カナリア
日不見 黝
カナリア
不調律な雨音だけが存在していた部屋から一羽のカナリアとおぼしき声が微かに聞こえてくる。
次第にその声は耳障りな雨音に重なり、秩序ある甘美な歌となり部屋を満たした。
やがて光が差しこみぼんやりと浮かび上がった部屋の中央―大きな木椅子の上―に歌声の主がその姿を顕にした。
稲穂のような黄金色の体躯に新雪のように真白な嘴を携えたその姿は、女神のそれと同等、あるいはそれ以上の輝きを放っていた。
僕は彼女―既に歌声に魅せられた僕にはそれが女神にしか見えなくなっていた―の声をもっと聞きたくて少しずつ近づいた。
次第に増す光、盛り上がる歌。
また一歩、目映い躰に眼を開けることすらかなわなかったがその分鋭敏になった聴覚が余すことなく音を拾う。風の音、床の軋む音、艶やかな彼女の吐息、そして歌声。
既に僕の聴覚は僕のものではなくなったのかもしれない。それは僕の意思を無視して無邪気に音を求めているのだろうか。
また一歩。聴覚に続き視覚もまた僕のものではなくなったようだ。無邪気に彼女を追い視線を外すこともかなわない。
しかし不思議と感覚を「奪われた」とは思わなかった。
それぞれがそれぞれの意思で彼女を求めているのだ。
感覚を制御出来なくなり普通ならば戸惑い、あるいは不条理に対する怒りを抱いていただろう。しかし今の僕にはこの理解しがたい状態を当たり前に受け入れることが出来た。
感覚はもとから独立した存在であったのだと、そしてそれを「僕」という自我が無理矢理結びつけて「人間」だなどと宣っていたに過ぎないと。
だから彼女の歌は僕―この場合は僕を構成している感覚を指す―にとって救済だった。その躰に近づけば服が脱げるように何かが離れていくのを感じた。
そして丸裸の「僕」が最後に残った。
「僕」は底知れない欲を持っていた。隠すように覆われていた醜い「僕」は当然美しい彼女を欲した。
いつの間にか雨は止み、彼女のこぼす吐息だけが夜想曲のように静かに部屋を満たしている。旋律に合わせるようにそっと近づいて、
「僕」は彼女を…喰らった。
残酷な「僕」の唇がより深い紅に染められ艶かしく歪む。
やがて「僕」は食べ終えた。
歌声は途絶え光は消え「僕」は一人になった。
だから「僕」は「僕」を食べ始めた。己の一部となりながらも僅かに残る彼女をあますことなく欲しがった。
そして「僕」は消えた。深紅の唇だけが歪な微笑をたたえたまま床に落ちていたがそれもやがて吹き込む雨に溶けるように消えた。
不調律な雨音が再び静かに部屋を満たしはじめる。
カナリア 日不見 黝 @xD315
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