5.

5月31日 午後4時24分



 市内を縦断するように流れる豊裏川とようらがわは南部に横たわる急峻な山々に端を発している。国立公園にも指定されている総面積十万ヘクタールの豊かな自然と、二百万近い市民の生活を支えるダム湖を形成しながら蛇行を繰り返し、やがて市街地へと至る。川の両岸にはテニスコートやサイクリングロードなどが整備され、レジャーシートを広げている親子連れや、白球を追いかける野球少年らで賑わっていた。

 そんな川沿いの住宅地には、祖父母やその親の世代からの住民も多く、ノスタルジックな趣を残している。その中の一つ、急勾配の三角屋根を戴き、ガラス張りの玄関囲いを備えた昔ながらの一軒家の引き戸に創介が手をかけると、油の切れたレールが不機嫌そうに歯ぎしりをする。耳障りなその音に創介は顔をしかめながらも、そのまま半畳ほどの風除室を一歩でまたぎ、今度は玄関のドアノブに鍵を差し込んだ。


「ただいま」


 創介のよくとおる声が箕輪家の木造一軒家にこだまする。しかし返ってくるのは残響ばかりで人の気配はない。

 玄関のコート掛けには今朝、創介が用意しておいた養父のスーツがハンガーにかかったままになっていた。


〈辰彦さんはまだ警察署から戻ってないのか……〉


 刑事の勤務時間は不規則で、特に事件が起こると何日も警察署に寝泊まりすることも珍しくはない。そんな時はいつも創介が着替えや弁当を持っていくのだが、今回ばかりは気が引けた。仕事熱心な養父に敬意と感謝を評しつつ、もう一人の同居人の靴を探すがこちらもまだ中学校から帰ってきてはいないようだ。

 水泳部に所属し、地方大会にも何度も出場経験のある彩夢は毎日遅くまで練習に励んでいる。そのため、比較的時間に融通の効く創介が箕輪家の家事を一手に引き受けていた。


「誰も居ないみたいだから、遠慮しないで上がって」

 そう言って創介が振り返ると、何故かそこも無人――。ガラス張りの風除室には、除雪用のスコップや竹箒、交通整理用の誘導灯やカラーコーンなどが無造作に置かれているだけだった。

 創介が首をかしげつつ引き戸から顔を覗かせると、駐車場の端っこでチェックのベレー帽が動くのが見えた。


〈姉さん、事件です……!〉


 鏡のようにワックスがけされたダークブルーのスバルの影でアリアは野良猫のようにうずくまり頭を抱えていた。

 生まれてこの方、様々な事件の現場に偶然居合わせてきたアリアだったが、異性はおろか女友達の家にお邪魔した経験はほとんど無い。


〈もう一度例の〝ラテアート〟を作ってもらうだけの簡単なお仕事だったハズなのに、どうしてこうなった!?〉


 〝泡の密室〟の謎を解くには作った本人に再現してもらうのが手っ取り早いし、バイトならば喫茶店の鍵を持っているかもしれないという期待から創介に声をかけたのが、過ちの元だった。

 いや、ある面ではアリアの目論見は成功した。実際、九野創介という大学生はそこそこ頭が回り、話が分かる人物のようで、突然〝探偵〟だと名乗った女子高生を信用してくれた。

〈まぁ、単に何も考えてないだけのお人好しかも知れないケド……〉

 兎にも角にも、事件の重要人物の協力を取り付けたことで、解決に向けて大きく前進するはずだった。

 ……しかしである。

 ここに来て、アリアはその一歩を踏み出すことを躊躇していた。


〈私の〝名探偵〟としての勘が言っている! オトコとオンナが密室に二人っきりだなんて、事件が起きない方がおかしい!!〉


 悩める女子高生探偵を嘲笑うかのように、ポストには表札の代わりに『子どもかけこみ110番の家』が貼られていた。


「こんな所でどうしたの? 遠慮しないであがって。今、ちょうどみんな出かけていて、家には誰も居ないから」

「『都合が良い』とは語るに落ちたな、この子女誘拐犯めっ!! 寄るなっ、触るなっ、話しかけるな!」

 アリアは創介から距離を取り、制服のベレー帽をかぶり直した。 

「……い、いや、誰もそんなこと言ってないし、ご近所さんに誤解されるような事を言わないでほしいな」

 創介は困ったように首を捻りつつ、改めてアリアのベレー帽の上からからローファーの先まで見て、ハッとした。

「ゴメン、ウチにはちょうどキミくらいの年の妹が居るし、家庭教師のアルバイトもしてるから、つい、その感覚でいたけど……確かに会ったばかりの男の家に上がるのは抵抗あるか」

 どうやら本当に他意はなかったらしい。

 大きな図体を申し訳なさそうに縮こまらせる創介に、アリアは緊張が解けていく代わりに恥ずかしさがこみ上げてくるのを覚えた。

「でも、困ったな……他に〝ラテアート〟が作れそうな場所って言われても……」

「九野さん、店長からお店の鍵、預かってるんですよね? 最初から喫茶店で作ればわざわざ地下鉄を乗り継いでこんな所まで来なくてもよかったんじゃないですか?」

 アリアが非難がましい視線を送るが、創介は頑なに首を横に振る。

「だからそれは、警察の捜査の邪魔になるからダメだって言ったよね?」

「警察がなんです、医大生なら安全メットかぶって国家権力に反抗する根性を見せて下さい! 叫べ、シュプレヒコール!」

「……キミ、年いくつ?」

 創介の口元は呆れとも苦笑ともつかない形に歪んでいた。一方、アリアはそんな創介の視線を涼しい顔で受け流す。

「妙齢の女性に歳を尋ねるなんて、デリカシーに欠けますよ」

 すました顔で創介の脇を通る際、アリアは小さな指を一本、創介の高い鼻に向かって突き立てた。


「……ンま、ここまで来てしまったからには仕方ありません。九野さんを警察関係ということで信頼して、お家にお邪魔させてもらうとしましょう」

 まるで『お前が犯人だ!』と名指しされたかのように、創介の目と口が驚きの形に変わった。


「――え? 待って……自分、そんな話までしたっけ?」


 締りのない顔を更にポカンとさせている創介を見て、アリアは密かにほくそえんだ。

 先程の意趣返しではないけど、この妙に図太くて鈍感な大学生の驚いた顔を見るのは妙に気分が良い。

 アリアは口元が緩むのを堪えながら、指先を箕輪家のポストに向けた。


「まず気になったのは、表札の無いポスト。アパートやマンションならいざしらず、こういった昔ながらの住宅地で表札をつけていない家はすごく珍しい気がします」

 道路の反対側に軽く視線を向けると、どの家もポストに古い表札がかかっていた。この家にも表札を取り付けるスペースはあるのに、代わりに貼ってあるのは『子ども駆け込み110番』のステッカーだけだ。


「人間不信の秘密主義者で、地域コミュニティに溶け込む気がないボッチという可能性もありますけど……このステッカーの存在はむしろその逆。近隣住民から信頼されていることを物語っています」

 アリアはそのまま指を上に向け、くるくると円を描いている。まるで、記憶の糸を紐解いているかのようだ。


「以前、ウチの姉から聞いたことがあります。警察官――特に刑事は事件関係者から逆恨みされる事もあるので、表札や住所録に情報を載せないそうですね?」

 疑問形ではあるが、そのコーヒー色の深い瞳には疑念や不信の揺らぎは微塵も無かった。

 1952年のことだ。札幌市の警部が市内の路上で拳銃で撃たれるという事件が起こった。使用されたのはブローニングの三十二口径で、小口径ながら至近距離で心臓に銃弾を受けたため、刑事はまもなく死亡、犯人はそのまま自転車で逃亡した。帰宅途中を狙った計画的な犯行から、当時被害者が取締を強化していた極左過激派の犯行とみられ、三人の実行犯が指名手配されたものの、既に海外に逃亡した後で現在も捕まっていない。

 また1995年にも当時の警察庁長官が自宅マンション付近で何者かの待ち伏せを受け、拳銃で撃たれる事件が起こったが、犯人は謎のまま2010年に公訴時効を迎えている。

 いずれも自宅付近で行われた犯行であり、警察官にとって自宅を知られることは文字通り命取りという証左に他ならない。そのため不用意なトラブルを防ぐ上でも、住所録には情報を載せず周囲には『公務員』とだけ名乗っている警察官も少なくないという。


「それだけで警察関係者って決めつけるなんて、それは推理と言うより当て推量って言うんじゃないの?」

 創介が一瞬、胡散臭そうな目を向け、それから取り繕うような笑みを浮かべたのをアリアは見逃さなかった。

「もちろん、それだけではありません。決定的な証拠はこの車です」

 アリアは指先を駐車場に止まっている車に向けた。

「パトランプでもしまい忘れていたかな?」


〈……コイツ、とっくに答えが分かってるのに私を試してるな?〉

 家庭教師のアルバイトもしているということだったが、なんだか証明問題の解答をさせられている気分で釈然としない。

 アリアはスモークを吹いたリアウィンドウ越しに創介を睨みながら、証拠品を指差す。


「見るべき場所はこのルーフアンテナです。警察無線は中継局レピータを置くことで、管内くまなくカバーしているため、受信側は小さな設備で通信することができますが、通常の車載アンテナでは受信できません」

「確かに……一般車両がラジオ感覚で警察の無線を聴けたら大問題だしね」

 創介の軽口を聞き流し、アリアは推理を続ける。

「車載電話や車載TVのアンテナに見せかけて増設したりもしますが、今どきスマホやワンセグで事足りるのに、そんな沢山アンテナ生やして走ってたら逆に目立ちます」

 セキュリティポリスなど、一部の護衛車両はあえてそうしているものもあるが、現在ほとんどの覆面パトカーはラジオ用のルーフアンテナに偽装している事が多い。

「パッと見は分かりにくいですけど、後付けなのでよく見るとケーブルが外に出ちゃってるのが難点ですね」

 そう言ってアリアはリアウィンドウに沿って這わされた黒いケーブルをつまんだ。

「つまり、これはマイカーではなく覆面パトカー……それも非番時にも緊急で現場に急行しなければならず、加えて、ある程度の規則違反にも目をつぶってもらえるような階級にある刑事の車ということになります」

 毎度のことながら自分の直感を言語化するのは疲れる。

 アリアは喉の渇きを覚えながら創介の顔を見上げた。


「驚いた……! キミ、本当に探偵みたいだね?」

 創介はまるで幽霊でも見ているかのように、リアガラス越しに映る女子高生の姿を見つめていた。

 最初は藁にもすがる思いでアリアの提案に乗ったものの、彼女の深い知識と洞察力、それに『文句があるなら受けて立つ!』と、全身で語るかのような絶対的な自信に、微かだが希望が湧いてきた。

 これはもしかしたらもしかするかもしれない。

 改めてアリアを家に案内する創介は先程よりも確かなものだった。

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