4.
5月31日 午後3時20分
もう6月に入るというのに雲一つ無い青空の下、新緑に萌える白樺の木がアスファルトの上に濃い影を落としていた。まるで梅雨を追い越して夏がやってきてしまったかのようだ。
アリアは強い日差しを避けるように木陰を辿りながら昨日と同じ道を歩いていた。
山の手の高級住宅地は相変わらず森閑としている。しかしその静けさも昨日までとは明らかに質が変わっていた。
道端で遊ぶ子供や犬の散歩をするご婦人の姿は無く、皆、じっと息を潜めて恐ろしい嵐が過ぎ去るのを待っているかのようだ。
もっとも、それは三つ目の角を曲がるまでで、ベイカー・ベイカリーの前には大勢の報道陣とそれを遠巻きに見物する野次馬でごった返していた。
「コチラ、現場です。閑静な住宅街を恐怖に陥れた〝毒入りカプチーノ事件〟はまさに私の奥にありますあの喫茶店で起きました」
マイクを持った女性レポーターの背後には『臨時休業』の張り紙が張られたホワイトオークの扉が見える。
「悲劇の夜から一夜明けてもまだ凶悪な犯人が捕まっていないということもあり、住民の方々は店の前を足早に通り過ぎていきます」
〈や、それはアンタらがマイク持って待ち構えてるからじゃ……?〉
アリアはなるべくTVクルーの方には近づかないようにしながら、店の中の様子を窺う。
既に警察の現場検証は終わっているようで店の中に人の姿は無く、制服警官が1人店の前で番をしていた。
〈ンー、困った。これじゃ中に入るのはムリか……〉
といっても、アリアがわざわざ地下鉄とバスを乗り継いでここまでやって来たのは、昨日のお茶の続きがしたかった訳でも、ましてTVに映りたかったからでもない。昨日の事件について確かめたい事があったのだ。
近くに他に喫茶店はないものかと、地図アプリで調べていると不意にスマホの画面が陰った。
「あの、ちょっといいですか?」
「いや、ムリ! アタシ、事件の関係者とかじゃ全然ナイんでっ……!」
直感的にTVのインタビューだと思ったアリアはすぐにその場を立ち去ろうとしたが、大きな手が右肩を掴んだ。
「待って!」
「――ひゃっ!?」
それほど強い力ではなかったが両者の体格に大きな差があったせいか、まるでテコで動かしたみたいにバランスを崩す。そのまま背中からアスファルトに倒れ込みそうになったところを間一髪、横から差し出された腕が支えた。
「――っと!? 大丈夫?」
突然、天地がひっくり返り言葉が出ないアリア。大きく見開いた瞳に見覚えのある青年の顔が逆さまに映り込んだ。見上げるほど背が高いくせに〝おあずけ〟をくらった犬のような幼い顔だち……。
「九野創介っ…さん……!?」
弾かれるように跳ね起きると、慌てて距離を取った。そんなアリアの態度を勘違いしたのか、創介は両手を挙げて害意が無いことをアピールする。
「やっぱりキミ、昨日お店に来てくれたお客さんだよね? 大丈夫、警戒しなくても俺は犯人じゃないから」
「や、そんなコトは最初から分かってるけど、どうしてココに!?」
てっきり警察に拘束されているものと思っていた事件の第一容疑者が堂々とお天道さまの下を歩いていることにも驚いたが、それ以上に昨日知り合ったばかりの異性に肩やら腰やらを触られたことにアリアは動揺していた。
一方、創介の方も咄嗟に返したアリアの言葉に目をしばたたかせている。
「驚いた……まさか家族以外で俺の無実を信じてくれる人が居るとは思わなかった」
おもわず声を弾ませる創介だったが、アリアの次のセリフはそんな些細な喜びを断崖絶壁の下に突き落とすものだった。
「ああ、別に九野さんを人間的に信頼してるとか、そんなんじゃ無いんで……」
「えっ……!?」
「むしろ九野さんが犯人だったらどんなに楽で良いか……」
「――えぇっ!?」
〈そう、これは経験からくる確信……〉
ズレ落ちたリュックの肩紐を直すのも忘れて凹んでいる創介をよそに、アリアは謎と死体につきまとわれ続けているこれまでの記憶を振り返る。
最初はアリアが小学校4年生の時だ。
クラスで飼っていたウサギが農薬入りの毒団子を食べて死んでしまう事件が起こった。当初、ウサギ小屋に残された足跡等の遺留品から、ある男子生徒の名前が犯人として挙がった。彼は生徒の間では有名なイジメの加害者で、誰もが彼を犯人だと決めつけた。
しかしアリアだけは犯行の方法や動機から真犯人は別に居ると考え、生徒の証言やアリバイを徹底的に調べ上げ、ついに真犯人を探し当てた。
犯人だったのはイジメている方ではなくその被害者で、ストレスの捌け口としてより弱い立場の
真相が分かってしまえば大掛かりなトリックもアリバイ工作も無い、ひどく単純な事件。しかし謎なんかよりも余程複雑怪奇な人の心の奥底を小学生にして解いてしまった少女がその後、まっとうな人生を送れるはずもない。
以来、アリアは事あるごとに事件に巻き込まれ、その全てを類稀な推理力で解決してきた。地元では〝神童〟や〝少女探偵〟ともてはやされ、地元の警察から受けた表彰の数は両手の指では足りない。
最初こそアリアも得意になって大人達に自分の推理を披露していたが、仰望の眼差しが恐怖に変わっていくにつれて口を
しかし事件は彼女をどこまでも追いかけてきた。
家族と食事に出かければ、レストランのオーナーが愛人を撲殺した冷凍肉で肉料理を振る舞い、学校でスキー合宿に行けば、豪雪に閉ざされた山荘で古い手毬唄になぞらえた連続殺人が起こる。しかも事件の被害者や加害者がアリアの知人や親戚だった事も一度や二度ではない。
“アリアと一緒に出かけると、必ず誰か死ぬ……”
いつしかそんな噂がまことしやかに囁かれるようになり、アリアは学校以外、滅多に外出する事はなくなっていた。
それでもこうして事件に引き寄せられてしまう自分はやはり呪われているのだろうか?
アリアは自嘲の形に口元を歪める。
「ま、逆に言えば、アタシが巻き込まれた以上、九野さんが犯人とかそんな単純な
おもわず愚痴っぽく呟いたアリアの言葉を耳ざとく拾った創介がすまなそうに頭を下げた。
「ゴメン、オレが余計なことを言ったばかりにキミをこんな事件に巻き込む形になって……」
「はい……?」
アリアは一瞬、何のことか分からず首をかしげた。
「あの後すぐに警察署に移動することになってしまったけど、待ち合わせしていた友達とは連絡ついた?」
〈ああ、なんだその事か……〉
あの時、咄嗟についたつまらない嘘をずっと気にしていたなんて、創介のお人好しっぷりに呆れとも気の緩みともつかない苦笑を浮かべた。
「あー、それについては、まー、もう済んだことだから……それよりっ、九野さんの方こそこんなトコで何を?」
アリアが強引に話題を変えると、創介は店の方に視線を向けた。
「ほら、昨日は車で警察署に行ったろ? スーパーに夕飯の買い出しに行くのに自転車が無いと不便だから取りに来たんだ」
「アンタ、脳ミソ愉快犯か!?」
創介の能天気ぶりにおもわず声を荒げるアリア。
「現時点で最も疑わしい容疑者が現場にノコノコ戻ってきたら、警察に自分から『犯人です』って宣伝しているのと同じだから!」
「ワーーっ! シぃーっ、シぃいーっ!」
創介は慌ててアリアの小さな体を小脇に抱えるとマスコミや野次馬がから遠ざける。
〈――軽っ!? これで高校生って嘘だろ? 彩夢ちゃんよりも小さいんじゃないか?〉
そんな感想を抱かれているとはつゆ知らず、アリアは無理やり抱き上げられた仔犬のように創介の腕の中で必死にもがくいている。しかし足の長さの違いはいかんともしがたい。
〈婦女誘拐で訴えるぞ、コラ――!〉
ローファーの
「警察に疑われてるのは知ってるよ。午前中もウチの大学や附属病院に警察関係者が来てたし」
創介は街路樹の陰に隠れたまま、マスコミの方を窺っている。
「ハハーナルホドー、研究室とか病院の保管庫からアコニチンが持ち出されていないか調べに来たってトコ……? ムダ足と分かっていても、やらなきゃいけないなんて公務員ってタイヘンだぁー」
字面ほどの重みはこもっていなさそうなアリアの顔を創介は驚きのこもった視線で見下ろした。
「ムダ足って……キミはどうしてそう言い切れる? もしかしたら、まかり間違って帳簿と在庫の数が合ってないかもしれないのに」
「……いいケド、その間違いは九野さんの両手首を締めることになるよ?」
創介の試すような質問にアリアは意地の悪い目線で返した。
「アコニチンと言えば、トリカブトの有毒成分。そこらの山で生えてる物をわざわざリスクを犯してどっかの研究室から盗むアホウに不可能犯罪は起こせないでしょ」
キッパリと言い切るアリアにつられて創介は街の南西に広がる山々を眺めた。
ちょうど今頃から秋にかけて鮮やかな青紫の花をつけるその多年草は鶏の
しかしその美しい見た目とは裏腹に全草に渡ってアコニチンの他、メサコニチンやアコニンといったアルカロイド系の有毒成分を含んでいる。本邦では北日本の山林に広く自生し、毎年のように食中毒患者を出していた。
2005年、青森県で山菜採りをしていた70代の男性が食用のニリンソウと誤認してトリカブトの葉を煮て食べたため死亡している。
また、別の事例では花粉が混入した蜂蜜を口にしただけで中毒症状が出た例もあるという。
自然に生えているものを利用すれば購入履歴は残らず、入手経路を特定するのは難しい。
しかし創介はそのことを嘆くよりも、妹とほとんど歳の違わないこの女子高生が毒の成分から材料、その入手方法について熟知していた事に驚いた。
「そういえば昨日、刑事さんが捜査に口を挟んだ人が居るって言ってたけど、キミのことだったのか」
感心する創介とは対照的にアリアは不愉快な事を思い出したのか、唇を尖らせた。
「別に、ただ矛盾を指摘しただけ……なのにあの刑事さん、アタシのコト、公務執行妨害だなんだと喚いて……」
どうやら創介と同じく警察署ではロクな目に遭わなかったようだ。どんどん剣呑な光を帯びていくアリアの瞳に目線を合わせるように創介は腰を曲げた。
「おかげで助かったよ。こんな状況だし、味方は1人でも多い方が嬉しい」
「……そ、そう?」
創介にしてみれば藁にもすがる思いだったが、意外にもアリアは機嫌を直した。そのまま細いあごに手を当てて何かを考える素振りを見せる。
その姿があまりのも堂に入っていたものだから、創介はまるで自分が探偵小説の中に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えた。
「……それなら九野さん、その濡れ衣を晴らすためにも一つ協力して欲しいコトが……」
「俺にできることならいくらでも協力するけど、いったい何をするつもり?」
「無論、この泡で作られた密室をこじ開けます」
そう言って女子高生探偵は不敵に微笑んだ。
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