(19)周囲の懸念
その後、憤然としながらもいつも通り仕事に集中していた沙織だったが、マナーモードにしているスマホがメッセージの着信を伝えてきた。
(あれ? 由良から?)
中途半端な夕方の時間帯の呼び出しなど、これまで皆無だった為、沙織は不審に思いながらもトイレに行くふりをしてフロアを抜け出した。すると廊下を進んだ先の休憩スペースで待ち構えていた由良が、沙織を認めて手招きする。
「沙織、ちょっと」
「由良、どうかしたの? 仕事中に呼び出すなんて初めてだよね?」
「直に聞かないと落ち着かなくて。あんたの写真が、社内報にアップされていた事は知っている?」
念の為、周囲を見回して人気が無いのを確認してから、由良が声を潜めて尋ねてきた為、沙織はうんざりしながらも同様に小声で応じた。
「うん、午後になってから後輩が見つけてね。課長が即刻削除させたけど」
「私も社内報では見ていないけど、そのコメント付きの画像が一部の社員の間で拡散しているのよ。私はそれで確認したの」
それを聞いた沙織は、本気で呆れ返った。
「それはそれは……。やっぱり暇な人って、結構いるのね」
「そんな悠長な事を言っている場合じゃないでしょうが!? 第一、あの一之瀬社長は沙織の何なのよ! まさか本当に愛人じゃないでしょうね!?」
「違うわよ。和洋さんと血縁関係があるのは確かだけど」
まだ少々親子と公言するのはどうかと思っている沙織が、(親子は血縁関係の最たるものだし、嘘は言っていないわよ)と開き直りながら口にすると、それを聞いた由良は一瞬考え込んだものの、あっさり納得する。
「血縁関係? あ、ひょっとして、沙織があのマンションを格安で借りている遠縁の人って、一之瀬さんの事だったの?」
「そうよ」
「なるほどね。『一之瀬さん』じゃなくて『和洋さん』って名前呼びして、ハグする程度には親しくしている親戚なわけだ。やっぱりねぇ……。あんたはどう見ても愛人タイプじゃないし、何の冗談かと思ったわ。だけど、これからどうするつもり?」
納得はしたものの今後の事を心配する由良に、沙織は小さく肩を竦めながら答える。
「どうもこうも……。別に私に非は無いし、弁解もするつもりは無いわ。人の噂も七十五日って言うし、放っておけばそのうち消えるわよ」
由良は沙織ほど楽観できなかったが、本人がそう言っている以上、他人がどうこう言っても無駄だろうと割り切った。
「そうかしら? 本人が気にしていないなら良いんだけど……。取り敢えず《愛でる会》内では、沙織の愛人疑惑に関しては根も葉もないデタラメで、一之瀬さんとは血縁関係がある事を周知徹底させておくわ。それじゃあ仕事中、押し掛けてごめんね」
「由良も仕事中でしょう? 怒られる前に戻って」
謝りながら自分の部署に戻る由良を、沙織は苦笑しながら見送った。
(拡散か……。あの人は転職したばかりだし、それほど社内に繋がりは無い筈。本当に、暇な人が多いこと。それとも吉村の裏で、糸を引いている人間でもいるのかしら?)
考え込みながら廊下を歩き、営業二課が入っている部屋に戻る。すると普段とは微妙に異なる視線を集めている事に否応無く気付かされ、沙織の機嫌は悪くなった。
(全く腹が立つ。和洋さんが実の父親だと公表すれば、確かに事は片付くだろうけど、どうして私が弁解がましく本当の事を打ち明けないといけないのよ。それに周りから、どうして今まで隠していたんだと不審がられるだろうし)
ムカムカしながら席に戻り、中断していた仕事を再開すると、再びスマホが震えた。
(あら? 豊? 何よ、これ……。『俺に考えがある。取り敢えず今日は何もせず、周囲に何も言わずに退社しろ。夜に説明する』ってどういう事? まさか友之さんが知らせて、この騒ぎを知ってるわけじゃ無いでしょうね?)
これまで一度もこちらの仕事に関して連絡を取ったり、関わってこなかった相手からのメールに、沙織は本気で首を傾げた。そして友之の様子をさり気なく窺うと、その彼からもメールが届く。
(『俺は何も知らせていないが、取り敢えず今日は、豊さんの指示通りにしてみよう』って……。友之さんにも豊から同じメールが? 本当に、何がどうなってるの?)
困惑を深めた沙織だったが、考え込んでも埒があかないと諦めた。
(とにかく、言われた通りにしてみますか)
そう腹を括った沙織は、周囲の物言いたげな視線を丸無視しながらその日の仕事を終わらせ、他部署の者達からの好奇心に満ちた視線を受けながら帰路についた。
「沙織さん、お帰りなさい。大変な事になったわね。社内で愛人疑惑だなんて、友之と義則さんは本当に何をしているのよ!」
憤慨しきった真由美に出迎えられた沙織は、取り敢えず靴を脱いで奥に進みながら問い返した。
「お義母さん、どうしてそれをご存じなんですか?」
「少し前に、沙織さんのお兄さんから電話があったの。一通り説明した上で、『今後の事について相談したいので、二十時にそちらにお邪魔させてください』と仰っていたわ」
「そうでしたか……」
自分の知らないところで着々と話を進めている兄に沙織は呆れたが、真由美に促されるまま出された夕食を食べ始めた。するとそれ程時間を空けずに、友之が息を切らせながら食堂に駆け込んでくる。
「沙織! 帰ってるよな!?」
その第一声に、沙織は呆れ顔で溜め息を吐いた。
「……見て分からない? それにどうしてそんなに息を切らしてるの。まさか駅から走って帰って来たの? そんな事する必要ないじゃない」
「やはり一之瀬さんがお前の正真正銘の父親だと、社内に公表しよう。沙織の名誉にかかわる事だぞ!?」
「言いたい人には言わせておけば良いじゃない。卑怯な誰かさんのせこい嫌がらせで公表する羽目になるなんて、負けた気分で嫌だもの」
「勝ち負けの問題じゃないだろうが!?」
「何? 私の事に関して、上とか周りから何か言われたの?」
「そういう事ではなくてだな!」
「とにかく二人とも。お兄さんが来るまでに、食事を済ませておかないと駄目だろう」
「そうね。夫婦喧嘩は、他人に迷惑がかからないところでね」
すっかり臍を曲げてしまった沙織に友之は声を荒げたが、ここで義則と真由美に冷静に諭され、取り敢えずお互いにこれ以上余計な事は言わず、夕食を食べ進めた。
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