5.(前編)

5月31日 午後5時52分


 箕輪家のダイニングテーブルには新たに二つの〝立体ラテアート〟が並んでいた。完璧に再現するため、アリアは創介に事件の時と同じ白熊と仔犬をリクエストしていた。


「なにこれ!? すっごい可愛いっ! 兄さん、いつの間にこんな新たな特技を!?」


 彩夢も兄の作った〝立体ラテアート〟を見るのは初めてだった。まるで泡風呂に浸かって一息ついているかのような白熊と前足をカップの縁にかけてコチラを見ている仔犬のツーショットにスマホのカメラを向けている。

 だが二人とも、目の前の〝泡の密室〟が既に一度開かれたものだとは気付いていない。

 二人がカップを洗ったり、エスプレッソを用意したりしている僅かな隙きにアリアは〝鍵〟を使って仕込みを済ませていた。


 「さ、どうぞ九野さん」

 アリアに促されるまま、創介が白熊のカップに口をつけた瞬間――。


「――苦っ!」


 創介が何とも言えない表情をしたのを見て、アリアは心の中でガッツポーズをした。実験が成功したのはもちろんのこと、今日受けた辱めをまとめてお返しできた気分だ。

「心配しなくていいですよ。その中に入れたのは、毒薬じゃなくて風邪薬のカプセルです」

 いくら癪に障る相手とはいえ、〝名探偵〟が殺人事件を起こすわけにはいかない。

「――うっそ!? そんな跡、全然無かったのにどうやって……?」

 彩夢は兄からカップをひったくると中を凝視ししたり、下から覗き込んだりしている。


「もちろん、このストローを使いました」

 アリアは先程、箕輪家の台所で見つけたストローを見せた。

 これこそが密室の解錠に必要な〝鍵〟――。

 真犯人はこの喫茶店にならどこにでもある物を使って、一見不可能に見える犯行をなしえたのだ。


「いいですか? 見ていてください」

 アリアはそう言うと、ストローの先端にカプセルを押し込み、水の入ったグラスにストローを挿した。すると、水圧によってカプセルがみるみるちにストローの中を押し上げられていく。カプセルが三センチほど中に入ったところで、アリアは素早くストローを引き抜いた。

 彩夢は反射的に身構えたが、テーブルの上にはカプセルはおろか水の一滴もこぼれていない。


「……なるほど、大気圧と表面張力のバランスか」

 その様子を見ていた創介が不意につぶやいた。

 このストローを使ったちょっとしたトリックは誰もが経験則で知っていることだが、流石は医学生。頼んでもいないのに目の前で起きている現象をより正確に説明してくれる。

 アリアは片眉を軽く上げたままその先を引き継いだ。


「こうして指でストローの一方を塞いでやると、中の液体の分だけ気圧が低くなって、反対側から大気圧で押されることになります。その力が液体の重さに勝り、かつ表面張力によって中の水が蓋の役割をしている間は滅多なことではこぼれません」


 その事を証明するようにアリアがストローを振ってみせたが、水はカプセルを閉じ込めたまま凍ってしまったかのように微動だにしない。


「この状態なら手に隠し持っていても、簡単にはバレないでしょう。そして真犯人は被害者たちのカップにこっそり近づき……誰も見ていない隙にカップにストローを挿した」

 アリアはまだ口をつけていない仔犬のラテアートの端にストローを突き刺し、親指を放した。するとまるで注射器のプランジャーを押し込んだかのように、中の水ごとカプセルが泡の中に消えていく。


「確かに……ストローならカプセルの直径とほぼ同じだし、指やスプーンを使うよりもラテアートをほとんど傷つけなくて済むね」


 しかし全く痕跡が残らないわけではない。

 アリアには、創介が言外にそう挑発しているように聞こえた。

 もちろんアリアには、そのわずかな痕跡すら消してしまう魔法のようなトリックも用意している。


「まぁ、黙って見てて下さい」


 アリアは軽く舌打ちしながら、ストローを口に含んだ。

 そのままそっと息を吹き込みながらゆっくりストローを引き抜いていく。

 ボコボコとこもった音が何度か聞こえたかと思うと、何事もなかったかのように穴は泡で塞がっていた。


「あーやるやる! ファミレスとかで小さい頃、よくやった!」


 彩夢にもトリックの全貌が分かり、興奮した様子で元通りになっていく〝立体ラテアート〟を見ている。


「泡を作る方法は何も沸騰させたり、かき混ぜたりするだけじゃありません。直接空気を送り込んでやればいいんです。これが平面のラテアートでは一発でバレてしまいますが、立体の場合、顔以外の部分は単なる泡の塊。それがスチームで作った泡なのか、ストローで吹き込んだ泡なのか、パッと見では判別できません」


「そのための道具は喫茶店なら必ずあるごくありふれた物……」

 神妙そうな顔であごをさする創介に、さっきほどの驚きは見られない。

〈コイツ、途中から薄々トリックの答えが分かってたな?〉


 それにも関わらず長々と自分の推理を説明させられたことにアリアは軽い苛立ちを覚えた。まるで家庭教師の大学生に答え合わせをしてもらっているみたいで釈然としない。

 しかし当の創介はアリアのジト目には気づかず、トリックに使われたストローを蛍光灯にかざしたり、振ったりしている。


「確かにこの方法なら万が一、水と一緒にカプセルが流れ出なかったとしても空気の力で確実に押し出すことができるし、店のゴミ箱に捨てられていても不自然じゃない」


 アリアは頷きながらも内心、このデリカシーの『デ』の字も知らないような男が自分の使ったストローに口を付けるんじゃないかとヒヤヒヤしていた。

 そう考えていたのはアリアだけではなく、彩夢は兄からストローをひったくると、意味もなく中を覗き込んだ。


「真犯人が用心深い性格なら、細かく刻んでトイレに流したりしたかもね」

〈何で、この兄妹はそんなにトイレに証拠を流したがるんだ?〉


 おもわず創介と顔を見合わせ、アリアは慌てて咳払いをした。


「……と、ともかくこれで密室の謎は解けました」


 事件は解決したも同然といった感じで、カステラを一欠片頬張るアリアに創介が口を挟んだ。


「でも、この方法だとあの時、店にいた全員毒入りカプセルを入れるチャンスがあったことにならないかな?」


 隠し持ったストローを被害者たちのカップに挿して息を吹き込んで席を離れるまでに要する時間はせいぜい一分~二分。被害者たちが席を離れていた五分間に十分可能だ。しかもベイカーベイカリーは座席間の仕切りが高いため、誰かに見られるリスクは格段に小さくなる。

 しかし創介はアリアならば、何かおよそ常人が考えつかない方法で真犯人を絞り込んでいると踏んでいた。多少、言動に難はあるものの、この小さな体に秘められた膨大な知識と、それに裏打ちされた推理力は本物だと思い始めている。

 ところが、アリアが口にしたのはその淡い期待を完膚なきまでに打ち砕くものだった。


「はい、九野さんや私を含めて、あの場に居た全員が容疑者です。おまけにまるで証拠がありません。今のトリックを警察の前で披露したところで、忘年会の余興にすらなりませんね」


 お手上げとばかりに両の手の平を天井に向けてみせるアリア。


「そんな……」

「でも、でも! 兄さんが犯人じゃない可能性があれば、父さん達が他の証拠を見つけてくれるかも!」


 露骨にうなだれた兄を妹が必死に励まそうとしている。

 だが、アリアは警察がそんなに話の分かる連中だとは思っていなかった。


 〝オッカムの剃刀〟という言葉がある。

 『物事はシンプルに考えるべき』という論理学の教訓で、それは推理にも当てはまる。

 それらしい推論と犯人像、状況証拠さえ整えばいくらでも〝真実〟を騙ってみせることができるのが探偵だ。しかし国民の税金でおまんまを食べさせてもらっている警察官はそうはいかない。常に検挙率ノルマ冤罪カルマの板挟みにあいながら、最も堅実な〝真実〟を選ぶよう訓練されている。

 そしてほとんどの事件においてはそれが正しい。ヘンにややこしく考えると、かえって真実を見失ってしまうものだ。


 恐らくそれはこの事件の真犯人にも言えるだろう。

 アリアは残り少なくなったカフェラテで口を潤すと推理を続けた。



▶5.(中編)に続く

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