事件編

1.

5月30日 午後3時12分



 郊外の高台に位置する閑静な住宅地にそのカフェはひっそりと佇んでいた。

 北欧風の輸入住宅が立ち並ぶ景観に溶け込みつつも、一際目を惹くログハウス風の店構え。子供の腰回りはあろうかという太い丸木が積み重なって赤い三角屋根を支えていた。日に焼けたスプール材が店の周りを彩る常緑樹の植込みと好対照をなしている。窓は大きく取られ、格子の入った硝子越しには明るい店内の雰囲気が見て取れた。

 日当たりの良い店の南側はウッドデッキのテラス席になっていて、店名をプリントした赤いひさしが午後の日差しを受け止めている。


――ベイカー・ベイカリー


 店主のネーミングセンスを疑いたくなるような名前ではあるけれど、雰囲気は悪くない。

 ひさし付のカフェと言えば、根岸ねぎしアリアの頭にはパリのシャンゼリゼ通りが思い浮かんだ。

 『コーヒーはイタリアが旨い、カフェはパリの方が洒落ている』と言われるほど、パリの街にはいたるところにカフェがあり、ジョルジュ・シムノンが生み出した不朽の〝名探偵〟ジュール・メグレも仕事の合間や事件の捜査でパリの様々なカフェを訪れている。

〈ま、あの刑事はカフェインよりもアルコールを好んでたケドね……〉

 ひさしが作る陰の下、濃いめのエスプレッソを片手にハードカバーの外国文学や英字新聞を読む姿を想像するといかにも知的で洗練された感じがする。

 もっとも、アリアはフランス語はおろか、英語の成績も絶賛低空飛行を続けていた。

 アリアが通う私立・グリシーナ女学院は、少子化が叫ばれる昨今ではもはや絶滅危惧種レベルの全寮制の女子校だ。中高一貫の6年制を採っており、敷地内には他に大学もあって内部進学率は60%以上という、いわゆるお嬢様学校だった。

 この辺りのオバサマ方の間では、娘にここのセーラー服を着せる事がちょっとしたステータスにもなっているらしい。アリアとしてもこのセーラー服とベレー帽の組み合わせはけっこう気に入っている。

 一方、校則が厳しいことでも有名で、放課後に制服のまま喫茶店に立ち寄るなど言語道断なだが、それでもアリアはつい1週間ほど前に見つけたこの店に入る機会を白樺の木陰から文字通り窺っていた。

 初めてのお店に入るというのはどうも勇気がいる。

 果たして自分はこの店の雰囲気に相応しい身なりをしているだろうか?

 カウンターならいざ知らず、一人でテーブル席を専有したら店にとっては機会損失ではないだろうか?

 それに隣の席のカップルやグループに独りで“ぼっちメシ”をする寂しいヤツだと思われないか?

 そんな逆行性の思考が足に絡みついて、なかなか最初の一歩が踏み出せない。

 特にこれまで出かけた先でロクな目に遭ってこなかったアリアはその傾向が強かった。

〈ナルホド、火曜のこの時間帯ならそれほど混んでないし、かといってガラガラ過ぎて何となく気まずいってことも無さそう……〉

 リサーチも済んだことだし、今日の所はこのくらいにしておこうかとアリアが店の前を通り過ぎようとした瞬間――。


「……あの、どうかされましたか?」

「――あひゃっ!?」


 突然後ろから声をかけられ、アリアは打ち水を引っ掛けられた野良猫のように飛び上がった。

 反射的に距離を取りつつ振り返ると、濃いモスグリーンのマウンテンバイクを押した青年が不思議そうな顔で立っていた。大学生だろうか、白いミリタリーシャツにカーキのカーゴパンツというラフな格好で、防水性のやや大きめのリュックを背負っている。背はアリアよりも頭一つ分以上高いが身長の割に顔の作りは幼く、どこかぼーっとした雰囲気が痩せたラブラドールを思わせた。


「なんか驚かせたみたいでスイマセン」

 青年はアリアの過剰な反応に逆に驚いてしまったみたいで、逆立った前髪を手で直しながらバツが悪そうに会釈した。

「自分、そこの喫茶店でバイトをしている者で、九野創介くのそうすけと言います」

「え? あ、ハイ……」

 スカしたミリタリーファッションをしている割に礼儀正しい学生じゃないかと、アリアが感心したのも束の間、青年の口から飛び出したセリフにおもわず目を見開く。

「あの、いつも店の前を通りかかる学生さんですよね? お店なら開いてますよ?」


〈み、見られていたーっ!?〉


 アリアが喫茶店を覗いている時、喫茶店もまたアリアを覗いていたのだ。

 店に入るでもなく、ただ通りを行ったり来たりしている女子高生の姿はさぞかし不審に映ったことだろう。アリアはまるで焼きごてを押し付けられたみたいに両頬と額が赤く発熱していくのを自覚した。


「あっ、いや! 友達と待ち合わせしてただけでっ……! もしかしたら中で待ってるかもって思って、それで……」

 無論そんな約束などした覚えはない。というか、放課後一緒に過ごすような友達などアリアには一人も居なかった。

 けれども創介と名乗った青年は全く疑う素振りもなく、むしろ納得するように二度頷いた。

「ああ、そうだったんですか。分かります! 自分も突然の休講とか、待ち合わせの相手が遅刻した時なんか、空き時間をどう使ったらいいのか分からなくなる方で……」

 そう言って創介はチラリと店の方を見た後、再びアリアの目をまっすぐに見つめる。

「よければ友だちが来るまで店の中で待ってたらどうですか? ウチは年配の常連客やたまに観光の人が来るくらいで、席も空いてますし。熱いコーヒーをゆっくり冷ましながら飲んでいると、案外時間なんてたっちゃうものですよ」


〈なん……だとっ!?〉


 おもわず立ち去りかけた足を止めるアリア。

 別に創介の真摯な眼差しに心ときめいたからでは無い。むしろ、この手の一見、人畜無害に見える男はデリカシーが無くてヘラヘラ笑いながら他人の地雷を踏み抜いてくると、相場が決まっている。

 それでもアリアの心が揺れたのは、やはり一度はこのカフェでお茶をしてみたいという想いからだった。

 アリアはウェーブがかった栗色の毛先をくるくると指でいじりながら、創介の提案を心の天秤にかける。

 これだけ恥をかいてしまったのだから今更、友達との約束が嘘だとバレた所で何だというのだ。それよりも今この機会を逃したら、自分の性格からしてきっと二度とこのお店には近付かないだろう。

 ならば取るべき道は一つだった。


「それじゃ、約束の時間まで……」

 あくまで用事がある事を強調しながらアリアは俯くように頷いた。

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