第五十話:指切りげんまん

 ばたりと英二が膝を立てて崩れ落ちた。

 両手を地面につき、ハアハアと荒い息をつく。

 体からは既に赤黒い光は失われていた。

「おい、しっかりしろ」

 凱が側に跪き、背中に手を当てて英二の様子を見る。

「英二、大丈夫……?」

 結有も心細気な声を上げて英二を見下ろしている。

 英二はしばらくそのままの姿勢で息を整えていたが、やがて顔を上げて弱々しくも笑みを見せた。

「はは……邪気は全部、焼き尽くしてやったよ……」

「そうか……よくやった。しかし何て危険な賭けを……もしお前がそのまま邪気に飲み込まれでもしていたらと思うと、ゾッとする」

「私のために……ごめんね」

「賭けなんかじゃないよ。絶対に邪気なんかに負けないって自信はあったさ。それに何より……」

 英二はゆっくりと立ち上がり、結有の目を見つめた。

「結有を犠牲にして救われる世界になんか興味はないって、本気で思ったんだ。とんだわがままだけど、自分の心に嘘をついて生きれるほど俺は器用なんかじゃない。運命とか、選ばれし者とか正直どうだっていい。誰に決められるでもない、これは俺自身の人生だから」

 結有はがばっと英二に両手で抱きついた。

「うぐっ…ひくっ…」

 堪え切れなくなった涙が大粒の塊となって目から溢れ出していた。

 自らの命を捧げて世界を救うという余りに大きく過酷な重圧から開放され、ありのままの姿でいることを自分に許した1人の少女の姿がそこにはあった。

「よく頑張ったね、結有。怖かったし、辛かったろ……でももう大丈夫。結有はこれから、他と変わらない普通の女の子として生きて行ける」

 ぎゅっと結有の頭を胸に抱き寄せ、英二は穏やかに語りかける。

「だけど……はは、このわがままにはきっちり代償も付いてきたみたいだ」


 英二の言葉に結有は胸に埋めた顔を上げた。

「えっ……どういうこと……?」

 見上げた英二の顔は、何故か少し透けて見えた。

 顔だけでなく手も、服に覆われた体も。

「あの強力な邪気を燃やすために、力、全部使い切っちゃったみたいだ。邪気と一緒に俺の魔気も燃え尽きた」

 徐々に徐々に、英二の全身の透明度は増して行く。

「え……えっ……」

 結有は冷静さを失い、気が動転していた。

「この世界の唯一にして絶対の存在の条件。それは魔気の力を有していること。もしそうでなければ、この世界での存在は許されない。アカデミーでそう習ったよね。ごめん、俺はもうすぐこの世界から消えていなくなる」

「嘘だ……そんなの嫌だよ!」

 結有は英二の体を両手で強く抱きしめた。

 その存在を、確かに強く感じたいとでも言うかのように。

「置いてけぼりにしちゃってごめんな……」

 英二の声も心の中の切なさを表すかのように掠れている。

 英二の体はいよいよ色を失って来ていた。

 体を通して背後の景色が明瞭に見える。

「でも結有、約束して! これからこの世界で君が幸福を掴み取るってことを。邪気は消えた、でもまた困難が立ちはだかることもあるだろう。辛く悲しいことだってあるかも知れない。でも絶対に諦めないで。前に向かって歩き続けて。そして幸せを掴んでくれ。それが俺の、最後のわがままだから」

「うん……うん……私、約束する」

 結有は泣きじゃくりながら答える。

「でも、英二だけはずるいから……私のわがままも聞いて」

 埋めた顔を上に上げ、英二の顔を涙でぐしゃぐしゃの顔で見上げた。

「いつか絶対、また会いに来て。私が大人になってからでも、おばさんになってからでも、おばあちゃんになってからでも、いつでもいい。だけどいつか必ずまた会いに来て」

「ああ、約束するよ。絶対にまた会いに来る」

 英二は小指を立てた右手をそっと結有に向かって差し出した。

「なに……これ?」

「指切りげんまん。小指と小指をつなぐ、地上の世界の約束の合図。約束を守らなかったら針千本飲まされるんだ」

「ははは……それ、絶対に約束破れないね」

 結有は右手の甲で瞳の涙を拭うと、そのまま小指を立てて英二の方に向けた。

 最後くらい、涙のない笑顔を見せたい。

 英二が結有の小指に自分の小指を絡め、結有もそれに倣った。

「指切りげんまん。よし、これで約束だ」

「うん、約束」

 英二の顔が背後の空に溶けていく。

「じゃあ、またね」

 つないだ小指に当たる、英二の小指の感触が薄れ、やがて消えた。

「ばいばい、英二。きっとまたどこかでね」

 結有は小指を残して握りしめていたその右拳を広げ、空に向かって振った。

 この空は、きっとどこへだって繋がっている。


 英二が目を覚ますと、夕暮れ色に染まる空が目に入って来た。

 ここは――?

 体を起こし、辺りをきょろきょろと見渡す。

 間違いない、高校に通う道の途中にある河川敷だ。

 ということは――

「戻って来た……?」

 その時背後から自分に向けて投げ掛けられた声が耳に入った。

「英二……?」

 振り向き立ち上がると、そこには――

「結有……」

 目の前の相手はぽかんとした顔をする。

「えっ……誰、それ……?」

 そうか、ここは――

「悪い……藍、だよな?」

「うん、もちろん」

 そうか。

 やっぱり、やっぱり俺は帰って来たんだ。

「私の知ってる英二だよね? 桜井、英二」

「うん。ただいま」

 藍はやっと寛いだ表情を見せてにっこりと笑った。

「どこに行っちゃったのかと思ってたよ。お帰り、英二」

 2人は並んで家路を歩いていた。

 何の変哲もない、歩き慣れた道。

 不思議だ、こうして何年も見慣れた景色の中を歩いていると、さっきまでの体験が夢の中の出来事かのように思えて来る。

 あんなに濃密で壮絶な体験だったにも関わらず。

 いや、あれは本当に夢の中の出来事だったのだろうか……

「ねえ、英二」

 隣の藍が口を開く。

「次のミッションはね……」

「えっ」

 英二は思わず藍の方を振り向いた。

「ミッション……?」

 見つめられた藍は不思議そうな顔をしている。

「えっ、何言ってるの……?」

「いや、だって今ミッションって……」

「そんなこと言うわけないじゃない。何よミッションって?」

 聞き間違い?

 でも確かに自分の耳はほんの直前に鼓膜を鳴らしたその言葉の響きを確かに覚えている。

 聞き間違いなんかじゃない。

 そうだ、きっとさっきの声は――

 英二はそっと前髪をかき上げて右のこめかみをさすってみた。

 そこには刃物でえぐられたかのような傷がしっかり刻み込まれていた。

「やっぱり」

 あの世界は確かに存在する。

 みんな、そこで生きている。

 結有も、そこでいつか俺が会いに来るのを待っている。

 その時に胸を張って会えるよう、俺はこの世界を懸命に生きよう。

 これまでの自暴自棄な暮らしは関係ない。

 これからの自分の人生は自分で切り開く。

 それが俺の、ミッションだ。

「何か、わくわくするね」

「どうしたの、急に? でも何か、本当に楽しそうだね。そんな笑顔久し振りに見たよ」

「これからは頻繁に見るかもよ」

 沈みゆく太陽とは真逆に、英二の心の中には希望の光が赤々と灯り、高く高く浮かび始めていた。

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地上ではたらく魔人の憂鬱 羽田 悠平 @fanfar0-52

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