それは」

 体が何かを言いかけたときです。

「そう。そこなんだよ。その辛いとかいう気持ちなんだよね」

 唐突にポストが割り込んできました。

「さっきは途中までしか話ができなかったけれど、君はその『辛い』とか『苦しい』とかって気持ちに振り回されているように見えるんだよ。辛いと何がだめなの? 苦しいと何がだめなの? そんなもの放っておけば良いんじゃないの? それが僕には理解出来ないんだ。何せポストだからね」

 ポストは心底不思議そうに言葉を連ねました。

「だからさっきも言ったじゃない。辛いときは何も考えられないし、体だって思うように動かないことだってある」

 何回同じことを聞くんだろう。コトナは少し頭にきていました。

「考えられないんだろ? だったら考えなきゃ良いじゃないか。できないんだったらやらなきゃ良い。できないことをやろうとして、でもできないからそれで悩んで余計辛くなって。僕はそれも『気持ちに振り回されている』と言えるんじゃないかと思うね。僕は手紙を預かることしかできないし、それ以上のことをするつもりもない。だから別に悩むことは何もない。そんな僕からすれば、気持ちのせいでできなくなっているのに、無理にやろうとして更に気持ちが悪い方に行く、そんなことをやっている君は『気持ち』という奴に本当に振り回されているように見えるね」

 ポストは当たり前のことであるかのように、普通に話をしていました。

「だいたいだな」

 今度は雑草が割り込んできました。

「さっきからお前は辛い苦しいとそればっかりだが、楽しいかったことや嬉しかったことはなかったのか? 言っておくが、私達雑草は辛いと感じることはないが、楽しいと感じることもない。だが人間のお前は楽しいとか嬉しいとか感じることがあったんじゃないのか? それでそれと比べて辛いだの苦しいだのと言っているのではないか? だとしたら、生きていることが辛いことばっかりというのはおかしいんじゃないのか?」

 雑草が問い詰めるようにコトナに言葉を向けました。楽しかったことはあったのでしょうか? 嬉しかったことはあったのでしょうか? コトナにはすぐには思い出せません。思い出すのは辛かった思い出や苦しかった思い出ばかりです。

「……そんな思い出なんてない」

 コトナはぼそりと答えました。

「覚えていないだけであったはずです」

 今度は体が発言しました。

「気持ちというものは、いつも過去の経験と比較しているものです。生まれてから一度も楽しいとか嬉しいという気持ちになったことのない人間がいたとしましょう。その人間は果たして辛いとか苦しいと感じるでしょうか? 感じるかも知れませんし、感じないかも知れません。私はそういう人間ではないのでわかりません。だって、私はお腹が空いたときに食べたご飯の味を覚えています。おいしくないことも多かったですが、少なくともほっとした気持ちにはなりました。私は傷が痛かったことを覚えています。そしていつの間にか傷が治って、触っても動かしても平気だったことにほっとしたことを覚えています。貴方が覚えていないと言い張ったとしても、体である私は覚えています。だからお腹が空いたらご飯を食べたいと思いますし、傷ができたら早く治ってほしいと思います。貴方はそんな経験すら無いと言い張るのですか?」

 コトナは言葉に詰まりました。そういう経験は確かにあったような気もします。でも、コトナが思う楽しいこととか嬉しいことはそういうものだったのでしょうか? そんなに小さなもので良いのでしょうか?

「それは……あったかもしれないけど……。でも、そんな小さなこと、嬉しいことに」

 入らない、コトナはそう言おうとしました。

「入ります。なぜ楽しいことや嬉しいことの大きさにこだわるのですか? では例を出しましょうか。そうですね、地下水を飲んだことは……ありませんでしたね。まあともかく、地下水というのは、夏は冷たく、冬は暖かい……と感じらるのです。感じられる、と言ったのは、実際には水の温度が上がったり下がったりしてるわけではない、ということです。地下水は気温とは関係無く大体同じ温度です。その温度が、夏の暑いときには冷たく感じられ、冬の寒いときには温かく感じられる秘密なのです。人間の気持ちだって一緒です。人が多いところにずっといてうんざりしているところに、誰かが寄り添ってくることと、本当にさみしくてしょうがないときに、誰かが寄り添ってくること。起きていること自体は同じことですが、気持ちが違うと受け取り方が全然変わってくるはずです。貴方はいつも、起きたことに対してどういう気持ちでいましたか?」

 コトナは考えました。いつもどういう気持ちでいたのだろうかと。

 ふと、コトナが何かに気づいたかのように顔を上げました。

「今度は誰?」

 コトナが辺りを見回します。見つからなかったのか、立ち上がって、周りだけでなく、上や下も見回します。

「誰? どこ?」

 コトナは探すように声を上げます。しかしその声に反応するものはありません。

「反応してる。誰?」

 なおもコトナは探します。しかし一向に反応はありません。

「だから! 反応してる! ずっと自分のことを見てるみたいだけど、どこ?」

 コトナは空中にむかって声を上げます。

「空中じゃない。あなたにむかって聞いてる。そこから声が聞こえる。そこにいるよね?」

 そう言ってコトナは『こちら』を指さしました。

「やっとわかったみたいだけど、あなたは誰?」

 コトナは『あなた』に問いかけているようです。この文章を読んでいる『あなた』は一体何者なのでしょうか?

「そう。あなた。あなたは自分の悩み、解決してくれる?」

 『あなた』はコトナの悩みにどう答えますか?

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