-剣-
祿凛
序章
~序章~ 『眼の少年』
「もっと速く!」
還暦のある男の声が道場に響く。
道場では十数人の少年と一人の男が剣道の稽古をしていた。
少年らが今こうして竹刀を振り続けて何時間経っただろうか。道場には時計がないので確かな時間はわからない。ただ、何時間も休憩もせずぶっ続けでやっているのは少年らの汗の量から見て取れた。既に床一面汗水でびっしょりと濡れているからだ。この濡れ具合だと、だれがいつ転んでもおかしくはなかった。
そんな時、一人の少年が足を滑らせその場で転んだ。その瞬間、転んだ本人はもちろんその場にいたほとんどの少年が凍り付いた。
「なにやってんだ!!」
激しい怒号と大きな足跡とともに、男は少年に近づき、右手に持っていた竹刀を思い切り振り落した。
一発どころの話ではない。何回も、何回も、男は少年を滅多打ちにした。
竹刀が体に炸裂するごとに痛々しい音が響き、それをはるかに超える少年の悲痛の叫び声が道場を覆った。
ほかの少年らは打ち付けられる竹刀を見るまいと目をつむって竹刀を振り続けていた。
一人を除いては。
男は少年に対する仕打ちを止めた。真後ろから視線を感じたからだ。
何も男の後ろでは多くの少年たちが素振りしているがそれではない。明らかに竹刀を振らず、黙ってこちらを見ている視線を感じたからに他ならない。
「お前は何をしている?」
男の低く怒りのこもった声が静かに響く。先ほどまで知らんぷりをして素振りをしていた少年たちは皆その声に驚き、素振りもやめ男の方に目を向けていた。
男の視線の先には一人の少年が立っていた。
他の少年たちと同じく体中から汗を流し、さっきまで素振りをしていた少年。
ぱっと見、なんら変わりはなかった。反抗的な態度をとっているわけでもなくただ男の後ろに立ち、視線を送っていただけに過ぎない。
ただ、違っていた点があった。
ほかの少年たちとは明らかに何かが違っていた。
男は、それに無性に腹が立った。
「何をジロジロ見ている! さっさと稽古をしろ!!」
少年たちは身を縮め、素振りを再開した。
ただ、それは全員ではなかった。何故か、目の前の少年だけはそんなそぶりも見せず、怖がる様子もなく男を見ていた。
その目は、明らかに違っていた。
恐怖する目ではなく、呆然とする目でもない。驚いた目でもなければ、怒りの目でもない。
ただ、その目は男からすれば非常に厄介で、いとましく、すぐに視界からなくしたいものだった。
「なんだお前は」
男は少年に問いかけた。だが、少年は答えない。
「なんだと聞いている!」
何回聞いても少年は答えなかった。男は、自分が無視されているような気がして今にも目の前の少年をぶちのめしたい衝動にかられた。
「お前、少ししつけが必要だな」
男は竹刀を大きく上にあげた。少年は竹刀に目もくれずただじっと男を見ていた。
「くっ!」
男は竹刀にすら目を向けられないことに激しい怒りを覚えた。そして、思いっきり竹刀を少年の頭へたたきつけた。
はずだった。
「……は?」
男が振りかざした竹刀は少年の頭に当たる寸でのところで止められていた。
「何故俺の竹刀が止められた……?」
男は激しく動揺した。なぜ、こんな子供に自分の全力の一撃が止められたのか、まったく理解できずにいた。
「そりゃあ、先生。常識でしょうよ」
少年は、そこでやっと喋った。
男はその声にぎょっとして、少しだけ体が後ろに沿った。
「頭の位置に竹刀おいときゃ、そりゃ当たりませんよ。すり抜けるわけありませんから」
男はまだ理解できなかった。なぜ防げたのかわからなかった。竹刀で竹刀を防がれたのはわかる。ただ、何故咄嗟に防ぐことができたのか。自分の振りかざそうとする竹刀に目を向けないで、どうやって防げたのか、それがわからなかった。
「お前は……なんだ」
男はもはや怒りを忘れ、逆に驚きと若干の恐怖すら覚えていた。
「今日からお世話になろうと思っていました、
そう言って少年は、新崎は竹刀を収め、道場の脇に置いてあった荷物を取り、出口へ歩いていく。
男は、その後姿を怒りも忘れただ呆然と眺めていた。
「ここもはずれかぁ」
新崎はため息をつきながら呟いた。ふと思い出したように肩に掛けてある鞄に手を突っ込んだ。一枚の紙を強引に引き出そうとしたとき、自分の生徒手帳も一緒になって出てきてアスファルトの上に落ちた。
表紙に『青里高校生徒手帳』と書かれた生徒手帳を新崎は読んでみることにした。入学してから二年が経つがまともに読んだことがなかったからだ。
ページを開くと一ページ目には校歌が書かれていた。長ったらしくて全校集会のたびに歌わされているが、今まで一度も真面目に歌ったことがない。卒業式の時くらいは真面目に歌おうかとも思う。
二ページ目には学校の目標とか校訓とかが書かれていた。三ページ目には学校の開校から今までの年表が小さな字で書かれていた。四ページ目には……、というところで新崎は手を止めた。
「全然面白くないなこれ……」
新崎は生徒手帳を鞄にしまい込み、左手に持っていた紙に目をやる。
そこには、この地一帯の剣道の道場の名前と住所が記されていた。
なぜこんなことをしているのかと考えてもみたがその答えは簡単だった。ただなんとなく……自分の所属する剣道部のためにどこかの道場の先生を外部講師に招きたいと、そんなことを考えていたに過ぎない。
高校の先生の中で剣道経験のある先生はいないしそもそも今の顧問の先生だって名目上仕方なくやっているだけに過ぎないのだ。今まで部活に来たことなんて片手で数えるほどしかない。
普通、こういうことは顧問の先生や学校自体が率先して行うべきことだと思う。でも、そんなことをしないのは恐らく剣道部員がそれでもいいと思っているのが原因だろう。自分も含めて。
三年生も引退し、今では二年生である自分が部長の立場であるが、立場上このままのまけにしておくのもなんかあれだなと思っただけ。だから、近場の剣道場を先生に調べさせてそこに自らで足を運んでいる、というそれだけのことだ。
とはいえ、今日の先生探しはもうできないだろう。今さっき出てきた道場も入ったときはまだ空が明るかった。なのに今はどうだろう、すでに空は真っ暗でひんやりと肌をかすめる風が秋の訪れを教えていた。
スマホの時計を見ると既に十九時を過ぎていた。二時間半は素振りをしていたことになる。さすがに腕も足も結構つらい。
明日も今日と同じようにねり歩かなければならない。道場に電話すればそれはそれで手っ取り早いが、教えるのが上手な先生でないとどうも癇に障るのだ。
自分のそんなこだわりもこの時くらいは捨てようかなとも思ったが、せっかく外部講師を招くのであればとことんこだわりたい。と言っても、ここらで教えるのが上手な先生など聞いたこともないのだが。
やれやれと、新崎はまたため息をついて帰路に就いた。
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