(2)疑念

「取り敢えず、こんなところだな。分からない事があれば、その都度遠慮せずに周囲に聞いて欲しい」

「はい、そうさせて貰います。早速お伺いして構いませんか?」

「ああ、時間はあるから、遠慮なく聞いてくれ」

 吉村の机の所に椅子を持って来て、一通り業務に関しての説明を済ませた杉田が尋ねると、吉村が早速お伺いを立ててきた。しかしその問いかけを聞いた杉田は密かに失望し、かつ呆れた。


「課長は随分若くして昇進していますが、係長を初めとして課内には何人も課長より年長者が在籍しているのに、揉める事は無いんですか?」

(ほう? こいつ馬鹿か? それとも考えなしの馬鹿に見せかけて、俺達の反応を探っているのか?)

 探りを入れるにしては直球の台詞に、杉田は気を引き締めながら、しかし傍目には何も気にしていないように問い返した。


「揉めるとは、一体何に対して揉めると言うのかな?」

「係長達より若い課長が居座っていたら、皆さんが昇進できないと思いますが?」

 含み笑いで、当然だろうと言わんばかりの口調で言われたそれに、杉田は冷笑で応じる。


「なるほど……。鹿取技工が最近益々業界シェアを落としている、理由の一端が見えたな。あそこは年長序列がまかり通っていて、君に見切りを付けられたわけだ。だが……、本当に見切りを付けられたのはどちらかな?」

 そこで冷笑すら消し去り、顔にはっきりと侮蔑の表情を浮かべた杉田を見て、吉村も顔色を変えた。


「……どう言う意味ですか」

「転職早々、口を滑らせた。もしくは口を滑らせたという自覚すら無い迂闊者にどれだけの仕事ができるのか、とくと拝見させて貰おう。さっきの問いに一言で答えると、我が社は実力主義。単に、それだけの事だ」

 淡々と杉田が口にすると、吉村が吐き捨てるように応じる。


「社長の息子と言う事実は、全く関係ないと?」

「そういう事を口にした時点で、君は人を見る目が無いと他人から評価されるだろう。初日だから、忠告だけはしておく。取り敢えず今日は、このデータの処理と集計を頼む。明日からは当面、朝永と組んで動いて貰うからそのつもりで」

「……分かりました」

 これ以上揉める事は得策では無いと悟った吉村は、おとなしく指示された業務に取りかかり、杉田も恫喝混じりに口にした台詞の事は蒸し返さず、その日一日吉村の動向を観察していた。


「お疲れ様です。課長、ちょっと良いですか?」

「杉田さん、どうかしましたか?」

 遅い時間帯の会議から戻ってくると、退社する杉田と廊下で遭遇し、更に目配せで人気が無い場所への移動を求められた友之は、多少面食らいながらもそれにおとなしく従った。そしてエレベーターホールから離れた場所まで移動し、周囲に人気が無い事を確認した杉田が、徐に口を開く。


「彼の事だが……、敵視しているとまでは言えないが、どうやら課長に対して好印象は持っていない感じだな。念の為確認させて貰うが、本当に例の店での遭遇以前に、彼と面識は無いんだよな?」

 はっきりと名前を出さなくても、吉村以外の人間の筈が無いと分かった友之は、真顔で頷いた。


「はい。皆無です」

「そうか……。まあ多少扱いづらい奴かもしれないが、今日一日見ていた限りでは、取り敢えず即戦力にはなりそうだ」

「分かりました。宜しくお願いします」

「それではお先に」

「お疲れ様でした」

 難しい顔になった杉田だったが、すぐに気持ちを切り替えて挨拶してその場を離れた。それを(余計な苦労をかける事になったかもしれない)と、申し訳ない気持ちで見送った友之は、再び二課に戻りながら、無意識に呟く。


「気に入らないな……」

 勿論、吉村に対する不信感と悪感情を他人に悟らせるような真似はしなかった友之だが、それ故に余計なストレスを溜め込みながら、その日は帰宅する事になった。



「ただいま」

「お帰りなさい。今日は少し遅かったですね。夕飯は?」

「今から食べる」

 夕食を食べ終えてから自分の机で調べものをしていた沙織は、帰宅後に自分の所に直行した友之を訝しげに見やった。


「どうかしましたか? 鞄を持ったまま、着替えもしないでこっちに来るなんて。至急の話でも?」

「沙織、吉村の事だが……」

「ああ、友之さん、さすがですよね。偶々飲みに行った先で、チラッと目にしただけの人を覚えているなんて」

 本気で感心しながら沙織が応じたが、友之は別に賛辞が欲しかったわけでは無く、心底忌々しげに話を続けた。


「やっぱりお前にも、あいつに心当たりは無いんだよな?」

「心当たり? 何のですか?」

 沙織がきょとんとしながら応じると、友之は溜め息を吐きながらベッドに乱暴に腰を下ろす。


「俺には単に同じ店に居ただけの人間を、誰彼かまわず記憶する能力も、変わった癖も無い」

「え?」

「あいつが俺達を凝視していたから、記憶していただけだ。尤も俺達と言うよりは俺、しかも非友好的だったから、余計に印象に残っていたんだが」

 それを聞いた沙織は、本気で戸惑った。


「でもあの人と私達に、それ以前の面識はありませんよね? 前の職場は鹿取技工ですし」

「ああ、思い当たる節は無いな」

「面倒そうな予感がしますが、注意してみるしかありませんよね」

「そういう事だな。全く、新年早々面倒な……」

 そんなうんざりした様子で愚痴をこぼした友之を見て、沙織はさすがに気の毒になり、作業は後回しにする事にして立ち上がった。


「取り敢えず今日も一日、お疲れ様でした。今から飲むなら、晩酌を付き合いますよ?」

「それは是非とも、お願いしたいな」

 珍しい沙織からのお誘いに、友之は心からの笑みを浮かべながら立ち上がり、自室に鞄を置いてから、機嫌良く二人で階下へと向かった。

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