本編
1.転機
「あれから六年か……、本当に、あっという間だったな……」
出会った時の最初の印象はかなり微妙な物だったが、その後美実は淳と付き合い始めた。更にこの間に、彼の悪友は彼女の義兄となり、まるで元からの家族の様に同居し始めて、結構な時間が経過していた。
自分の机に肘を付いて、そんな恋人との出会いから現在に至るまでのあれこれをぼんやりと思い返していた美実は、そこで小さな溜め息を吐いた。
「避妊してたって言っても、百%じゃないしね。締切が迫っていて徹夜続きで、先々月は生理不順だったし。だから先月も遅れてるだけだと、思っていたんだけどな……」
自室で一人きりの為、彼女の呟きはそのまま独り言になっていたが、美実は構わずに喋り続ける。
「先生にも言われたし、ちゃんと話をしないとね。それと、一緒に色々済ませるか。そうなると……、やっぱり電話じゃなくて、直に顔を合わせて話をしないとね。それが礼儀ってものだろうし」
そう結論付けた美実は、早速卓上カレンダーに目を向けてスケジュールを確認し始める。
「えっと……、次に会えそうなのは、いつになるかな? なるべく早い方が良いとは思うけど……」
そんな事を口にしながら難しい顔をしていると、机の隅に置いておいた携帯が、着信を知らせてきた。そのディスプレイに浮かび上がった名前を見て、美実はちょっと驚いた表情になる。
「あれ? 噂をすれば影」
タイミングが良くて幸先良いわと、少し嬉しくなりながら、美実は電話に出た。
「もしもし、淳? どうしたの?」
その問いかけに、淳はいつも通りの皮肉げな口調で言ってきた。
「特にどうもしないんだが……、大きな仕事が一つ片付いたんでな。今月に入ってから、お互いに色々忙しくて会ってなかったし、近いうちに食事でもどうかと思って電話してみたんだ」
「あ、そうなの? 私も原稿が一段落した所だから、ゆっくり食べにいきたいな。折り入って話したい事もあるし」
美実がそう告げると、淳がどこか安心した様に言葉を継いでくる。
「そうか? それならちょうど良かった。早速だが、明後日の木曜日はどうだ?」
「うん、大丈夫。でも平日だから、仕事が終わってからよね?」
「そうだが、その日は出先から直帰予定だから、上手くいけば開店直後に入れるんだ。勿論、予約は入れておくが」
「早く入れば、その分ゆっくり食べられるわね。じゃあ、その日で良いわ。お店も任せるから」
平日の夜、仕事帰りに会うのは珍しいなと思いながら承諾すると、淳が上機嫌に話を続けてくる。
「よし。じゃあ、フランス料理でいいか?」
「勿論。淳はその手の事で外した事はないから、期待してるわよ?」
「何気にプレッシャーをかけるなよ。じゃあ、予約を入れたらまた連絡する。それじゃあな」
「うん、お休みなさい」
笑顔で通話を終わらせた美実は、満足して再び携帯電話を机に置いた。
「丁度良かったわ。段取り良く話す内容を、考えておかないとね」
そして一仕事する前にお茶を飲もうと、部屋を出て階下の台所に向かうと、廊下の向こうから元気の良い赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「あれ? 安曇ちゃん?」
今現在すぐ上の姉が里帰り出産で滞在している為、美実はちょっと心配になって声のする方に足を向けた。しかしすぐに泣き声が止んだ為、安心しながら客間の襖を開ける。
「美恵姉さん、大丈夫?」
そう声をかけながら顔を覗かせると、予想通り姉の美恵が、娘の安曇を腕に抱いて授乳している所だった。
「ああ、美実。ごめん、五月蠅かった?」
「ううん、大丈夫。私は偶々、廊下を歩いてたら聞こえただけだし。二階までは響いていないんじゃない?」
「それなら良いんだけど。昨日の夜は、姉さんに安曇を見て貰ったし……」
安堵した様に次姉が口にした内容を聞いた美実は、納得して頷いた。
「そう言えば、今日は割と早く寝てたっけ。まだ生まれて一ヶ月経って無いから、安曇ちゃんが纏まった時間眠る様になるのは、もう少し先ね。今の時期キツいけど、頑張ってね。“お母さん”」
ニヤリと笑いながら美実が告げると、美恵が僅かに嫌そうに顔を歪める。
「何で独身のあんたが、知ってるような口ぶりなのよ?」
「だって美樹ちゃんが生まれた時に、一度手伝ってるし」
「……そうか。その時私は、もう家を出ていたものね」
姉の出産時に仕事にかまけて、全く実家の手伝いなどしなかった事を思い出した美恵は、安曇を抱えながら申し訳無さそうな顔になったが、美実は慰めるどころか豪快に笑い飛ばした。
「え? 何? まさか『姉さんが出産した時に全然手伝わなかったのに、里帰り出産させて貰って、何から何まで面倒見て貰って悪い』なんて、傍若無人な美恵姉さんが本気で思ってるとか言わないわよね? にっあわな~い!」
「あんたね……」
さすがに美恵のこめかみに青筋が浮かんだが、美実はまだ若干笑って手を振りながら彼女を宥めた。
「冗談だし、美子姉さんだって、そんな事全然気にして無いわよ。どうせこれから山ほど世話になるに決まってるんだから、開き直ったら?」
「余計なお世話よ」
ムスッとしながら美恵が顔を背けると、(ちょっとからかい過ぎたかな)と反省しながら、美実が声をかけた。
「取り敢えず今夜は私が安曇ちゃんに添い寝して、ミルクをあげるのとオムツの交換をするから。何か顔色悪いし、無理しないで今日も朝まで続けて睡眠取った方が良いって」
「え? でも……」
唐突に申し出た内容に美恵が戸惑う表情になったが、美実は素っ気なく話を続けた。
「一昨日一本書き上げて昨日爆睡したから、今日は体調は万全なのよ。でも来週からは新しいのに取り掛かって、また暫く徹夜になるかもしれないし。下手をすると面倒を見てあげられるのは、今週中だけかもしれないのよね」
それを聞いて、どうやら妹なりに気を遣ってくれたらしいと分かった美恵は、その好意をありがたく受ける事にした。
「じゃあ、本当にお願いしても良い?」
「うん、寝るのは私の部屋を使って。細々とした物を、これから動かすのは面倒だし」
そして当初の予定を変更して二人は動き出し、十分後には準備を済ませた。
「それじゃあ、宜しく」
「了解。お昼はちゃんと安曇ちゃんの面倒を見てね? 仕事が気になって、仕方が無いのは分かるけど」
「当たり前でしょう? 分かってるわよ」
チラッと布団の周りに散乱している書類を見ながら、五年前に起業して社長業に邁進している美恵に困った様に笑いかけると、美恵は気まり悪げにその纏めた書類を室内に放置し、しっかり睡眠を取る為に手ぶらで美実の部屋に向かった。それを見送ってから美実は布団に潜り込み、片肘を付きながら横を向いて、お腹が一杯になってベビー用の布団でスヤスヤと眠っている、小さな姪を愛おしげに見下ろす。
「ふふっ……、美樹ちゃんの時も思ったけど、小さくてぷくぷくで可愛いなぁ……」
同居している一歳の姪が生まれた時を思い出し、美実の顔が更に緩んだ。そしてちょっと掛け布団を持ち上げ、自分の腹部に向かって呼びかける様に呟く。
「ほら、あんたの従姉が居るわよ? って言っても、分かるわけ無いけど」
自分の発言に苦笑し、それでも満足そうに、彼女は姪と自分の胎内にいる子供に優しく声をかけた。
「おやすみ」
そして今夜は熟睡できないだろうなと諦めながらも、美実は少ない睡眠時間を確保するべく、目を閉じたのだった。
同じ頃、淳は自宅に持ち帰った資料に目を通し、翌日の準備を完璧に済ませて、満足げに頷いていた。
「……よし、スケジュール調整は完璧だし、美実の方もOKと。これで無理やり仕事を突っ込んでくる馬鹿がいたら、ビルの屋上から突き落としてやるぞ」
かなり物騒な事を呟きながら、淳は何気なくカレンダーに目を向ける。
「しかし、あっという間に、六年が過ぎちまったな……」
そこに書かれた数字を目にして淳は自嘲気味にひとりごちてから、自分自身に言い聞かせた。
「少々時間がかかった感は否めないが、あいつも二十代半ばになったし、時期的には丁度良いよな」
そんな事を口にしながら淳は机の引き出しを開け、そこにしまってあった小さな合皮製のケースを取り上げ、暫くそれを眺めてから再び引き出しにしまい込んで、寝支度を始めた。
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