第二話:急襲、姿なき声

 英二は、うっすらと誰かに監視されているかのような感覚を覚えることが稀にあった。物心ついた頃からその感覚は自分に付きまとっていた。

「またか」

 誰に話しかけるでもなく呟く。

 昨日藍と約束した映画館前に到着した英二は、何者かがこちらを監視しているかのような気配を感じていた。

「まったく、しつこいな」

 もう慣れたものだから、半ば冷めた気持ちでその感覚から意識を逸らそうとする。落ち着かない気持ちにはさせられるが、実害を受けたことは何もないのだ。

 英二はその薄気味悪い感覚から意識を切り、ポケットからスマホを取り出した。スマホの電子パネルは『17:52』と四文字の数字を映し出していた。

 少し早く来過ぎたみたいだな――

 ちょうどその時、藍からのラインが届いた。

『ごめん、ちょっと前の用事が押してて少し遅れちゃいそう……』

『了解。適当に時間つぶして待ってる』

 英二は簡潔な返事を送った。

 そのときふと、スマホを見ている視界の端が車道を走る車を捉えた。

 が、何かがおかしい。

 違和感を感じ、英二は顔を上げてその車の方に目を向けた。

 英二が目を留めた車は異常に速いスピードで走っていた。

 そして何より、その車は明らかに自分に向かって猛然と進んで来ていた。

 やばい、死ぬ――

 そう感じる暇もないほど短時間での回避行動を求められた英二は、必死の思いで真横に体を投げ出した。

 直後、英二が立っていたまさにその場所を車が猛スピードで駆け抜けた。

 車はそのまま20メートルほど先の道路沿いのコンビニエンスストアに突っ込んだ。

 ガラスが割れ、店内がめちゃくちゃに破壊されるもの凄い音。

 耳をつんざくような周囲の人々の悲鳴。

 現場は瞬時にしてパニックに包まれた。道に倒れこんだ英二は、その車が突っ込んだ店を見ながらしばし恐怖と驚きで呆然とした。

 すると今度はまた違う方角からも不吉な気配が迫ってくるのを感じた。

 交差状になっている前方の道から、またもや英二を目掛けて車が猛スピードで突っ込んで来た。

 英二は必死の思いで身を横に転がした。

 間一髪。

 先ほどと同様、車は英二のわずか数十センチ横を駆け抜けてそのまま携帯ショップへと突っ込んだ。

 またも大惨事だ。

 店は無残に破壊され、車からは炎と煙が上がっている。テロでも起きたかのような、凄惨な景色がそこに広がっていた。

 いったい何が――

 英二は錯乱状態に陥った。心臓は早鐘のようにドクドクと脈を打ち続けている。

 パニック状態の頭で唯一はっきりと分かっていたのは、二台の車が明らかに自分を狙って向かって来ていたことだった。その事実が英二の心を恐怖で縛り付けた。

 唐突に、混乱する英二の脳内にどこからともなく声が響いた。

『逃げろ。そこにては危ない』

 またも自分の身にふりかかる理解不能な事態に動揺が走る。しかしその声は確かに外からではなく、自分の頭の中から英二に向かって語りかけてくる。

『今のお前は非常に危険な状況にいる。動揺するのは分かるが、ここはいったん私の言うことを素直に聞け』

「何だこれ……いったいどうなってる……?」

『今はあれこれと考えるな。黙って私の指示に従え』

「そんなこと急に言われたって、鵜呑みになんか出来ないよ! いったいあんたは誰なんだ? どうやって俺に話しかけてる?」

『いいから落ち着け。私の言うことを聞かないと、取り返しのつかないことになる』

 一瞬の間を置いて、その声は続けた。

『ちょっとさっきの突っ込んだ一台目の車の方を見てみろ』

 声に促される形で、英二は先ほど大事故が起きたコンビニの方へ目を向けた。すると壊滅状態の店内から、黒いボディースーツとマントで全身を覆った一人の男が姿を現した。男の顔はマントのフードで隠れているが、こちらに真っ直ぐ鋭い視線を向けているのは容易に伺い知れた。辺りの喧騒をまったく意に介していないその落ち着きぶりは、不気味さすら感じさせる。

 次の瞬間、その男はこちらに向かって猛然と走り出した。常人離れしたスピードで距離をぐんぐんと縮めてくる。

 自分を助けに向かっているわけではないことは明らかだった。

 背筋を冷たい汗が伝った。

『来たぞ! もたもたせずに走れ! 逃げろ!』

「くそっ」

 パニックになりながらも、英二は全身を縛る恐怖の縄を必死に振り払い、その男と反対方向に走り出した。決して捕まってはならないと、脳内に響く声を聞くまでもなく本能が英二にそう告げていた。

『なかなか良い走りっぷりだな。だが、奴のスピードは君の比じゃない。今から私の指示通りのコースを走れ。そうしなければ確実に君は奴に捕らえられる』

「……分かったよ!」

 英二はやけくそ気味にそう叫んだ。

『その角を左に曲がれ。真正面に大きな書店があるからその中に駆け込むんだ』

 言われた通りに角を左折すると、確かに目の前に4階建ての大きな書店が見えた。英二は書店に向かって必死に走り、玄関のガラス扉を押し開けて中に駆け込んだ。

『右奥の階段を登って三階に向かえ!』

 周囲の客は必死の形相で店内を走る英二を不思議そうに眺める。だがそんなことを気にしている場合ではなかった。英二は素早く階段に向かい、数段飛ばしで駆け上がった。

 階段を上りきろうかという所でちらりと後ろを振り向くと、ちょうど男が店内に乗り込んで来た。男と視線が合い、すぐさま階段に向かって直進して来た。

『ぎりぎり見られたか。まあ良い。3階まで上がったら奥の本棚に隠れろ。棚はたくさんあるから姿を隠しやすいはずだ』

 ぜいぜいと息を切らしながら3階のフロアに辿り着くと、確かに本棚がフロア中にずらっと並んでいた。

 英二は急いで階段から5列目の本棚の影に身を隠した。

 すぐに男が3階に上がって来る足音が聞こえた。そこからは姿を発見出来なかったのだろう、男がこちらに向かって慎重に歩き始める足音が聞こえた。 

 英二は乱れる呼吸を必死に抑え、息を詰めていた。

『奴は今2列目を通り過ぎた。今の内にゆっくり物音を立てないように列の奥に移動しろ』

 脳内の声の指示に従い、慎重に奥に進む。

『一列になっている棚に途中で隙間があって、列と列の間を移動出来るはずだ。奴が4列目から5列目に移るタイミングに合わせて、君はその隙間を逆に動け』

「……分かった」

 大丈夫。落ち着いて動けば大丈夫だ。

 自分にそう言い聞かせる。 

『4列目……もうすぐだ……』

 英二はごくりと唾を飲み込んだ。

『よし、今だ!』

 5列目の本棚の隙間にすっと身を移し、そのままゆっくりと4列目のスペースに進む。英二は見事、男に姿を見られることなく、縦に連なる本棚を挟んで男と点対称に移動した。

『よくやった。全くあいつは気付いていないぞ。そのまま音を立てずに1列目まで戻るんだ』

 はやる気持ちを抑え、英二はゆっくりと慎重に本棚の間を移動し、階段に最も近い1列目まで戻った。

『奴はこっちを気にしちゃいない。今の内に階段を降りろ!』

 英二は本棚の陰からそっと男の後ろ姿を見ると、素早く身を移して階段を降りた。

『よし、このまま書店を出るぞ。走れ!』

 1階に辿り着き急いで入り口に駆け寄った。そのまま書店を出ると、英二は全速力で地面を蹴ってその場を後にした。


『何とか奴は巻けたようだな。ひとまずご苦労さん』

 英二は膝に手を置き、肩で荒い息をしていた。

「もう無理だ……走れない……」

『安心するのはまだ早い。いつ奴に見つかるとも分からない』

「いったいどうしたら……」

『私と合流するぞ。そう遠くない場所だ』

「合流……?」

 英二は疲れ切った頭が一気に醒めるのを感じた。

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