2.笑顔の爆弾発言

 それから二日後。美実が指定されたレストランが入っているビルに向かうと、既に一階のエントランスホールのベンチに淳が座って居た為、笑顔で声をかけた。


「淳、お待たせ!」

「ああ、時間ぴったりだな。入るか」

「うん」

 本当に仕事帰りだったらしく、真剣な顔で手元の書類に目を通していた淳は、瞬時に笑顔になって鞄にそれをしまい込んだ。そして立ち上がった彼と並んで歩きながら、美実が若干不思議そうに感想を述べる。


「でも本当に、良くこの時間に来れたわね。これまでのパターンだと、仕事の後に待ち合わせの時は、押す事が多かったのに」

「まあ、こんな時もあるさ」

 今日に限っては万が一にも遅れないように、朝から分刻みで仕事をこなし、同僚にも依頼人にも無言の圧力をかけて話をどんどん進めさせた事など、淳は一言も口にせずに笑って誤魔化した。そしてエレベーターで上階に移動し、美実を連れてレストランに出向く。


「予約している小早川だが」

「お待ちしておりました、小早川様。只今、ご案内致します」

 淳が入口で一言声をかけるなり、黒服の男性が恭しく頭を下げ、先に立って歩き出す。そしてカウンターの右側から窓際に広がっている空間に背を向けて、左の通路を歩き出した為、美実は当惑しながら淳に囁いた。


「え? まさか個室を予約したの?」

「ああ」

「どうして? 別に誕生日とかじゃないわよ?」

「偶には良いだろ?」

「『良いだろ』って……。変に無駄使いするタイプでも無いのに、今日はどうしたのよ?」

 ここで訝しげに美実が横を歩く淳を見上げたが、彼はただ笑うのみだった。

 それから夜景が一望できる部屋に案内された淳は、美実が夜景を見られる様に自身は窓に背を向ける位置に落ち着き、まずワインをリストから選んだ。そして前菜が運ばれてくる間に、指定したワインがソムリエによって運ばれてきて、グラスに注いで貰う。そして再び室内に二人きりになってから、淳は若干緊張しながら美実に声をかけた。


「それじゃあ、取り敢えず乾杯するか?」

「そうね。何に乾杯する?」

「そうだな……、俺達の未来に、とか?」

 淳はさり気なく自分の意志を表してみたが、それを聞いた途端、美実はワイングラスを持ったまま、盛大に噴き出した。


「うっわ! 何、そのくさい台詞! らしくない! 凄く面白いけど!」

「貶すのか誉めるのか、どちらかにしろ」

 如何にも楽しそうに笑い出した美実を見て、淳は思わず溜め息を吐いたが、彼女がすぐに笑いを収めた為、気を取り直してグラスを差し出した。


「それじゃあ、俺達の未来に、乾杯」

「乾杯」

 美実も素直にグラスを合わせ、笑顔で唱和する。それからワインを飲みつつ気分良く会話し、食事を進めた二人だったが、サラダとスープ、魚料理を食べ終えて皿を下げて貰ったところで、ちょっと会話が途切れた。そこで間が開いた事で丁度良いと判断して、両者がほぼ同時に口を開く。


「あのね、ちょっと話が」

「その、この機会に話が」

 そして互いの顔を見合わせて、双方で譲り合った。


「えっと……。じゃあ、先に話して良いわよ?」

「いや、俺は後からで良いから」

「そう?」

 しかしあっさり話は纏まり、美実が話を始めた。


「じゃあ先に、話をさせて貰うけど」

「ああ。何だ?」

「その……、ね。子供ができたの」

「……え?」

 僅かに恥ずかしそうにしながら美実が告白してきた内容に、淳は瞬時に固まった。それを見た美実は、再度報告を繰り返す。


「だから、妊娠したの。一応言っておくけど、冗談だとか、気のせいとかじゃ無いわよ? ちゃんと産婦人科で診て貰って、区役所に行って母子手帳も貰って来たんだから。ほら!」

「あ、ああ……。本当みたいだな」

 多少気分を害した様子で、交付して貰ったばかりの母子手帳をバッグから取り出した美実は、それをテーブルに乗せた。それを見た淳は呆然として頷いたが、徐々に嬉しさがこみ上げてくる。そして緩みそうになる顔を何とか引き締めながら、改まった口調で彼女に申し出た。


「そうか。それなら、ちょうどタイミングが良いと言うか……。いや、寧ろ遅過ぎだし、男で年上の立場としては、申し訳無いと言うか……。俺もこの際きちんと話を進め」

「だからね? 淳。この機会に、私と別れて欲しいの」

「……は?」

 そこで恋人が自分の話を遮りつつ、笑顔で繰り出した爆弾発言によって、淳の思考回路は完全に停止した。


「どうしたの? 聞こえなかった?」

 絶句して固まった相手を見て、美実が怪訝な顔で声をかけると、淳は何とか気持ちを落ち着かせようと何回か呼吸を繰り返してから、慎重に申し出た。


「悪い……。もう一度、言ってくれないか?」

 それに些か気分を害した様に、美実が先程の台詞を繰り返す。

「もう! ちゃんと聞いてよね! だから、子供ができたから別れましょうって言ったの」

 彼女が再びさらっと口にした為、淳はまだ呆然としたままオウム返しに呟いた。


「…………別れる?」

「そうよ。……あ、勿論、別れても子供に会いに来て良いわよ? 生まれてくる子供には、ちゃんと淳が父親だって説明するし。生活もきちんと考えてるから、私と子供の事は心配しないでね?」

 笑顔でそう宥める様に言ってきた美実に対して、淳の中で徐々に当初の驚きが、怒りに置き換わってきた。


「父親だと……、説明する?」

「ええ。だからどうしようかと思ってたんだけど、この際心置きなく、他の女性を探して頂戴ね?」

「ふっ……、ざけるなぁぁっ!!」

「淳?」

 にこりと美実が微笑みかけたところで、怒りが振り切れた淳は勢い良く立ち上がり、乱暴にテーブルを回り込んで美実を力任せに平手打ちした。


「きゃあっ!! いきなり何するのよ!?」

 盛大に怒鳴りつけられた美実は、打たれた頬を片手で押さえながら顔色を変えて立ち上がり、非難の声を上げた。しかし淳は、それ以上に激昂して怒鳴りつけた。


「人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!! 子供ができたから別れるだと!? それじゃあ腹の子の父親は、どこのどいつだ! ふざけるな!」

「なっ!? 何でそんな事を言われなくちゃならないのよ!! 淳の子供に決まっているでしょう!?」

 しかし彼女の反論を、淳は怒りに任せてばっさりと切って捨てた。


「前々から、厚かましい女だとは思っていたがな! ここまで厚顔無恥だとは思わなかったぞ! 他の男の子供なのに『父親だと説明する』だと? 真っ平ごめんだ! 笑わせてくれるぜ!」

「なっ、何で……、そんな事言われなくちゃならないのよっ!!」

 あまりと言えばあまりの暴言に、美実は既に涙目であったが、淳は全く構わずに言い募った。


「あぁ!? 当然だろうが、この売女がっ!!」

 淳がそう叫んだ瞬間、無意識に手を伸ばした美実が、手にした物を思い切り振りかざした。


「何よ! 淳の馬鹿ぁぁっ!!」

「ぐあっ!」

 叫びながら美実が振り回したそれは、ワインクーラーに入っていた空のワインボトルであり、それは見事に宙を切って淳の側頭部を直撃した。そして淳の呻き声と鈍い衝突音が生じた後、彼の身体が斜めに崩れ落ち、床に横たわってピクリとも動かなくなる。


「……え?」

 静まり返った室内で、さすがに美実は我に返って真っ青になり、しゃがみ込んでうつ伏せになっている淳に、恐る恐る声をかけてみた。

「あ、あの……、淳?」

 しかし全く反応が無かった為、美実は盛大な悲鳴を上げた。


「……いっ、嫌ぁぁぁっ!!」

 そして完全に正常な判断力を失った美実は、テーブル上の母子手帳は放置してバッグだけを掴み、勢い良くドアに向かって駆け出した。そこで先程からの言い争いや悲鳴で異常を察した従業員が、様子を見に来たのと遭遇する。


「失礼ですが、お客様。どうかされましたか?」

「やあぁぁぁっ!!」

 しかし完全にパニック状態の美実は、黒服のスタッフを押しのける様にして駆け出し、やって来た男女二人は呆気に取られて彼女を見送った。


「あのっ! お客様?」

「一体、何事……。なっ!? お客様! 大丈夫ですか!?」

 しかしすぐに室内の異常に気が付いた二人は、慌てて倒れ伏している淳に駆け寄り、店内の一角が一時喧騒に包まれる事になった。

 一方でエレベーターで一階に降りて、ビルを出た美実は、通りに飛び出す様にしてタクシーを止め、それに乗り込んだ。しかし泣きじゃくっているばかりで、行き先を言わない彼女に、運転手が困惑しながら声をかける。


「ふっ、ふえぇぇっ!! うえっ!」

「あ、あの……、お客様。どちらに」

「早く発進してっ!! まっすぐよっ!!」

「は、はいっ!」

 怒鳴られて慌てて発進させた彼は、(妙な客を拾っちまったなぁ……)と密かに後悔した。


「ふぅっ、うえっ……、ね、姉さんに電話っ……」

 そして怒鳴った事で、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた美実は、一番上の姉に電話をかけるべく、バッグから携帯電話を取り出した。

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