第72話 やっ、やめろ!

「ビシっ!」

いきなり、男が女の頬を叩いた。

 平手ではあるが、フルスイングで……。


 叩かれた女は、絨毯の上に突っ伏し、肩を震わせている。


「スマホにメールをするなと、何度言ったら分かるんだ?」

「……、……」

「妻にバレたら、私だけでなく、早苗、おまえだって辛いことになるのが、何故、分からん」

「……、……」

さ、早苗……?

 何で、殴られているんだ、おまえ……。


 男は、テーブルの上にあるワイングラスを掴むと、一気に中身を飲み干した。

 そして、乱暴にタバコの箱に手を伸ばす。


「チっ……」

タバコは箱に残っていなかったのか、男は舌打ちをし、箱を握りつぶした。


「ご、ごめんなさい……」

「ふんっ……。こないだも同じ事を言っていたぞ」

「すいません、次は気をつけます」

「それも、前と同じだセリフだな」

早苗は、乱れた長い髪の毛をかき上げ、顔を上げた。

 血の気の失せた顔に、叩かれた左の頬だけが朱に染まっている。


「早苗だって分かっていているだろう? 私が妻とは別れられないことは……」

「……、……」

「妻は専務の娘だ。娘の陽子も、来年は小学校に上がる。今、私達の関係がバレればすべてお終いなのは、早苗にも何度も説明したはずだ」

「……、……」

「おまえは、それでも私とよりを戻したんだ。すべてを知っていてな」

「……、……」

「だったら、この関係を長く続けるように、細心の注意を払うべきじゃないのか?」

「すいません」

「それとも、また私と別れたくなったか? おまえが別れたければ、いつでも私は別れてやるぞ」

「……、……」

早苗は、目を伏せた。

 その表情からは、深い悲しみの色しか見えない。


「メールは、業務上のことだったので、致し方なくしたんです。取引先の折井課長が、至急、連絡を取りたいと言っていたので……」

「そんなものは放っておけば良い。どうせ折井さんの用件なんて、大した話じゃないんだ」

「……、……」

「本当に急用があれば、私に直接メールをしてくる。だからメールで取り次ぐなと何度も言っただろう?」

「すいません。折井課長の様子が、いつもと違っていたように感じましたので……」

「ふんっ……。そんなことを言って、また、私を困らせたかったのと違うか? 早苗はいつもそうだ。寂しくなると、私を困らせるようなことをする」

「……、……」

「前もそうだったよな。突然、私の家の周りをうろついて……。妻に不審がられるほど露骨に姿を見せやがって」

「……、……」

「あのときは何とか私が誤魔化したが、あれ以来、妻はおまえから接触してくると機嫌が悪いんだ。ひょっとすると、何か気がついていたのかも知れない」

「……、……」

男は、高級そうなワインのボトルに手を伸ばすと、まだ残っている早苗のグラスに少し足し、自身のグラスになみなみと注いだ。


「だから、私達は別れたんだろう? それに、早苗も結婚するって言っていたじゃないか」

「……、……」

「私はそれで良いと思っていたんだ。早苗には早苗の幸せがあるからな」

「……、……」

「それなのに、よりを戻そうと言い出したのは、早苗の方だぞ。何でも、婚約していた男が、痴漢をして捕まったんだってな?」

「それは違いますっ! あの人は……。義彦さんは無実でした」

「だったら何故、私とよりを戻した? その義彦って奴を信じていたんだろう?」

「……、……」

早苗は、一瞬キッとした顔で男を睨んだが、すぐにまた目を伏せた。

 ワイングラスを見つめている目が、うつろに潤む。


「おまえは結局、義彦って奴を信じてはいなかったんだろう?」

「……、……」

「可哀想だな……、そいつ」

「……、……」

「本当に辛いときに、愛している女が信じてくれていなかったんだからな」

「……、……」

「まあ、早苗が本当に愛していたのは私だからな」

「……、……」

「そもそも、結婚しようって方が無理だったのかもしれんがな」

「……、……」





 うっ、うるせえっ!

 今すぐ、その口を閉じやがれ。

 俺はおまえなんかに同情されたくないっ!


 そうだよ。

 おまえの言うとおり、早苗は寂しかったんだ……、俺が捕まって。

 だけど、信じてくれていたはずなんだ、最初は……。


 でも、警察は書類送検するし、検察は起訴する方向で話を進めていた。

 そんなことが耳に入ってきたら、誰だって迷うに決まってるだろう。

 信じられなくなっても当たり前じゃないかっ!


 俺だって、そんなこと分かっているよ。

 だけど、取り調べを受け続けて、俺自身が、

「もしかしてやっていたのかも……」

と、思ったくらいだからな。

 それくらい取り調べはキツイ。

 世間の圧力は強いし、不安になるもんなんだよ。


 おまえに何が分かるっ?

 俺の気持ちも、早苗の気持ちも、分かってなんてたまるものかっ!


 なあ、そうだろう……、早苗。

 君も辛かったんだよな?

 いっぱい俺のために悩んでくれたんだよな?

 俺に別れを告げたときに流した涙は、苦渋の末に出たものだったんだよな?





「ごめん……。痛かったかい?」

「ううん……、私の方こそごめんなさい。もう、決してメールはしないから許して」

男は、早苗ににじり寄ると、自身が平手で打った頬を、優しく撫でた。


 早苗が潤んだ瞳のまま、男に顔を向ける。

 男はそれを見て、かすかにうなずいた。


「分かってくれれば良いんだ。私は早苗のことが好きだよ」

「……、……」

「だけど、分かってくれ。私が妻と別れたら、会社を追い出されてしまう。そうしたら、こうやって早苗の部屋で落ち着いて逢うことも出来なくなってしまうんだよ」

「そうね……」

「私の気持ちは、いつも早苗と共にあるよ。それは分かってくれるね?」

「はい……」

男はそう言うと、早苗の顔に、自身の顔を近づけた。

 馴れた手つきで、早苗の両腕が男の背に回る。


「早苗……」

呟きとともに、男が口づけをした。

 目を閉じ、それを受け入れる早苗……。


 早苗の顔が、弛緩するのが分かる。

 恍惚としたような表情が、妙に艶めかしい……。





 やっ、やめろ!


 早苗っ!

 そんなゲス野郎から、今すぐ離れろっ!


 おまえだって分かっているだろう?

 そいつの言うことは嘘だ。

 その男は、早苗のことをちっとも愛してなんかいない。


 色と欲……。

 そいつは、それしか頭にない奴だぞ。

 寂しいのは分かるが、絶対にまた悲しい想いをすることになるぞ。


 ……だが。

 俺の身体は動かない。

 それどころか、鳴き声の一つも上げられないでいる。


 どうしたんだ?

 まさか、俺自身が緊縛呪にかかったのか?


 早苗……。

 ダメだっ!

 俺は猫になってしまって、止められない。


 だから、自分で離れるしかないんだよ。

 救ってあげられないんだ。


 やっ、やめろ……!





「コロ……?」

「……、……」

エイミアが、俺の顔をのぞき込んでいる。

 いきなり開けた目に、光りが入り込んできて眩しい。


「どうしたの? 寝ながら凄い声で唸っていたわよ」

「……、……」

「私、兵士さん達の手当で忙しかったから、コロのこと放っておいてごめんなさいね」

「ニャっ……」

ゆ、夢か……。


 最近、人だった頃の夢は、滅多に見なかったんだが……。


「もう少し待っていてね。シュールの薬が届く前に、ジン様の薬を調合してしまうから……」

「……、……」

「そうしたら、一緒にお昼ご飯を食べましょうね」

「……、……」

エイミアは、そう言って俺を抱き上げ、頬ずりをする。


 うん……。

 俺、調合が終わるまで待っているよ。

 いつも気にかけていてくれてありがとう……、エイミア。


「エイミアさんっ! ヘレンさんがお呼びですよ。ジン様の治療のことで相談があるそうです」

「は……、はーい。た……、ただ今参ります」

エイミアを呼びに来た僧侶が、慌ただしく用件を伝える。


 エイミアは、俺を地面に置くと、すぐに駆けだした。

 しかし、いくらも行かない内に止まると、振り返り、俺をチラッと見る。


「大丈夫よ、コロ……。私、すぐに戻ってくるわ」

「……、……」

そう言って、エイミアは俺に笑いかけた。


 うん、待ってるよ……。

 エイミアなら、俺、ずっと待っていられるよ。


 俺は、心の中でそう呟いていた。

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