第2話

 彼は駅の出口で立ち止まっていた。長い隔たりを経て帰ってきた東京は、眺めると重たそうな灰色の雲が上空を覆っている。研究の結果を直に報告しようと大学へ向かうが、ついでにしばらく散策してみることにした。


 途中で喉がかわいたので目についたコンビニエンスストアへ立ち寄る。まっすぐに飲み物のコーナーへ行けばよかったものを、つい回り道で雑誌コーナーへ足を向けた。


「なんということだ……」


 並べてある雑誌の表紙を次々みて思わず小さな声を漏らしてしまった。彼の顔から血の気が引いていく。手にとって頁をめくってみるものの、眉をひそめてすぐにもとのところへ置く。


 棚のあちらこちらで「外国人は危険だ」、「外国人を日本から追放しろ」、あるいは「外国人はこんな劣等民族だ」、「わが国こそ一番だ」などという言葉が目に入ってくる。


 となりで立ち読みしている恋仲らしい男女から、笑い声まじりに同じ言葉が聞こえてきた。彼は、その場から離れて飲み物のコーナーへ移動する。


「今の流行りかな、それにしても……」


 ミネラルウォーターのペットボトルを一本買ってコンビニの前ですぐに飲み干した。太陽の隠れた空を見上げ、アスファルトの地面へ視線を落とす。今朝出会った影の友達は、すでにどこかへ消えうせていた。


 また、歩きはじめ、小さな古本屋の前を通り掛かった。中へ入り、いくつかの、ベストセラーらしい積み重なった書籍を見つめる。一冊を手に取りページをめくる。また別の本を開いてみた。

歴史書と銘打ちながら攻撃心を煽る悪罵が書き連ねてある。


「どうなっているんだ?」


 大きな集団心理の奥底によどみたまっている“殺意”を彼は読み取りはじめた。


 店をあとにして、気分のどこかが逆なでられるまま歩く。大きな街路に出た。


 するとデモ行進をする大規模な一群に出くわした。やはり外国人への差別の言葉ばかりが大きな掛け声として耳に入る。


 日章旗や旭日旗が掲げられ、ハーケンクロイツの旗までひるがえっていた。中には手製の日の丸がふられ、白地に赤が染みだしてしまい、血の涙を流しているように見えた。


 足を止めてしまった彼の脳裏に、過去読んだものがすぐに浮かんだ。ナチスに捕らえられた末に強制収容所で生命を落とした少女の日記。やはりナチスによって強制収容所へ送られ地獄絵図をつぶさに観察した心理学者の手記。そして如何にして大衆が狂気を産み出しのかを分析した政治哲学者の書籍。


 文字だけなら、記された光景は読む者の想像にたよるだけだが、記録された映像を彼は見たこともある。


 胸がはりさけそうになった。知らずに足が前にすすむ。歩調がしだいにはやまりデモの群集へかけよる。


「なにをやっているんだ! 私には外国に友人がいるのだぞ! 君たちにはいないのか? 日本という国は人間が勝手に作ったものだが、地球の」


 突然誰かが彼を突き飛ばした。地面に倒れ、痛みをこらえながら上半身だけ起き上がると、彼の耳に届いたのはケモノのような雄叫び、つばきを伴う罵声の嵐だった。


 襲いかからんばかりに群がる人間たち。彼は、本で読んだことと、記録映像が鮮やかに脳裏で甦り、目の前の抜き差しならぬ現実と混ぜ合わさって混乱しかけた。あるいは、外国人へ攻撃する行動を保証するものは、ナルシシズムが一つかもしれないと推察した。


 しかし、罵言の弾雨にただ耐えているしかなかった。そのうちに、デモ行進はいずこかへ流れていく。


 警備にあたっている警察官が二人、彼に近づいてきた。まるで関わりがないかのように冷たい目で見下し、言葉もかけず立ち去る。


 代わりに背後から誰かの、かけよる足音が近づいてきた。


「大丈夫か?」


 振り返るとジャンパーを着た男性が不安な目で手をさしのべてくれている。


「こんなところで会うとは奇遇だな」


 彼を見下ろしている顔が笑顔に変わった。見覚えがあり、手で瞼をこすってからよく見ると大学の昔なじみの友人であった。


 差し伸べられた手をつかみ、彼はゆっくり立ち上がる。ついた埃をはらい落としながら、あたりの人々を見やる。


 デモに参加していない通行人のほとんどが他人事のように知らぬ顔だった。その目は病んだ末のように、どこか死んでいた。


 暴力的エネルギーを発するデモ参加者とは対照的な表情をしていた。だが、彼は、両者は共に同じ種類の人格だろうと感じとる。


 昔なじみに誘われるまま、近くの古びたそば屋へ入り腰を掛ける。彼は“かけそば”で、ジャンパーを着た男性は“天ぷら”を飯に乗せたものを注文した。


 しばらく会わなかった間の出来事を彼はいくつか聞いてみる。はじめはとりとめのない日常会話が数分続いた。が、突然、旧友はあたりをそれとなく見回してから話し始める。


「ところで、俺と一緒に研究していた一人がうつ病にかかってね。医者から大量の薬を処方されて、言われたまま飲み続けたらもうそのまま廃人になってしまったよ。今はそういうの珍しくもないけどね」


 そばを食べようとしていた彼の箸が止まった。眉間がかすかに歪む。


「なぜ、今ここで、そんな話をするんだい?」


 研究所の仲間が精神を患ったという顛末。それとなく、いや、気持ちのよい顔は見せず、箸を動かしていた。耳に入る声よりも、そばを味わうことにより、わずかな一時の中に安らぎを得たかった。しかし、目の前で食事をとる友人から、ながらにも苦笑いの含んだ語り口調を耳にしていた彼は、会話の流れに不自然さを感じとり、箸を止めたのだった。そこでジャンパーの友人に問い返したのである。


 彼の友人は、その問いをあらかじめ待っていたかのように椅子を引きずり、座り直す。すでにテーブルの上に置かれている湯気のたつ茶碗を取り、茶をすすった。答えようとして少し咳き込みかけた。友人はあたりを見回し、彼の顔へ自分の顔を寄せる。といっても間にテーブルがあるのだから、そう顔を易々と寄せることなどできなかった。


 悪巧みの相談にも似ている芝居じみた振舞いが、彼の受け身な体を固くさせる。


「君は、数年間山にこもって不在だったから知ることもできなかっただろうがね。精神病の患者を無理にでも入院させる手続きくらいあるのは知っているだろう?」


「あ? ああ……措置入院とか強制入院のことか?」


「そうそう。それでその手続きが変わったんだよ。恐ろしい方向でね。以前は、強制入院させるためには、その資格のある専門医が最低限二人必要で、診察を直接行い、さらに家族の同意がなければできなかった。ところが、ところがだ。法律が改正されて、医師免許さえあれば誰でも、一人で一枚の紙にサインしてハンコを押せば強制入院させることができるようになったんだよ」


「そ、そんな……」


「しかも、家族の同意も不用ときた。この意味は分かるだろう? 政府にとってうるさい、気に入らない人間を裁判なしで監獄にぶちこめるという算段だよ」


「……よくこの国の市民は黙っているな……」


「今じゃ精神病棟は反体制的と見なされた人間ですし詰め状態だ。そのなかには、大量の薬物投与や脳の手術、それと皆が薄々気づいて恐れている身体拘束。一日二十四時間縛られているから本当に頭がおかしくなっちまう。生きる屍になったやつのゴミ捨て場」


「……酷いな……。その法律ができる前に誰も反対の声をあげなかったのか? 先進の民主国家なら大問題になるじゃないか」


「だって、この国じゃ、精神科に通院しただけで差別の対象になるからな。建前は民主主義を謳っていたこの社会の、昔からあった裏の顔。因習、タブーになっているんだよ」


「反対する医師もいなかったのか?」


「ははは、ナチス時代のドイツでは、医師が安楽死と称して障害者を大量殺害したことがあったよね? 日本では七三一部隊に協力した一流大学の医師たちがいた。 第一次世界大戦では化学者が毒ガスの開発、第二次世界大戦では物理学者が原子爆弾。後になって世の中の同情をかおうとして言い訳していたが、皆さん空気を読んで積極的に協力していたんだよ。残忍、残虐な行動も辞さず。やりたくてやったんだな」


「その言葉どおりだと、知性によって論理的に考えて行動する、というより、動物の本能だな」


「そうそう、科学を学べばすぐれた良心を持つと、どこかの科学者が言っていたが、歴史についてはほっかむり。人間は獣性から逃れられないという重要な点も見落としている。今思い出したが、学生のころ、君もときどき目にしていただろうが、戦争や公害、その他の歴史で起きた様々な事件。大きな社会問題の話しを少しばかりでもすると同じ理学系の学生から、“それは、理科とは関係ない人文学科の事じゃないか?”とか、“理系なのに人文系に興味があるのか?”と返したついでに奇異な目で見られたことがよくあったな。現実はそういうのが多数派だった。だから、それ以上空気には逆らわなかったけど。おっとこれは話しがずれた」


 友人の話を聞き続けていた彼は、最後の一口を食べ終えて、茶をすする。考えにふけったように口を切り結んだその次に、そばの碗を見下ろして口を開いた。


「魯迅が『新青年』で『狂人日記』を発表する前、自分の友人とやりとりした手紙のことを、思い出した。“鉄の部屋”。私はその部屋の多数派となってそこまで落ちたくはない」


「……そうだな。俺もそう思うよ。と、言いたいところだけれども、今、俺が研究しているのはロボットの技術で防衛省から資金をもらっていたりしてね」


「どんな研究をしているのかい?」


「二つあってね。一つは、セルロースを基にフレームや外部装甲の部品を製造する。金属よりも軽くて頑丈というのが利点。欠点なのはレーザー砲などの高熱にまだ耐えられるものが大量生産できないということだ。これが開発できれば、大型のロボットは重すぎて無理という反対意見もなくなる。もうひとつは、他の研究所と共同で新しい人工筋肉の開発をしている。もったいぶる訳ではないが、それはまた別のときに話そう」


「武器開発につながるのか?」


「まあ、そうだな。昔の戦争に協力した科学者の気持ちがわかるよ。取り繕かれたようにやりたくてやってしまうんだよね………。さっきの話しに戻ろう。強制入院の法律の話し。突然、精神医学の学会が変貌したわけじゃない。前兆はあったんだ。俺の話した友人。そいつ初めて入院したときの事だ。二、三日してから診断名目の質問をいろいろと受けたそうだ。その担当は若い女医さんでけっこう茶髪の美人だったそうだが、あ、話がそれたな。その質問の内容なんだが、奇妙な問いがちらほらあってね。たとえば、“結婚制度はなんの為にありますか?”とか、“マスコミは何の為にありますか?”とか、笑顔で妙な質問を次々としてきた。そこは大学付属の病院だったが、要するに、診察を隠れ蓑に、政治思想の調査をやっていたんだよ。おそらくもっと前から準備を着々と進めていたのだろうな。新しい法律ができる前は、ヨーロッパと比べてみてもおかしいと気づいていた者はいたし、声もあげていたが、それはごく少数で、ほとんどの医師や看護師は、空気と差別本能で見て見ぬフリだった。ここのところは、大昔からよくある人間像だな」


「…………」


「それで、さっき俺の知り合いが廃人になったといったろう? どんな様子かというと、今も生きている。いつも幸せそうな笑顔で単純作業をこなしていてね。薬を飲み続けている。どこだったかな? そうそう、昔、あるドキュメンタリー映画を観たことがあった。何のはなしかって? そのドキュメンタリーは、アメリカ南北戦争でもし南軍が勝っていたら、という架空の歴史を描いているんだが、二十世紀の半ばになると黒人奴隷が薬物を投与されていてね。過酷な環境であるにもかかわらず、天国にいるようなニコニコ顔をしているのさ。だけど、日本はどうかな? 薬物は必要ないかもな。だって、この酷い世の中が見えなくていつもヘラヘラしている人間はずっと昔からいたからな」


「その話を聞いていると私は、『THX-1138』を連想する」


「おお! いいね! 観たことがあるのか?」


「高校生のときに、そのときはピンとこなかった。時間を無駄にしたと思っていた。しかし……」


「今は現実がSFを超えているだろ? 『ドラゴン・ヘッド』というSF漫画があって、その実写版映画もある。主人公を除いて登場する人間たちの振舞いが実に興味深い。極端に描写したようでいて現実の人間によくあてはまっている。ところでSFといえば、いや、これは都市伝説なんだが、誰かが創った人間そっくりのロボット、つまりアンドロイドがこの荒廃した国、人間の命がかなり安くなってしまった国の中をさ迷っているというんだ。肌の質感、感情表現、なめらかで細かいしぐさ。人間よりも人間らしいそうだ。ただし、心が腐っている大人の目では見分けがつかないらしい。理由は、“人類に呪いがかけられているから……”ということだそうだ。かなり高価な部品を使っているのだろうな。本当にいるのなら捕まえて分析してみたいね。ああ、話が長かったな。金は欲しいが、人間は信用できないな……」


 話を一旦終えた友人は、かなり使った喉をふたたび茶でうるおした。


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