(3)大きなお世話

 月が替わり、沙織の愛人疑惑の噂が社内から完全に消え去った頃。まだ帰宅しない友之を除いた三人での夕食の席で、義則が思い出したように言い出した。

「ああ、そうだ。真由美。明日の夕飯は、私と友之の分は要らないから。この間田宮さんから『大切な話もあるし、是非一度先日のお詫びを兼ねて、お二人にご馳走させて欲しい』と何度か言われていてね」

 それを聞いた真由美は、不愉快さを露わにしながら尋ね返す。  


「先日のお詫びって……、例の沙織さんの愛人疑惑事件の事? あれからひと月以上は過ぎているのに、今更? それに一番迷惑を被ったのは沙織さんなのに、あなたと友之だけに奢るのはどうなの?」

「お義母さん、私は気にしていませんから」

「話があるとも言っていたし、この場合お詫びは単なる名目かもしれないな。とにかく明日は夕飯は要らないから」

 沙織が慌てて口を挟み、義則が少々困り顔で重ねて告げると、真由美はまだ面白く無さそうな顔で応じた。


「はいはい、分かりました。それじゃあ明日は、私達だけで食べましょうか。沙織さんの好きなものを作るわよ? 何が良い?」

「そうですね、それなら……」

 そこで問いかけられた沙織は、まだ少し機嫌が悪そうな真由美の様子を眺めつつ考え込んでから、ちょっとした提案をしてみる。

「それならいっそのこと、明日は私達だけで外食しませんか? 仕事が終わる時間帯に、どこかで待ち合わせをして。いつもお世話になっていますし、明日の支払いは私が持ちますから」

 その沙織の提案に、真由美が嬉々として飛びついた。


「え? 本当に!?」

「はい、お義母さんさえ良ければ」

「ええ、私達だけで行きましょう! それじゃあ、何が良いかしらね?」

 途端に機嫌が良くなってあれこれと考え出した彼女を見て、義則と沙織は(宜しく頼むよ)(お任せ下さい)とアイコンタクトを交わし、それからは和やかに夕食を食べ進めた。


「友之さん、入って良い?」

「ああ、構わない。どうした?」

「夕食時にお義父さんから聞いたけど、明日、田宮常務にご馳走になるんですって?」

「ああ……。どうも何か裏がありそうで、嫌な予感がするんだが……」

 一人、遅く帰宅した友之が、夕食を食べ終えて部屋に戻ったタイミングで彼の部屋に沙織が顔を出すと、友之は若干憂鬱そうな表情で応じた。沙織はそれに首を傾げつつ、ベッドの端に座りながら意見を述べる。


「純粋にお詫びなんじゃないの? あれからさほど時間を空けずに、また仕掛けてくるとは考えにくいけど」

「確かに、そうなんだがな……。だが俺は、他に大いに不満がある」

「不安じゃなくて不満? 一体、何の事?」

 そこで友之は無言で座っていた椅子から立ち上がり、沙織の隣に座ったと思ったら、自然な動きで彼女の身体を抱き込んだ。そして視線の先の壁を眺めながら、憂鬱そうに告げる。


「夕飯を食べている最中、母さんが『明日は沙織さんと二人でデートよ!』と、もの凄く五月蝿かった」

 その如何にも嫌そうな口調に、沙織は吹き出しそうになるのを堪えながら宥めた。


「拗ねないでよ、良いじゃない。本当に最近、お義母さんと二人で出掛ける事が無かったし、試しに言ってみたら凄く喜んでくれたんだから」

「……別に、拗ねているわけじゃない」

「拗ねているじゃない。ぶつくさ言いながら抱き付いてくる状態の、どの辺りが拗ねていないと?」

 自分を抱き込んだままベッドに転がった友之の背中を、沙織が手で軽く叩きながら指摘すると、彼の口調がはっきりとした愚痴のそれになる。 


「全く……。俺にまで何の話があるんだ。父さんだけで良いだろうが。せっかく早く帰宅できる日だったのに……。少し前に父さんにスケジュールを聞かれた時、『当面全部埋まっている』とでも言えば良かった」

「そういう日だと分かっていたから、お義父さんも予定を入れたんでしょう? お義父さんの予定もあるし、相手は自社の役員なんだから、色々思うところはあってもちゃんとお付き合いしないと駄目よ。中間管理職の役目の一つよね」

 沙織が宥めつつも結構容赦の無い事を口にした為、友之は思わず溜め息を吐いた。


「やっぱり沙織はスパルタだ。母さんと同じで夫を掌で転がして、尻を叩きまくるタイプだな」

「心外な……。それにお義母さんは、そういうタイプには見えないけど?」

「そう見えないから厄介なんだ」

 少々気分を害したような沙織を見て友之は漸く機嫌を直し、彼女に苦笑いしてみせた。


「仕方がない。これも仕事の内と割り切って、明日は愛想笑いを振り撒いてくる」

「頑張ってね。平社員時代に培った営業スマイルが錆びつかないように、如何なく発揮する良い機会よ」

「本当にスパルタだな。じゃあ明日は沙織を母さんに取られるから、今夜は少し俺の相手をして貰うか」

「もう……、お義母さんを理由にしないでよ」

 そこで完全に気持ちを切り替えたらしい友之に半ば呆れつつも、沙織は仕方がないかと苦笑しながら、寝るまでの時間を彼に付き合って過ごした。



 ※※※※



「やあ、田宮さん。遅れて申し訳ない」

「いえいえ、私が早く来すぎただけですから。社長と松原課長は、時間通りにいらしています。お気になさらず。さあさあ、お座り下さい」

「それでは失礼します」

 翌日、仕事を終えてから指定された料亭に出向いた義則と友之は、通された個室で満面の笑みの田宮に出迎えられた。そして席に落ち着くなり二人に酒を注ぎ始めた田宮は、殊の外愛想が良かった。


「いやぁ、松原課長、いや友之君。もう勤務時間外だから、そう呼ばせて貰うよ?」

「はぁ、それは構いませんが……」

「それは良かった。君はいつ見ても男振りが良いと思っていたが、最近それに益々磨きがかかったね」

「どうも……、恐縮です」

「いや、これは嫌みとかでは無くて、本心からの誉め言葉だからな! やはり社長のご子息だけあって、謙虚ですな!」

「ありがとうございます」

 もうこの時点で違和感しか覚えなかった義則と友之は、一体どういう事かと困惑した。 


(これまでは私達に対して敵愾心を露にする事は無くても、一歩引いた態度を貫いていた田宮さんが、どういう風の吹き回しだ?)

(何なんだ、このテンションの高さは。ネチネチ言ってくるのとは、また違う鬱陶しさだが)

 しかしその戸惑いは、料理が運ばれて来てからすぐに明確な警戒感へと変わった。


「ところで友之君。ここ暫く君の華やかな噂を耳にしないが、実際のところお付き合いしている女性は居ないのかな?」

(本題はそれか……。そうなると、もしかして……)

(何なんだ。沙織の愛人疑惑が潰れたから、今度は俺に口には出せない女と付き合っているとか邪推して、探りを入れてきたわけじゃあるまいな)

 義則は即座に相手の言いたい事を察したが、友之は怪訝な顔になりながらやんわりと言葉を返した。


「今現在、交際している女性はいません」

(事実婚はしているがな)

 義則が心の中で突っ込みを入れると、田宮が笑顔のまま問いを重ねる。 


「そうなのか。因みに、何か理由でもあるのかな?」

「特に理由はありませんが。強いて言えば、仕事に集中したいからでしょうか」

「うんうん、そうだろうな。三十代も半ばになって、仕事に責任を持って没頭する。いや、結構。社会人たるもの、そうあるべきだ!」

「はぁ……」

 一体何を言いたいのかと友之が困惑を深めていると、田宮がテーブル越しに身を乗り出しながら、語気強く訴えてくる。


「しかしだ、友之君! 人生、決して仕事だけでは無いぞ!? プライベートも充実させてこそ、仕事での成果に結び付くだろうし、達成感も倍増と言うものではないかな?」

「……そうでしょうか?」

「そういうものだ! 社長もそう思いませんか?」

「まぁ、確かにそうでしょうな……」

「そういうわけで、友之君の更なる飛躍と活躍の為にも、やはり家庭を持つ事を進言しようと思ってね。賢しげに口だけ出すのもどうかと思ったから、この一ヶ月の間に方々に声をかけて、友之君に似合いそうな女性を選りすぐってみたんだ! 是非、これらの写真と釣書に目を通してくれたまえ! 気に入った女性がいたら、何人でも話を通すから!」

 田宮はそう言いながら、どうやらこれまでテーブルの下に隠していたらしい紙袋の中から風呂敷包を取り出し、それをテーブルの上に乗せた。


(やっぱりそうか……。しかし『何人でも』って……。田宮さんはどうあっても友之の縁談を纏めるつもりなのか?)

(見合い写真……。しかもあの厚さからすると、一人や二人分じゃ無いよな……。本当に何を考えてるんだ、このオヤジは!!)

 問題の風呂敷包の、ある程度纏まった数量でしかない厚みを見て義則は遠い目をしたが、当事者の友之にしてみればたまったものではなかった。

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