第3話

「……転さん」

「………………」転は何も答えない。部屋に入って、断固抗議する。と、発したっきりである。


「転さん」埒が明かず、菊江はカップに紅茶を注ぎ、それと一緒にクッキーを転の前に置く。「……こうでもしないと、貴方、いつまでもだらけたままだったのでしょう? 確かに、少し強引過ぎたかと思います。けれど、これだけはわかってちょうだい。私は貴方のためを想っているし、何より私は貴方のお母様――雲母ちゃんに貴方を任されて」


「このクッキーとんでもなく美味しいですね。菊江おば様、どこで買われたのですか? ちょっと八千雄に連絡して箱買いしてもらいますわ」


「………………」ヒクっと、口角が動く菊江。しかし、すぐに息を吐き、大人らしい笑みを浮かべる。「……街の方に今年から出来た美月堂で売っています」


 想い甲斐のない転に複雑な表情の菊江だが、今菊江の言っていた雲母――中村 雲母(きらら)は転の母親であり、父親と一緒に事故で亡くなった。彼女は生前ことあるごとに菊江と律子に転のことを頼んでいたのである。


 しかし、今日の出来事もそうだが転はそういう大人に対してまったく応えようとしないのである。何をやるにしてもやる気がなく、何かをすればサボっている。

 だが、そんな転を菊江は呼び戻した。理由は先に言った通り、雲母との約束を守るためと、転を傍に置いておきたかった。である。


「……転さん、そろそろ本題に――」

「嫌です」

「まだ何も言っていませんよ?」菊江は空になったカップに紅茶を注ぎ、書類を転の前に置いた。「まず、転さんには今日からここに通ってもらいます。そして――」


「生徒会長なんて、私のガラではありませんわ」

「……私、生徒会長をやってほしいなんて言いましたか?」

「いきなり私を呼び戻したのはまぁ良いとします。理由なんていくらでもくっ付けられますからね。ですが、この学校、今生徒会長がいませんよね? 確か……名前は存じ上げませんが、相当やり手だったようですね。ただ、彼女は去年卒業し、生徒会長の席が3か月も空いているのが気になってですね……私をそこに置きたいですか?」


「本当、雲母ちゃんに似て目敏いというか……」菊江は手を伸ばし、書類をめくった。そこには教育委員会への加入を記入する欄があり、ボールペンと印鑑を転へ手渡す。「律子ちゃんからは許可をもらっています。今はどこにも所属していない転さんは、何かしらの委員会に所属しなければなりません。これは知っていますね?」


 灯乃府群島の委員会――それはこの島に住んでいる者が、高校入学と同時に必ず加入しなければならないものであり、島を離れていた者も帰ってきた際には加入が義務付けられている。


「それが嫌だから、島を出ていたんですけどね」

「ええ、知っています。ですが、転さんにはやはり、貴方が育ったここにいてほしいのですよ」


「……それが本音だと思いたいですね」どこか棘のある言葉を放ち、書類を手に持った転がそれを無造作にめくる。「生徒会長……ですか」


 この島の生徒会長というのは、学校が島に一つしかないためにほとんどが大学生から選出される。もちろん、高校生の時から選ばれ、大学卒業までやる者もいないわけではないが珍しい。


 そして、生徒の代表。と、いうことで、教師や教育関係の人間と対等に渡れるように、教育委員会に入ることが絶対条件なのである。

 そんな大役に、転を置こうと言うのである。


「そんなに生徒に力を付けられるのが――」

「……」図星を突かれたのか、菊江が驚いたような表情を浮かべる。しかし、すぐに申し訳なさそう。と、いうより、奥歯を噛みしめ、後悔や詫びを内包しているような表情に変わった。


「……いえ、ごめんなさい。少し言葉が過ぎました」転は頭を下げると紅茶を飲み干す。そして、困ったような顔で、空のカップの底を菊江に見せる。「そうですよね。菊江おば様は、私がどれだけだらしないかを知っているはずですものね。例え裏にどのような理由があるにしろ、責任感の強いおば様が私を生徒会長に推薦するはずがない……まったく、どこの誰の入れ知恵かしら? 大方、この島の出身である程度顔も利き、教育委員会に牙を剥かない人間。故の私」


「……本当、貴方は――」菊江は悟ったように転のカップに紅茶を注ぐ。そして、先ほど転に渡した書類を手に持つと小物入れからハサミを取り出す。「ええ、そうですね。貴方の言う通りよ。前任の会長は、それはもう生徒のため、学校のために動いてくれたわ。私も本当に信頼していたわ――そう、それで良いのよ。まったく……教育者が聞いて呆れるわね」


 大きく息を吐いた菊江の表情は、清々しいものとなっていた。菊江自身、あまりこの提案に賛成ではなかったらしい。


 だが、その表情には明らかな覚悟があり、いくらこの島唯一の学校の理事長だろうと、様々な兼ね合いと責任が重くのしかかるのだろう。


「………………」転は無表情で髪を弄っているのだが――すぐに菊江の持っている書類に手を伸ばす。「菊江おば様――」


「――? 転さん?」

「私、やらない。とは言っていませんよ? 嫌。とは言いましたが」屁理屈だが、肩を竦めた転は書類を奪い取り、教育委員会の加入の欄に記入をする。「おば様は信じてくれないかもしれませんが、私、菊江おば様のこと好きなんですよ、尊敬もしています。母と父が亡くなってから、たくさん迷惑かけたにも関わらず、見捨てもしなかったですしね」


「転さん……」

「あ、でも、私に前任の生徒会長のような働きを期待しないでくださいね?」


 転の両親が亡くなったのは今から7年前――まだ小学生だった転は、中学に入ってからも一切その生活や性格を変えることはしなかった。子ども心によくある、両親がいなくなったからもっと良い子になる。だとか、誰にも迷惑をかけないように静かに過ごす。とか――そういうものが一切なかった。


 ただただ普通……故に、菊江とここにはいない叔母の律子は、そういう転に努めるようにか、普段通り厳しく接してきていたのである。


 故に、転が周囲の反対を押し切って本土の学校に行く。と、言った時も菊江と律子だけはそれを尊重したのである。普通の子が、普通の選択を――たったそれだけのことである。


「貴方にそれを期待するとでも?」菊江はクスクスと喉を鳴らし、転の頭を撫でた。「いえ……むしろ、貴方が思うことをやってくれればそれで良いですよ。まぁ、元々生徒会長で出来ることは多くありませんがね」


「ええ、わかっていますわ。そうですわね……せっかくですので、教育委員会の望む通りの傀儡であることにしますわ。その方が、勝手が良いですし」

「ええ、好きなようになさい。ですが、貴方が問題を起こすなら――」


「朝から追いかけられたくはありませんからね。はい、静かにしていますよ」

「そう――」

「それではおば様、私はそろそろ」そう言って、転は理事長室の扉に目を向けた。「講義をサボってまで待っている悪い子がいますからね」


「あまり、華秀ちゃんに意地悪しちゃだめよ?」

「おば様は本当に華秀さんが好きですね」

「小さくて可愛いじゃない。貴方にもあんな時代が――」

「それではまた」

 長くなると察したのか、転は菊江の言葉を遮り、一礼をして扉を開いた。

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