(5)男性限定立入禁止

 控え目なアラーム音を響かせた体温計を、沙織が服の中から取り出して目の前に持ってくると、二時間程前から感じ始めた身体の異常をしっかり裏付けする数値を示していた。その事実に、沙織はトイレの個室でがっくりと項垂れる。


「うわ……、やっぱりこれは駄目だわ。不覚。咳や鼻水が全然出ていなかったから油断した……」

 しかしそのままダラダラと過ごすわけにはいかず、沙織はトイレを出て職場に戻り、机の引き出しに体温計をしまってから、課長席に向かう。


「課長、申し訳ありません」

「どうした?」

 いきなり謝罪から始まった呼び掛けに、友之が怪訝な顔で応じると、沙織は淡々と話を続けた。


「朝、家を出た時は何とも無かったのですが、出社してから少々寒気が。それが徐々に悪化してきたので、先程体温を測ってみましたら38℃を越えていますので、早退させて下さい」

 そんな事を言われた友之は、さすがに顔色を変えた。


「え? そこまで急に熱が上がるのは、普通では無いだろう。巷で流行っているし、インフルエンザかもしれんぞ。すぐに退社して受診しろ」

「申し訳ありません。そうさせて貰います」

 深々と一礼し、同僚達からの「大丈夫か?」とか「無理するなよ」などの声に軽く頭を下げながら沙織が席に戻ると、佐々木が心配そうに声をかけてくる。


「先輩、大丈夫ですか?」

「佐々木君、ごめんなさい。本気でつらくなってきたから……。悪いけど、明日の北野製造との契約締結を」

「任せて下さい! 必要な書類は揃っていますし、内容は全て頭の中に入っています。先輩は安心して休んで下さい」

 満面の笑みで自分の胸を叩いた佐々木を、沙織は頼もしく思いながら軽く頭を下げた。


「宜しくね。インフルエンザだったりしたら、佐々木君に感染させていないと良いんだけど」

「先輩は、まだ咳込んだりしていませんから大丈夫だと思いますし、体調管理には気をつけます」

「それじゃあ、後はお願いね」

「はい。気をつけて帰宅して下さい」

 そうして沙織は同僚達に見送られて退社し、その足で受診してから帰宅すると、密かに友之から連絡を受けていた真由美が待ち構えており、軽い食事と水分を取らされてからベッドに直行させられた。


「うぅ……、寝込むなんて何年ぶりだろう……。殆ど記憶にないし、予防接種もしていたのに……」

 これまで体調管理には自信があった沙織が、本気で自己嫌悪に陥りながら潜り込んだ布団の中で呻くと、掛け布団を直しながら真由美が苦笑交じりに応じる。


「やっぱり最近色々あったし、意識はしていなくても疲れが溜まっていたんじゃない?」

「そうかもしれません……。すみません、お義母さん」

「あら、気にしないで。誰だって、体調を崩す時はあるわよ。困った時はお互い様。今度私が具合が悪くなった時は、沙織さんに看病して貰うから。その時はお願いね?」

「はい、そうします」

「それじゃあ、あまり仕事の事は気にしないで、とにかくきちんと休んでね。少ししたら、また様子を見に来るわ」

 そこで真由美は沙織の眠りを邪魔しないように、薬と飲み物をベッドサイドに置いて、静かに部屋を出て行った。


 沙織が無事に帰宅した旨の報告はあったものの、その後真由美から連絡はなく、沙織の体調を心配しながら友之は仕事をこなしていった。そして終業時間になっても相変わらず二人からの音沙汰は無く、彼は諦めて溜め息を吐き、家路についた。そして帰宅した友之は、沙織の部屋の前で当惑する事となった。


「……何だこれは?」

 それは、真由美が以前用意した『立入禁止』のプレートの上部に、『男性限定』の紙が追加して貼られていたからであったが、友之が一瞬困惑してからドアノブに手をかけた所で、沙織用の夕飯を運んできた真由美が息子に声をかけてきた。


「あら、友之。お帰りなさい」

 その声に反射的にドアノブから手を離しながら振り返った友之は、真由美に少々恨みがましく詳細について尋ねた。


「母さん、沙織の具合は? まだ熱が上がっているのか?」

「あ、ごめんなさい。連絡するのをすっかり忘れていたわね。やっぱりインフルエンザの判定が出たそうよ。でも処方されたお薬をすぐに飲んだから、悪化してはいないみたい。ちょっとぐったりしてるけど、午後に少し眠ってさっきは起きていたし」

「そうか。じゃあ様子を見て来る」

「待ちなさい、友之。これが見えないの?」

 安堵しながら再びドアノブに手をかけた友之だったが、真由美は素早く低い声で叱責した。そして指摘されたプレートを見て困惑顔になった彼が、眉根を寄せながら問い返す。


「これって……、さっきも不思議に思ったが、このプレートは一体何なんだ?」

 その問いかけに、真由美は堂々と言い返した。


「この室内は、沙織さんが回復してインフルエンザの隔離期間が終了するまで、男性は立ち入り禁止よ。感染したら、社長と課長の業務に差し支えるでしょうが」

「いやしかし、ちょっと様子を見る位は」

「沙織さんには、しっかり言い含めておいたわ。彼女は真面目だから、『そうですね。まかり間違っても、管理職である友之さんやお義父さんに感染させるわけにはいきません』と納得してくれたから、こっそり様子を見に行っても、すぐ私に通報してくれますからね」

 確信に満ちたその宣言に、友之はがっくりと項垂れた。


「通報って……、俺は不審者か?」

「立派な不法侵入者よ。この家の法律は、私が作り出しているんですからね。さあさあ、分かったのなら早く着替えて下に行って。ご飯を出すから」

「とにかく、沙織は大丈夫だな?」

「当たり前よ。心配しないで」

 そして、如何にも邪魔だと言う風に手振りで追い払われた友之は、真由美が上機嫌にドアをノックしてから「沙織さん、少し食べられるなら口に入れてみて」などと言いながら部屋に入るのを見て、深い溜め息を吐いてからおとなしく自室へと向かった。


「父さん、ただいま」

 既に帰宅し、食卓で食べていた父親に、着替えを済ませた友之が挨拶すると、義則は手を止めて尋ねてきた。


「お帰り。ところで友之、沙織さんの部屋の“あれ”を見たか?」

「母さんが沙織の夕飯を持ってきたところに出くわして、釘を刺された。一体、何なんだ?」

「母娘(おやこ)の相互看病イベントらしい」

「はぁ?」

「沙織さんが治ったら、真由美が看病して貰うそうだ。『同じウイルスに感染するなんて、如何にも家族って感じがするわよね!』と上機嫌でな」

 何とも言い難い微妙な顔での説明に、友之は本気で頭を抱えた。


「止めてくれ……。他人に聞かれたら、母さんがもの凄く頭が悪い人間に思われそうだ」

「そういう訳だから、沙織さんがちゃんと回復するまで、お前は彼女の部屋には立ち入るなよ? 万が一、真由美より先にお前が感染したりしたら、確実に拗ねて怒る。下手すると罹患している間ずっと、超絶に不味い物を食べさせられかねない。体力だけでは無く、気力まで根こそぎ無くなるぞ?」

「そういうろくでもない事を、真顔で言わないでくれ……」

 真剣な顔付きで忠告してくる父親に、友之が心底うんざりして呻いているうちに真由美が戻り、彼女が準備してくれた夕食をおとなしく食べ始めた。そして夕食後、(やはり後でこっそり見つからないように、沙織の様子を見に行くか)などと目論みながら、友之がリビングで両親と珈琲を飲んでいると、インターフォンの呼び出し音が鳴った。


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