第5話

 東欧ふうの街路で軍靴が、アスファルトの上を走る音をたてて耳にけたたましい。通行する人はあちらこちらにいるものの、みな、何も気づかないそぶりを演じる。


 彼と友人の顔から血の気がひいていく。ひざの震えは隠しようもない。


 ところが、兵士たちは怯えて立ちすくむ二人の真横を走り抜けていった。


 すぐ近くに中年の男性が一人立っていた。よれよれのジャケットを着て背中にリュックをしょっている。猟犬のごとく迫った二人の兵士は、その男性にライフルの銃口を向けた。中年男性は口をポカンと開ける。が、すぐに困った表情となり次にボサボサの髪をいじって芝居じみた笑顔を返した。


「えへ、なんですか? 自衛隊? ああ、自衛軍? じゃなくて国防軍?」


 ぼさぼさの髪の下にかけている眼鏡の奥で、目が焦点を定めず兵隊とその周辺を見回す。


 よれよれジャケットは、両手を挙げさせられた。その後ろで兵隊がライフルでつつき、歩かせる。黒い制服の前に立たされた。突撃隊の一人がやってきて、中年男性が背中にかけているリュックを剥ぎ取った。中身を調べはじめる。


「へへへ、怪しいものなんかないですよ」


 中年男性は黒服に訴えた。しかし黒も緑色もカーキ色も、誰一人聞く耳をもたない。むしろ、機会さえあれば殴りつけるのではないかという空気をみなぎらせていた。


 リュックの中身を調べ終えたが、それで終わりではなかった。次に身体検査がはじまる。中年男性は両手を挙げさせられたまま。


 よれよれジャケットの内側から一冊の本が出てきた。


 突撃隊は黒服へ即座に渡す。その本を手に黒服は、捕らえた男性を上から下まで舐めるように見つめた。それから、パラパラとページをめくる。めくる手がとまり、捕らえた者の顔、眼鏡の奥を面白そうに睨み付けた。


「ふむ、これは、反日主義者が描いた広島原爆をテーマにしている漫画だな?」


「ああ、そうですけど、名作ですよ。今のご時世、闇コミケにでも行かないと手に入りませんからね。読みますか? 貸してあげますけど?」


 男性が答えた。黒服は、また、握りこぶしを作り咳払いをする。片方の手にしていた漫画を突撃隊に返した。黒服は再び涼しい顔を男性に向ける。


「ふーむ。対テロ防止法、青少年健全育成法、有害図書指定法、愛国法ならびに特定秘密保護法による現行犯。ここで銃殺にしてもよいが。逮捕勾留する」


「そ、そんな横暴な。国民の権利はどうなるんです? かっこいい将校さん!」


「すでに憲法は改正されて、国民に主権はないのだ。 おい、この反日主義者を連れていけ。マニアのイベントに通い詰めたようなこの汚ならしい服装を見ていると吐き気がしてくる」


 一方的に対話を打ち切り、部下へ指示を下す。また、別の突撃隊が二人走ってきて、小銃で武装している兵士たちからよれよれジャケットの男性は引き渡された。この場での銃殺は逃れたようだ。しかし、突撃隊の警棒が濡れたような光沢で輝いている。


 突撃隊が黒服へ軍隊式の敬礼をした。


 そのとき連行される男性も白い歯を見せて、ふざけて同じように敬礼をしてみせた。ところが、次に両脚をそろえて背筋をぴんとはる。何をやりはじめるのか。右腕を斜め上方へまっすぐ伸ばした。


「ハイル・ヒットラー!」


 ナチス式の敬礼で男性は叫ぶ。表情は、このしぐさでからかって凝らしめてやるぞという薄笑いである。 


 その挑発を受けた黒服将校は、切れ長の目をピクリとも動かさず、ただ冷酷な視線をかえす。


「ふむ、反抗的な態度で私を不愉快にさせたな。やむおえん。逮捕は取り下げる。裁判は面倒だからな。それに代わって医療保護による強制入院としよう。死ぬまで身体拘束の地獄を堪能したまえ」 


 黒服の下したこの裁定が男性の耳に入ったかどうかは分からない。とにかくもよれよれジャケットの男性は、手や警棒でこづかれたりしながら、手錠をかけられた。遠くへ連れていかれる。だが性懲りもなく笑いながら何度も大声をほとばしらせた。


「ジーク・ハイル! ハハハ、大日本帝国ばんざぁーい! アハハハ、自由なんかクソ食らえ! うひひひー!!」


 哄笑と捨てぜりふが、なおもかえってきたところで。黒服は、何も応えずポケットから白いハンカチを出した。自分の鼻と口の周りをふく。次に手袋をはめている手もふきはじめた。視線はトラックの回りに立つ突撃隊へちらっと向いた。


「ふむ、んっホン。これで汚ならしいゴキブリを一匹駆除できたな。われわれ優秀なアーリア系大和民族にあのような異物は必要ない。さて、突撃隊の諸君。手間を取らせて申し訳なかった。ゴミ掃除を続けたまえ」


  命令した黒服の口調は、朝の朝礼でつまらない話をする校長とよく似ている。なんの抑揚もない。とにかく、何事もなかったかのように兵士たちは、仕事に戻った。


 その光景を終始、嫌でも見物してしまった彼の背筋を汗が流れていた。旧友も顔が青くなるが、彼の肩をたたいてくる。再び目的地を目指し歩きはじめた。


 角をまがり兵隊を装う男たちの姿が見えなくなると、彼の友人が大きく深呼吸した。


「やれやれ……ちょっとエネルギーを使ってしまったが、巻き込まれずにすんだ」


「連中にとって、あれが楽園なのだろうな。……は、はは、ははは………」


「おいおい、笑わせようってのかい? ここは、“fantasy of crazy ”のユートピア。俺は慣れていたつもりなんだけどね。へへへ」


 二人の膝が震えている。しかし、さっきとは違う。しだいに笑い声があがる。また、立ち止まってしまった。自覚はあるものの、奇妙な笑いがどうにも押さえることができない。


「待ってくれ………少しおさまったよ。あまり、笑い続けると、病院へ連行されてしまうな」


「それでまた笑わせようってのかい? そうだな。このまま道をすすもう」


 笑ったあとの二人は、疲れかかった顔を隠すことはできなかった。


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