第8章 大団円にはまだ遠く

(1)吉村の受難

 負傷した沙織が職場復帰してから、半月程経過したある日。

 友之と沙織は連れ立って退社し、途中で待ち合わせていた吉村と合流した。そして予約時間の少し前に天ぷら専門店に入り、カウンター席に並んで座る。


「吉村。無理を言って、付き合って貰ってすまない。今日は遠慮なく食べてくれ」

 キャビアを添えたじゅんさいやオクラのジュレ、ベビーコーンやぼたん海老のお造りなどが彩り良く配置された先付けを前に、運ばれてきた冷酒の入ったガラス製の地炉利を持ち上げながら友之が促した。対する吉村も素直に江戸切子のグラスを持ち上げ、恐縮気味に酒を注いで貰う。


「課長には色々お世話になっていますし、何やら折り入って相談があるとの事ですから……。それで、そちらに関本が同席しているという事は、何か彼女絡みの事ですか?」

「お気遣いなく。私は勝手に食べていますので」

 友之を間に挟んで右端に座っている沙織は、男達の会話など気にも留めず、既に手酌で飲んでいた。そして無表情のまま、素っ気なく言い放つ。


「ほら、出されたものはすぐに食べる。せっかく最高の状態で提供して貰っているのに、写真を撮ったり話し込んでいるうちに温くなったり冷めさせるなんて、店の方に失礼ですよ?」

「……そうだな」

「いただきます」

 全く反論できなかった男二人は、それから言葉少なに食べ進めた。そして先付けに続いて鱧の葛うちの碗物まで平らげた時、友之が改まって吉村に申し出る。


「吉村、申し訳ない。今回は極めて個人的な頼み事になってしまうが……」

「課長、一体何事ですか?」

「申し訳ないと思うなら、頼まなければ良いじゃない。別に危険地帯に乗り込むわけじゃないのに」

 ここで如何にも不満げに口を挟んできた沙織に向き直り、友之は真剣な面持ちで訴えた。


「しかしだな、ある意味何をしでかすか分からない集団の中に、沙織を一人で出向かせるつもりは無いんだ」

「単なる飲み会よ、飲み会。それとも何? 結婚したら妻は、飲み会に夫かそれに代わる保護者同伴じゃないと参加できないとでも言うつもり?」

「そうは言ってないだろうが!」

「明らかに言っているわよね!? 吉村さん、どう思いますか!? 是非、第三者としての、忌憚の無い意見をお願いします!」

 次第にヒートアップしてくる夫婦の論争に対し、吉村は店の従業員と同様、下手に口を挟まず傍観者に徹していたが、沙織から険しい表情で意見を求められた為、控え目に申し出た。


「……すみません、課長。まずは俺がここに呼び出された理由を説明して貰えないでしょうか?」

「あ、ああ……。説明がまだだったな。すまない、沙織が途中で余計な口を挟んでくるから」

「私のせい!?」

「関本、取り敢えず課長の話を聞かせてくれ」

「……分かりました」

 声を荒らげた沙織だったが、疲れたような声音で吉村に懇願されて不承不承頷いた。しかしその時、目の前にお造りの皿が運ばれてくる。


「こちらは雲丹の泡醤油添えと、辛子醤油塗りのしめ鯖になります。こちらの泡は時間が経つと、元の液体に戻ります。塩とわさびも添えてありますので、お好みでお召し上がりください」

「うわぁ、これも美味しそう! お酒が進むわ! ほら、さっさと食べる!」

「…………」

 嬉々として箸を伸ばした沙織に逆らえる筈もなく、友之達はそれから少しの間だけ料理と酒を味わう事に専念した。


「その……、俺達が結婚している事が社内に周知されてから、《愛でる会》主催で《関本沙織の結婚を祝う会》が企画されたんだ」

 そんな風に友之が本題を切り出したのは、メインの天ぷらが出され始め、車海老の頭や身の天ぷらを食べ終わった時だった。


「はぁ……、あそこは団結力が半端じゃなさそうですから、トントン拍子に決まりそうですね……」

「それが来週に設定されて、沙織に出席要請がきた」

「え? まさか、関本だけですか? 結婚を祝う会と言うなら、普通は課長も出ますよね?」

「女性限定だそうだ」

 怪訝に思いながら吉村は問い返したが、友之の返事を聞いて、オクラと姫人参の天ぷらに伸ばしかけた箸を止める。


「…………何となく不穏な空気を感じるのは、俺の気のせいでしょうか?」

 僅かに顔を強張らせた吉村に、友之は真顔で同意を求めた。

「そう思うよな? 結婚を祝うのに、どうして夫婦で呼ばないんだ? しかも元々愛でる会は、俺の非公認ファンクラブじゃなかったのか?」

「課長……、それを俺に聞かないでください……」

 どんなコメントをすれば良いのか皆目見当がつかなかった吉村は、本気で頭を抱えたくなったが、そんな彼の前で夫婦間の論争が再び勃発しかけた。


「それに、現会長の新川さんも、少し前に顔を合わせた時に『関本沙織を吊るし上げる会』とか口走っていたし。万が一にも、殴る蹴るや刃傷沙汰に及んだりしたら」

「だからそれは、明らかに考えすぎだって言ってるでしょう!? 第一私、愛でる会の会員の殆どと、以前から友人付き合いをしているのよ!? 失礼だとは思わないの!?」

「すまない、関本。ちょっと良いか?」

「何ですか?」

 咄嗟に吉村が会話に割り込むと、沙織が不愉快そうに睨んでくる。しかしこれだけは言っておかないと駄目だろうと判断した吉村は、彼女に対して語気強く言い聞かせた。


「お前が社内で刃物女に素手で立ち向かって、意識不明になって病院に担ぎ込まれてから、まだ1ヶ月経過していないんだぞ? 怪我だけで後遺症もなくピンピンしているのは、本当に不幸中の幸いだ。この時期、お前一人で出歩く事に対して、課長が過剰に心配するのも無理はない」

「えぇ?」

 暗に非難された沙織は眉間に皺を寄せたが、吉村は引き続き正論を繰り出す。


「仮に、その祝いの席が何事も無く終わるにしても、行き帰りで不測の事態に遭遇するかもしれないだろうが。心配している課長に対して、頭から反発するのはどうかと思うぞ?」

「…………」

 真顔で言い聞かされた沙織は納得しかねる顔付きになったものの、その言い分は認めたのか反論はしなかった。その気まずい沈黙の中、新たな料理が差し出される。


「次はアワビと唐辛子になります」

「はぁ、どうも……」

 いつまでも仏頂面でいるわけにもいかず、沙織はそこで何とか機嫌を直して再び揚げたての天ぷらを味わい始めた。


「取り敢えず課長達が揉めている理由は分かりましたが、俺が呼ばれたのはどうしてでしょうか?」

 牛ヒレ肉やアスパラ、椎茸などを食べ進め、沙織を横目で窺って美味しいものを食べ続けた彼女の機嫌が良くなったのを確認してから吉村が尋ねると、友之がかなり言いにくそうに告げる。

「その……、俺の出席は認められないが、その場に吉村が顔を出す分には構わないらしい」

「どうしてですか?」

「《愛でる会》では各種会合の出席者の選定は、会長の選任事項だそうで」

 そこまで聞いた吉村は友之の話の途中にもかかわらず、微塵も躊躇わずに席を立った。

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