(29)意味不明な別れ話

 その日、連絡があった通り、友之は九時過ぎに沙織のマンションを訪れた。


「やあ、遅くにすまない」

「まだそれほど遅くはありませんが……。夕飯は要らないという話でしたけど、ちゃんと食べて来ましたか?」

「……ああ、一応」

「そうですか。取り敢えず上がって下さい」

 明らかにいつもとは異なる、微妙に重苦しい空気を纏わせている友之に声をかけながら、沙織は密かに考え込んだ。


(何だろう? 妙にテンションが低い……。何となく想像は付くけど)

 そう思いつつ余計な事は言わずに沙織は珈琲を淹れ、彼用のマグカップにそれを注ぎ、ついでに用意していたチョコを小皿に乗せて彼の所に持って行った。


「どうぞ」

「……ありがとう」

 友之は礼を言って、すぐにマグカップを手にして珈琲を一口飲んだものの、チョコには見向きもせずに俯いたまま黙り込んだ。そのまま一分程経過してから、沙織が声をかけてみる。


「それで? 今日は何のお話ですか?」

「その……」

「はい」

「…………」

 しかし顔を上げて自分と真正面から向かい合った友之が、何やら後ろめたそうに視線を逸らして再び黙り込んだ為、沙織は少々苛つきながら話を進めた。


「あのですね……、友之さんは別れ話とかは、それなりに場数を踏んでいるんじゃ無いんですか? 別に短期間で別れるとか、私は別に気にしていませんけど?」

「いや、別れ話とかじゃ無い」

「それなら何ですか?」

 てっきりその類かと思っていた沙織は、当惑しながら尚も尋ねると、友之がは益々意味不明な事を言い出した。


「その……、かなり勝手な物言いに聞こえるだろうが、暫くの間、付き合いを保留にして貰いたいんだ」

「……はぁ? 何ですか、保留って?」

「…………」

 眉間に皺を寄せて問い返した彼女に、友之が再び黙り込む。しかしこのままでは話が進まないと判断した沙織は、何とか怒鳴り付けたい気持ちを押さえ込みながら確認を入れた。


「ええと……。要するに、一定期間付き合うのは止めるけど、それが過ぎたらよりを戻したいとか、そういう事を言っているわけですか?」

「ああ……、かなり勝手な事を言っている自覚は」

「それ以前に、全く意味が分かりません」

「…………」

 相手の弁解がましい台詞を、容赦なくぶった切った沙織は、本気で呆れ果てた。


(本当にらしくない……。何なの、この煮え切らなさ)

 ずるずると男女関係を引きずるようなタイプじゃ無かったのにと、沙織が友之に対して軽い怒りと幻滅を覚えながら睨み付けると、それを感じ取ったらしい彼は、再び居心地悪そうに視線を逸らした。しかし多少しょぼくれた姿を目にした位でほだされる様な沙織ではなく、毅然として言い返す。


「はっきり言わせて貰いますが、どう考えてもフェアじゃありませんよね? そっちが好き勝手してる間、こっちはおとなしく待ってろって事ですか? 冗談じゃありません」

「それはそうなんだが……」

「取り敢えず付き合いを止めるのは構いませんが、それ以降は私には構わないで下さい。友之さん以上に魅力的な人が出てきた時、私がその人と付き合っても、そっちからグダグダガタガタ言われる筋合いはありません」

 はっきりとそう断言されて、友之は神妙に頷いた。


「……分かった。尤もだ」

「それで? 他に何かお話があるんですか?」

「いや、他には無い。帰る。邪魔して悪かった」

 硬い表情で立ち上がった友之は、それでも律儀に頭を下げて玄関に向かった。そんな彼の後に無言で付いて行った沙織は、靴を履き終えた彼に向かって、冷静に確認を入れる。


「ところで課長、職場では今まで通りに接して頂けるんでしょうか?」

「勿論だ。公私混同をするつもりは無い」

 背中を向けたまま即答した友之は、それ以上余計な事は言わずに外に出て扉を閉めた。それを見送った沙織は、玄関に下りて施錠してからひとりごちる。


「……ちょっと苛めすぎたかな? でも説明も何も無しで一方的に保留って、どう考えても有り得ないわよ」

 ぶつぶつ呟きながらリビングに戻った沙織は、テーブルの上を片付けようとして、再び愚痴めいた呟きを漏らした。


「しかも全然気が付いて無かったのか、今から別れようって話をするのに洒落にならないからわざと手を付けなかったのか、一個も食べなかったし。結構高かったのに……。あ、そう言えば、これをどうしよう?」

 手つかずのチョコに続いて友之用に買ったマグカップに目を向けた沙織は、一瞬困った顔になったが、すぐに結論を出す。


「取り敢えず、洗ってしまっておこう。使いたかったら言って貰えれば、会社で渡せば良いしね。毎日顔を合わせているんだし」

 そして彼女はテーブル上の物を纏めて、キッチンへと運んで行った。

 同じ頃、マンションを出て歩道を歩き出した友之だったが、普段殆ど使っていないスマホが着信を知らせた為、それを取り出しながら憤怒の形相で吐き捨てた。


「よりにもよってこんな時に! つくづく人の神経を逆撫でする女だな!!」

 とてもまともに話のできる心境では無かった為、無視してやろうかと思った友之だったが、そこで予想外の声がかけられた。


「にゅあっ!」

「え? ……ジョニー?」

 自分の進行方向に、見覚えのある猫が後ろ足を道路に付けて座り込んでいるのを認めた友之は、思わず彼を凝視した。そして無言で自分を見上げてくる彼と、何秒か見つめ合った友之は、苦笑して相手に声をかける。


「……分かった。沙織に不快な思いをさせたから、きちんとする事をしてから、仕切り直しさせて貰う。それまで、彼女の事をよろしく」

「にゃっ!」

 すると言われた内容が分かったように、ジョニーは腰を上げて彼の横をすり抜け、マンションの敷地内の大木に駆け寄り、するするとその幹を上って行った。それを目撃した友之は、そこから一番手近なベランダに飛び移り、手摺を伝って沙織の部屋まで到達しているらしいと分かり、笑顔で呟く。


「猫にしてはなかなか骨があるし、物も分かっているらしい。彼女が惚れ込むのも分かるな」

 そこで深呼吸した彼は、一度切れた後に再度しつこく鳴り響き始めた問題のスマホを操作して、通話を始めた。


「はい、もしもし? 寧子さん、お待たせしてすみません。こんな時間にどうかしましたか?」

 その声はいつも通りの穏やかな物であったが、表情はそれとは対照的に、実に冷ややかな物だった。

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