第8話 深き森に纏わる歴史の狭間
第8話 Ⅰ
イングヴァルの森と呼ばれる深い樹海がある。
それはアフリス村から北西へ、馬で丸一日の距離にある古戦場跡で、イングヴァルとはこの地で戦死したアンクレイス侵略戦争当時の英雄の名である。
戦場跡というからにはもともとは開けた平地で、それどころか防衛軍の拠点として要塞化されていた場所であったが、アシェド王国軍によって徹底的に破壊され火を放たれたあと、国内全土が焼け野原となったアンクレイス内で復興の手が入ったわけでもないのになぜか最も早く緑化が進んだ土地である。
それだけなら国難を憂えた英雄が守護霊となって後世のアンクレイス人のために大地の精霊を呼んでくれたのだ、という感動ストーリーで落着する。
そうならなかったのは、この森の常軌を逸した特殊性による。
あまりにも成長速度が早く、しかもここでしか見られない突然変異ともいうべき奇怪な植物に溢れ、モンスターを含めた動物の姿がほとんど見られないのだ。
いや、見当たらないどころかむしろ彼らはこの森を避けてさえいる。一見美しく壮大な大森林で草食動物にとっては楽園とも思える場所であるはずなのに、草食動物は避け、それゆえに肉食動物もモンスターも立ち入ることはない。
極めつけは、この森での失踪事件の多さであった。
噂が広がってだいぶ落ち着いたとはいえ、今でも年間で二〇人ほどの怖いもの見たさの若者や旅行者、冒険者が姿を消しており、一〇〇年ほど前には逃げ込んだ盗賊団を追って騎士団が踏み込んだが、森の外で待機していた見張り以外誰も帰ってこなかったという事件も起こっている。
そのため、イングヴァルの森を英霊の墓所と呼ぶ人間はおらず、怨念の樹海としてただ悪名が知られるばかりであった。
そんな場所が、ユウハに依頼された次の現場である。
「そんなところに女性を送り込むんですか!?」
領主の使者としてやってきたオロフの説明を聞いて、オイゲンが大声で異を唱えたのは無理からぬことだろう。
「いやいや、これはあくまで一般に知られている話だ。実は例の騎士団失踪事件のあと、事態を重く見た王都から腕利きの封術師が派遣されてきて、なんとか森の中心部までの安全は確保できたのだよ」
「聞いた限りでは相当にたちの悪い霊的現象のようだが、その封術師はよほどの腕だったのだな」
「ええ、わが国の魔術史に名を遺すほどの使い手です。そしてそれ以来、イングヴァルの森は彼の直系の弟子が代々担当していたのですが、今年は少々都合が悪く……」
「多少遅れるくらい問題ないだろう?」
「それが、もう既に一ヶ月遅らせている状態なのです。ですが先方が動けるようになるにはあとひと月はかかりそうだと連絡があり……」
「それでユウハに白羽の矢が立ったというわけであるか」
なにやら自分のことのように胸を張るズタ袋に、まだ怪訝な態度を抑えきれないオロフは苦笑しながら頷いた。
「しかし、それほど大きな案件をよく外国人に任せようという気になったな。これがハイデルベルクなら意地でも自国の人間にやらせるものだが」
「王都ではそういう意見もなくはなかったでしょうが、本来担当している封術師直々の指名でしたし、こちらとしてはユウハどのの実力は承知しておりますから」
「直々に、ですか?」
ユウハは意外そうに首をかしげた。
「ええ、なんでも面識がおありだとか」
「あ、もしかして……」
「なんだいユウハ、けっこう偉い人とコネがあるんじゃないかい」
「ここへ来る途中、王都近くの町で封術師のご老人にお会いして、そのかたにこの仕事を斡旋してもらったのですが、そのかたが……」
「ええ、そのご老人こそわが国が誇る偉大なる封術師ヴィルマル・ファーンクヴィスト直系の弟子、レンナルト・バーリエルさまです」
ここで納得しておけばよいのにそうもいかないのが、好奇心旺盛で疑り深いシュネルドルファーの性格というべきである。
「老人というからにはその人物にも若い弟子がいるだろうに、そいつはどうした?」
「弟子は二人いらっしゃるのですが、どちらも二年後の再建五〇〇周年の下準備として現場監督や巡察にと全国を飛び回っておいででして……」
「二年も先のことなのに気の早いことだな」
シュネルドルファーは苦笑し、オロフも苦笑で返す。
「国民性ですかな、考えうる限りのことはできる限り事前に対策を立てておかねば気が済まないのですよ。なにせ、五〇〇年もかかりましたからな……」
そういってしばし遠い目をしたが、すぐに、
「お陰で外国人からは、アンクレイス人は倒壊しないことを確かめるために家を二度建てる、などと揶揄されていますよ」
そう明るく笑った。
それに続く明るい声がひとつ。
「なァに、五〇〇年など食後の微睡みの如しよ。アンクレイス人は生来、生真面目なのであろう」
「そう思いたいですな」
そういうことで、一行は一日の準備ののち、一泊の野宿を経て朝早くにイングヴァルの森に到着したのだった。
野生動物もモンスターもまずいないが場所が場所なだけに念のためにと派遣してもらった三名の騎士を伴い、案内役兼監督役のオロフを含め一時的に九名の大所帯となった一行は、外から見る限りにおいては神秘的ですらある巨大な樹海に早速足を踏み入れた。
本当は九人と一頭になるはずだったのだが、いくら恐れ知らずでも狭い樹海の中でトゥーラの巨体は邪魔にしかならないとさすがのレッコウも彼女を説得し、ひと悶着の末どうにかこのメンバーとなったのだった。
「これは……!」
森へ一歩踏み入った瞬間、シュネルドルファーが呻いた。
「感じますか」
感心したようにオロフが目を向けた。
彼はただの役人ではない。監督役を仰せつかっている以上、封術師がきちんと役目を果たしたかどうか理解できる程度には封術の心得をもった魔術師でなければ同行する意味がないのだ。
「なんとも異様な感覚だ……」
「魔術師のかたは道から外れないようにしてください。中心部まで続くこの道にはできるだけ正常な感覚を保てるよう結界が張ってあります」
「これでか……」
そう驚きつつも、確かめたくなるのがシュネルドルファーという男。不用心なほど堂々と、道とはいいがたい獣道から全身丸ごとはみ出した。
「うッ……!?」
その瞬間、シュネルドルファーは平衡感覚を失ったようにふらつき、倒れるように道に戻ってしまったではないか。
「先生、大丈夫ですか!?」
師の体を支えて、オイゲンは驚愕した。
ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、シュネルドルファーの全身が小刻みに震えていたのだ。
「これは……およそ生物のいるべき場所ではない……! これほどの不快感、嫌悪感を覚える場所が存在するとは……!」
「さすが連盟魔術師……私ではそこまでのものは感じられませんでした」
「いくら戦場跡とはいえ、これほどの……いや、そうか! ここは精霊点だったのか!」
その声は、ほとんど悲鳴であった。
だからこそ、オイゲンもすぐに理解することができた。
「じゃあ、ここはもう……」
精霊点とは、ジブラスタのオアシスでシュネルドルファーが語ったように、霊脈の交わる点、あるいは霊脈がないにもかかわらずなんらかの理由で強い魔力が集まった場所を指す。
そういった場所には古来大都市が築かれ発展し、いくつもの歴史的文明が誕生した。
しかし、人が多く集うと邪な意志もまた蔓延し、それが増幅されやがて大きな戦へと繋がり、大勢が恨みや憎しみ、悲しみや後悔を残して死ぬ。そういった負の強い感情とはいわば強力な霊術であり、それが精霊点や霊脈に流れ込み、世界が汚染されることもまた、歴史上幾度となく繰り返されてきたのだ。
「そう、ここは汚染された精霊点なのです」
オロフもその意味をよく理解しているため、声も表情も沈痛以外のなにものでもなかった。
「いったいここでどれほどの人間が、どれほどの恨みつらみを抱えて死んでいったのか……私には想像することもできません」
「単なる精霊点跡になら行ったことがあるが、まさか今なお強烈に残るこれほどの場所に訪れることになるとはな……」
この国なら他にもありそうだ、という言葉はさすがのシュネルドルファーも呑み込むのだった。
「あたしもイヤな感じがしてるけど、ユウハも感じるかい?」
「ええ……」
ただ頷くだけにとどめたユウハの心情を、魔術師たちは察した。
この中でこの地の禍々しい気配を最も強く感じているのは霊術師たるユウハに違いないのだから。
「バーリエルさまが私を推薦してくださった理由がよくわかりました。急ぎましょう」
彼女には似合わない苦しげなしかめっ面を受けて、一行は中心部へと足を速めるのだった。
イングヴァルの森の中心部とは即ち、落城した天守跡である。
言い伝えによると、イングヴァル将軍ら防衛軍は援軍がないことを承知しつつも最後まで籠城してアシェド軍を押しとどめていたが、その抵抗に辟易したアシェド軍が他の場所から民間人をさらってきて城の前で一人ずつ首を刎ねてゆき、怒り狂って出てきた防衛軍を罠にかけて打ち破ったのだという。
しかも物資を略奪するとイングヴァルを含め生き残った敗残兵と民間人を城に閉じ込め、火を放って皆殺しにしたというオチまでついている。
これで怨霊にならなかったのならそのほうが不思議というべきだろう。少なくとも彼らは死後五〇〇年が過ぎた今でも世界の一部を汚染したまま影響を与え続けているのだから、その恨みの深さは推して知るべしである。
そんな地獄の釜底のような中心部には現在、樹海の中でもひときわ巨大な木が生えている。周囲にはまるで忘れないでくれと、あるいは忘れさせてなるものかといいたげに焼け跡残る遺構が散らばっており、大木が建物を突き破って生えてきたように見えなくもない。
その大木の前には、ファーンクヴィストが自ら作った石碑が所在なげに立っていた。
しかしそれこそが、代々ファーンクヴィスト一派が受け継いできた鎮魂のための術式なのである。
「ところでユウハ、おまえとこの国ではやりかたが違うはずだが、あの石碑は無視していいのか?」
「さすがに無視はできません。むしろ石碑の力も借りようと思います」
ユウハは背負っていた荷物を下ろし、家でやったように次々と儀式道具を並べてゆく。
その様子を見守りながら、オロフが改めて結界から出ないよう注意を促した。
「この地面の色の違う範囲から出ると襲われかねませんから」
と、追加して。
「襲われる……?」
ここには動物もモンスターもいないのに、といいたげにオイゲンは首をかしげたが、年長者二人は既に心得ていた。
「ここに入ったときからそんな気はしていた」
「ここにくるまでの間もずっと何者かに見られておったぞ」
「ええっ……」
生き物はいないというのに見られている、襲われるというのは、霊的現象に縁のない者からすれば不気味としかいいようがないだろう。アンデッドならばまだ肉体があり、シュネルドルファーも対処の仕方を心得ているためやりようはあるが、体がないのではどうしようもない。特に、霊術の知識もなく火魔法を得意とするオイゲンにとってこの場所は天敵ともいうべき不利地なのである。
「準備が整いました。みなさん、どれだけ時間がかかるかわかりませんが、終わるまでの間よろしくお願いします」
ユウハはこの数日間で一度も見せたことのない真剣な面持ちで頭を下げた。
「おギンさんも、お願いしますね」
「任せときな、あたしにとってもあんたの仕事は大舞台だからね」
そういって、ギンはユウハのうしろに三味線を抱えて座ったから、シュネルドルファーは不思議でならなかった。
「なにをするのだ?」
「なにって、決まってるだろ? 唄うんだよ」
「唄う……?」
「まあ見てなって」
ギンは得意げに微笑んで、ユウハに合図を送った。
そうして儀式は始まる。
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