根岸アリアはお茶がしたい

原野伊瀬

プロローグ

6月4日 午前11時43分


 マッチをこする小気味良い音が響く。

 激しく燃え上がった炎は熟れた鬼灯のように紅い。けれどそれも最初の一瞬だけで、炎はあっという間にしぼんでいく。完全に消えてしまう前にマッチからアルコールランプへと火が移される。

 勢いを取り戻した炎の先端がフラスコの底に触れると、中に入っていたお湯が静かに沸騰を始めた。

 フラスコは支柱と取っ手、それに台座を兼ねたコの字型の器具によって空中に支えられており、口の部分には細長い筒状の漏斗が差し込まれている。そのガラスの筒の中は甘く香るコーヒーの粉で満たされていた。ザラメと砂糖のちょうど間ぐらいの細かさで挽かれたコーヒーは、独特の滑らかさとハリを合わせ持ち、まるで丁寧になめした革細工のようだ。

 しばらくすると爪の先でガラスを叩くような音が聞こえるようになり、沸騰したお湯が重力に逆らって細いガラス管の中をゆっくりと昇っていく。そうして筒の中にまで達したお湯にコーヒーが溶け込む。

 いわゆるサイフォンの原理を応用したこの淹れ方は、フラスコの中に小麦色の泡とチョコレート色の粉末、そして漆黒の液体からなる三層の見事なグラデーションを描かれ、実に美しい。

 沸騰したお湯の中でコーヒーを撹拌するため蒸らしが足りず、ドリップ式に比べて味が落ちるという向きもあるが、私はむしろこの淹れ方が好きだった。

 バリスタの腕に左右されず、機械的なまでに一定の味を提供してくれるのはもちろんのこと、蒸気と共に部屋中に広がる甘い香りや、一度上昇した透明の液体が黒く染まって下りてくるという様を見ていると何ともいえない気持ちになる。

 まるで今の自分を見ているようだ。

 瞬間的に頭に昇った血が様々な感情や考えと混ざり合い、ゆっくりと濾過されながら腹の底に降りてくる。もはやそこに憤りや躊躇いはなく、純粋な黒い感情だけが残る。

 15世紀以前、コーヒーはイスラム教の修行僧が瞑想や祈りのために用いる宗教的な秘薬だったと言われている。世俗の常識やしがらみから解放され、成し遂げたい願望がある今の私にはおあつらえ向きだ。

 もっとも祈りを捧げる相手は神は神でも、死神ではあったが……。

 火を落としたサイフォンから目線を外し、自分のカップに口をつける。


〈ぬるい……〉


 おもわず口を離し、経の一回り小さなデミタスカップの中を覗き込んだ。

 縁に沿って月桂樹をあしらった、マイセンの透けるような白磁とエスプレッソの上に浮かぶクレマが鮮やかなコントラストを描いている。けれども既に温もりは失われ、芳醇な甘い香りもだいぶ色褪せてしまっていた。

 どうやら考え事をしているうちにすっかり冷めてしまったようだ。

 だが、もう後戻りはできない。かの邪智暴虐の悪魔に正義の鉄槌を下す必要がある。

 再びカップに口を付けながら店内の様子を窺う。

 落ち着いた照明に照らされた店内はそれほど広くはなく、ウォールナットの一枚板をそのまま使ったカウンターと、ゆったりとした一人がけソファのテーブル席が幾つかあるだけだ。

 その一つに憎むべき人物がいた。

 片手で器用にスマートフォンをいじりながらもう片方の手でタコサンドをつまんでいる。

 それが最期の食事になるとも知らずに……。

 法があの悪魔を裁けないというのならば、自分で手を下すしかない。そのための手段凶器は用意した。迷彩トリックもある。あとは実行に移す意思動機を曲げないだけ……。

 カップを一息にあおると、泥のように冷たく苦いコーヒーが舌に染み込んでいく。するとどうだろう、不思議と頭が冴え渡り驚くほど落ち着いている自分がいた。これから人を殺そうとしているというのに躊躇も気負いも、何の感慨も浮かばない。まるでこの黒く濁った液体が私の中の何もかもを押し流してしまったかのようだ。


〈だがそれでいい……〉


 ソーサーにカップが触れる硬質な音を合図に計画を実行に移そうとした瞬間、一人の少女が声を掛けてきた。


「あの……相席、いいですか?」

「……は?」


 突然の事態に頭がついていけない。この日のために何度もシミュレーションを重ね、あらゆる事態を想定して幾つかの補完的な計画まで用意したというのに、こんな状況は全くの埒外だ。

 私が黙したまま固まっていると、少女はチェックのスカートを両手で押さえながら有無を言わさぬ感じで目の前に座った。

〈この制服は確か……〉

 ミルクとチョコレートたっぷりのカフェモカで染め上げたような、チェックのスカートにセーラー服という組み合わせには見覚えがあった。確か、市内にある私立高校のもので、今時珍しいも全寮制のお嬢様学校だったと記憶している。だが、そんな学校の生徒に知り合いなどおらず、わざわざ相席するほど店内が混んでいるわけでもない。

 それにもかかわらず私に話しかけてきた目の前の少女はいったい何者なのだろうか?

 私が無言のまま探るような視線を送っていると、少女はクセのある毛先をいじりながら切り出した。


「今日、この場で殺人事件が起きるとしたら、いつ誰が誰をどうやって殺すのか……凶器は何か? トリックは? この店に来てからそのことばかりずっと考えてました」

 目の前の少女がいったい何を言おうとしているのか分からない。ただ、抑揚の乏しい声で口にした『殺人』という単語に心臓が口から飛び出しそうになった。

「何を言ってるんだか……」

 平静を装いつつ口元を隠すように再びカップを傾ける。

 こんな時こそ熱いコーヒーが欲しいと、切に願う。

 けれどカップには茶色いクレマがこびり付いているだけで一滴も残っていない。

 シラを切ると少女は申し訳なさそうに俯き加減のまま両手をヒラヒラと振った。


「や、スイマセン。私、ちょっと口ベタなもので……昨日の夜も今日のシミュレーションをしていて少し寝不足気味なせいか、推理にも時間が掛かってしまって……もう10分後には約束の時間だから本当はこんなことしてる場合じゃないんですケド……」

〈何なんだ、この少女は!? 全く話が見えない……!〉

 学生同士の質の悪い悪戯か、はたまた良心が見せた幻か……。


〈ちょっといい加減に――〉

 おもわず声を荒らげた瞬間、それまでとは打って変わって自信に満ちた強い声色で少女は静かに告げた。


「ありていに言うと、アナタが犯人です」


 そう言って〝名探偵彼女〟は私が事件を起こす前に全ての謎を解き明かした……。

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