第1話 Ⅲ
化け物二人が死闘を再開している間に、シュネルドルファーとオイゲンには自らの安全確保のためにも、王墓を暴いた責任を取るためにもやることがあった。
「さてオイゲン、既に魔力を消耗しているところ悪いがもう一働きしてもらうぞ」
「ぼくは大丈夫ですが……」
自分より遥かに重傷の師を心配そうに見やる。そんな弟子の心情を察してか、シュネルドルファーは不敵に微笑んで見せた。
「このイザーク・シュネルドルファーがあんな活きのいい研究材料を放り出して死ねるかよ。それにまだおまえにおれの本気を見せたことはないのだぞ」
それはつまり、今から彼がやろうとしていることは魔術師としてのイザーク・シュネルドルファーの本気ということ。学者としてはもちろんのこと、魔術師としての彼に憧れて押しかけ弟子となったオイゲンの心に火を灯すには充分な言葉であった。
「よし。まずは陣を描く。その四方に増幅器を置いてくれ」
「はい」
増幅器とは術の効果を高めるため、もしくは術者が周囲の魔力をより大きく取り込めるようにするための道具で、前者を結界に使用すると使い捨てとなってしまうことが多いが、後者の場合は何度でも使用可能な、むしろ発動に時間のかかる魔法を使う術師にとっては必要不可欠な道具である。シュネルドルファーの増幅器は後者の物であった。
シュネルドルファーが増幅器を使うところをオイゲンが見たのはこれでまだ三度目である。それも前回は王墓の入り口を破るときで、そのときは二つで済んでいた。それを今度はすべて使用するのだから、それだけでもシュネルドルファーの本気度が窺える。
「我が意聞こえし脈打つ精霊よ……風雅なる中原に数多巡らせし脈動を経て、その息吹を我が身に授けたもう……」
詠唱が始まった。同時にシュネルドルファーの足元にぼんやりとした光が目を開けたように灯り、そこから円形に領域を広げてゆく。それが限界まで達したとき、光が詠唱に呼応してさらさらと波打つように文字らしき記号や幾何学模様へと形を変えていくのをぼうっと眺めながら、オイゲンはひとつずつ増幅器を置いていった。
シュネルドルファーが普段刻印式を使うときは手で特定の動作を取る結印式か空中に指先で小さな印を描く筆印式と呼ばれるもので、陣を描くときも腰に差している剣を鞘のまま大きな筆のようにして使う。ところが今準備している魔法はそのいずれでもなく、シュネルドルファー自身は微動だにせずただ詠唱に集中しているのみであった。詠唱によって陣を描く術式はいったいなんと呼べばいいのだろうか、とオイゲンが考えていると、詠唱がとまった。
「オイゲン、おれの背に両手を当てろ」
「はい」
きた、と思った。術式の組み立てに一切関与できないオイゲンにできることといえば、もはやこの身を五つ目の増幅器として師の付属品になることだけなのだ。
いわれたとおり師のうしろに立って、そっと両手を当てる。すると詠唱が再開され、三秒ほど経つと、それはやってきた。
「ぐっ……! ぐぐぅ……!」
詠唱に応じて大地や大気から陣に集まった魔力が、オイゲンの体をとおってシュネルドルファーの中へと吸い込まれてゆく。このときオイゲンのなけなしの魔力も根こそぎ奪われていったが、それ以上に世界の魔力が自分の中を乱暴に駆け巡ってゆく感覚のほうが耐え難い不快感として少年の心身を刺激した。
しかし耐えるしかない。シュネルドルファーほどの使い手になればこの感覚はむしろ他では得難い独特の快感となるそうだが、その域に達していない未熟な少年にはただ耐えることでしか弟子としての役目をまっとうするすべがないのだ。
師からの励ましの声さえ期待してはいけない。詠唱をとめるということは獲物を釣り上げかけていた釣り糸を自ら切断するに等しい行為であり、そこまでに消費した魔力は戻らず最初からやり直しとなってしまう。見習いとはいえ魔術師の端くれであるという自負があるのなら、ただただ黙って耐えるしかないのである。
オイゲンは無心になろうと努めた。以前練習でこれを行ったとき、師からいわれたことがある。
「無だ。無心になるのだ。あれこれ考え感じていると魔力の流れを阻害してしまう。魔力とはただ在るもの、おまえもまた、ただ在るものなのだ。だから無心となって魔力とひとつになるのだ。それは即ち、世界とひとつになるということだ」
その言葉の意味は、まだオイゲンにはわからない。しかし師がそうせよと助言してくれたのだから、そうするのが弟子というものだ。
無心になるというのは存外難しい。とくに多感な時期には勝手にいろいろと感じ取ってしまい、なかなか思うようにはいかないものだ。それも耐え難い不快感に晒されている最中ともなればなおさらである。それゆえに、オイゲンは師の背中に助けを求めた。
両手の先にあるその感覚に合わせようとしたのである。
そこはだだっ広い空虚な空間が広がっているようでありながら、その実表現しがたいなにかで満たされているようでもあり、その感覚をオイゲンはシュネルドルファーの世界と捉え、融合しようとしたのだ。
果たしてそれは、救いとなった。
それまでシュネルドルファーと世界の魔力を繋ぎ合わせるためのジョイントという認識でいたオイゲンがシュネルドルファー側に寄ったことで、摩擦がひとつ減ったように感じられたのだ。
(そうか、先生は既に世界と一体化してるから、先生に合わせるということは世界とひとつになるということなのか……)
あるいは今日一番大事なことを悟った少年であった。
やがて、詠唱が終わる。
「よくやったぞ、オイゲン」
開口一番に褒められたことが、オイゲンはなにより嬉しかった。
「さあ、向こうに隠れていろ」
「先生は……?」
「念のための仕上げがあるのでな」
いいながらふらつく足取りで散乱していた道具をかき集める。それが終わり、オイゲンが充分に離れたことを確認して、シュネルドルファーは叫んだ。
「レッコウ王!」
「早いな!」
オイゲンはこの言葉で、実時間ではほんの数分しか経っていなかったことに気づいて驚いた。
レッコウ王はすぐさま身を翻してシュネルドルファーのほうへと駆け込んでくる。それを追うようにしてキルケもどす黒い妖気を撒き散らしながら飛んでくる。
「ああ、馬鹿ッ、真っ直ぐこっちへくるな! おまえはよけろ!」
危うくレッコウ王が罠にはまるところであったが、すんでのところで彼はその場所を回避し、そのためにキルケの魔法を一撃まともに受けてオイゲンのすぐそばまで吹き飛ばされてしまった。どう考えても生身の人間には即死級の威力であったからさすがのシュネルドルファーも蒼白となる。
「レッコウ王……おお、レッコウ王……怨めしや、愛おしや……なにゆえわがものになってはくれぬのか……!」
「化け物と契りを結ぶ趣味はないのでな」
レッコウ王は無事だった。まったくもって頑丈な骨である。いや、大王としての気概が死してなおその身を鎧う究極の気術として働いているのかもしれないが、そればかりはシュネルドルファーの破眼でも見抜くことのできない生命の神秘というべきなのかもしれない。
「化け物とな……!? この、誰よりもそなたを愛し、そなたのために尽くしたこのわらわを……!」
キルケの闇色オーラが心情と同調してわなわなと震え出す。
「愛するがゆえに呪うは化け物の所業ぞ! おのれに人の心あらば前非を悔いてただちに成仏いたせ!」
「化け物では、ない……わらわは、化け物では、断じてッ! ないッ!」
怒り狂える魔女が猛然と飛びかかった。
その途上に、シュネルドルファーの仕掛けた結界はある。
キルケが結界の真上まで達したとき、それは光の壁となって発動した。
「ぅごおおおおォッ!?」
「よし効いた!」
シュネルドルファーが本気を出して組み上げたその結界は、効果としてはただの魔力封じである。ただしそこに注ぎ込んだ魔力の量と濃度が尋常でなかった。あまり得意でない封術の効果を最大限高めるために精霊の力を借りてさらに増幅器実質五つで極限まで強化し、得意の結界術をこれまた極限まで最適化して密度を高め、同じく得意とする幻術でキルケの魔法探知力を誤魔化せるようカムフラージュしてのけたのだ。あるいはキルケが怒り狂わなければ看破されていたかもしれないが、そうはならなかったという現実しかここには存在しない。
「おのれ、虫ケラめが……!」
縮みかけた妖気が増大する。
「げっ」
あっさりと陣の一部が欠け、渾身の力作が早くも崩壊しかける瞬間をシュネルドルファーは見てしまった。
「やはり霊体には万全の効力とはいかんか……」
「異国の者よ、それで斃せるのか?」
「いいや、もともとただの足止めだ」
「吾輩にはそれで充分よ」
レッコウ王は立ち上がり、大剣烈鋼を大上段に構える。そして跳んだ。
「キルケッ! この烈鋼が一振りを冥土の土産にくれてやるわッ!」
烈鋼の刀身にこれまで以上の生命力が集中し、アンデッドが使い手とは思えぬほどのまばゆく清らかな光を放った。
しかし。
「愚かな!」
渾身の一撃が振り下ろされる寸前、なんとキルケはあっさり結界を破壊したではないか。その手を伸ばす先には無防備なレッコウの(肉なき)肉体が。
キルケも、レッコウも、見守るだけのオイゲンも、みな一様に今度こそ終わったと思った。
シュネルドルファー以外は。
これを予測し念のために準備した最後の悪あがきを、彼はみなが同じ結末を悟った瞬間にやってのけたのだ。
「ふんっ!」
と勢いよく投げつけたのは、水の入った小さなガラス瓶。
それがキルケの肋骨に当たり砕け散ると、中の水が煙と化してキルケを縛り、彼女は驚愕した。
最高のタイミングで放てるはずだった魔法が、発動しなかったのだ。小瓶が魔力封じの術を込めた封印式魔法であったと気づいてももう遅い。
「成仏いたせッ!」
光り輝く鋼の刃が、振り下ろされた。
名状しがたい断末魔の悲鳴を上げて、魔女の躯は怨念凄まじい妖気とともに消滅したのだった。
「やっ……やったー!」
オイゲンは跳ねるようにして師のもとへ駆け寄り、その手を取った。
「先生、やりましたね! ぼくたち助かりました!」
「うむ、まあ、あれがわれわれにも襲いかかったかどうかはわからんがな」
「間違いなく襲いかかったであろうよ。あれはそういうものだ」
「そうか。なら命拾いしたな」
「吾輩も同様である。おぬしらの助けなくば今度こそあの魔女に憑り殺されるところであったわ」
「もう死んでいるのにな」
「うん?」
「うん?」
なんとも不思議な空気が、両者の間を流れた。
「まさか……今の今まで気づいていなかったのか……?」
「なにをだ?」
「おまえ、すでに死んでいるんだぞ」
「ハッハッハ、近頃の異人はなかなかオツなことを申すようになったな。これが大陸ジョオクというやつか」
「オイゲン、鏡」
「はい」
魔法連携よりもよほどスムーズな連携でレッコウ王の前に手鏡が突き出される。
「ウギャアアアア――ッ!!? 道理で巧く力が入らぬと思ったらってそれどころではないわァ――ッ!!! ギャアアアァ――ッ!!!」
怨念ではないにせよ、キルケのものよりよほどやかましい悲鳴がしばしの間師弟の耳を悩ますのだった。
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