(21)転機

「失礼します」

 仕事納めの翌日、電話で教えて貰った病院に出向いた友之は、念の為、受付で病室を確認してからそこに向かった。


「教授……」

 軽いノックの後、その個室に足を踏み入れた彼は、電話を受けてから想像していた以上に衰弱している、三年ぶりに再会した恩師の姿を認め、思わず絶句した。しかし彼の戸惑いを予想していた寺崎は、経鼻チューブや点滴の管を身体から伸ばしながら明るく笑う。


「久しぶりだな、松原君。元気そうで何よりだ。こっちは色々と、ガタがきてしまったが」

 室内には彼と同年輩の男性が一人と女性が二人存在し、彼らに促されて枕元に一番近い椅子に腰を下ろした友之は、何とか動揺を抑えながら恩師に話しかけた。


「教授が入院されている事を、妹さんから聞いて驚きました。いつからですか?」

「もう、半年位になるかな? 今回は、無理を言ってすまない。君の携帯番号の方は自宅のアドレス帳に控えてあったから、すぐに分かる自宅の方に連絡を入れて貰ったんだ。いきなり妹から自宅に電話が入って、当惑しただろう」

「確かに驚きましたが、教授が無駄な事をするとは思えません」

 真顔で友之が主張すると、ここで寺崎は少々茶化すように笑った。


「ところで松原君。私はもう教授ではなくて、元教授なんだが?」

「私にとって恩師と言う言葉に当てはまる方は、教授しかいらっしゃいませんので」

「相変わらず、変なところで融通が利かないな」

「ところでわざわざ連絡を下さったからには、私に何か至急か、もしくは重要な話があるのではありませんか?」

 苦笑した彼に、友之が探るように言い出すと、寺崎は笑いを消して歩く頷いてみせる。


「両方なのだが……、まずは皆を紹介しようか。そっちは妹二人で、右が貝田朝霞で、左が鳥栖弥生だ」

「初めまして」

 唐突に始まった紹介にも余計な口を挟まず、友之は女性達に向かって頭を下げた。彼女達も頷き返す中、友之とはベッドを挟んで反対側の椅子に座っている男性を、寺崎が紹介する。


「それから、私の長年の友人の、菅生幸信だ。弁護士をしている。実は彼は寧子とは遠縁で、彼に彼女と引き合わされたんだ」

「……そうでしたか」

 唐突に自身の汚点に繋がる名前が出てきた為、友之の心の中に苦い思いが沸き上がったが、彼は辛うじてそれを面に出さずに、紹介された相手に軽く頭を下げた。菅生も無言で頭を下げると、寺崎が取り成すように話を続ける。


「寧子が出て行ってからは彼女を親戚中で罵倒しまくって、私に合わせる顔がないから絶縁させて欲しいと言ってきたが、彼には全く責任は無いからな。あれ以降も、ずっと友人付き合いを続けている」

「だが私の妻が法事か何かの席で、彼が入院している事を不特定多数の人間に、喋ってしまったらしい。人伝に伝わって、あの最低女の耳にも入ったらしく、今頃になって寺崎に連絡を入れてきたんだ」

 盛大に顔を顰めながら菅生が言い出した内容を聞いて、友之も表情を険しくした。


「……彼女が? 何と言ってきたと?」

「恥知らずにも『彼とは別れた。あなたに酷い事をしたと、心から反省している。だからあなたのお世話をさせて欲しい』とか言ってきている」

「何を今更! あの後、教授がどれだけ学内で好奇の的になって、面目を潰したと思っている! ふざけるな!」

 寺崎の話を聞いて、思わず怒りに任せて吐き捨てた友之に、菅生は口調だけは穏やかに尋ねた。


「君が在学中の話で、大体の経緯を知っているそうだね」

「ええ、卒業を控えた時期に騒ぎを起こしてすまないと、教室の配属生徒全員に向かって、教授が頭を下げましたから。勿論、教授を責める人間など、誰一人としていませんでしたが」

 そこで寺崎が、唐突に口を挟んでくる。


「実は私は二ヶ月程前に、余命宣告を受けてね。あと半年ほどだと言われた。身体が駄目になっても、頭はしっかりしていて良かったよ。逆だったら目も当てられない」

「…………」

「それで、今まで清廉潔白に生きてきたつもりだから、最後の最後くらいちょっとした嫌がらせと意趣返しをしても、閻魔様はお目こぼししてくれるかと思うんだ」

「……教授?」

 いきなりの余命宣告にも驚いたが、寺崎が続けて微笑みながら口にした内容を聞いて、友之は困惑した表情になった。その反応が面白かったのか、寺崎が笑みを深めながら話を続ける。


「寧子と結婚していた当時、私が管理していた不動産は、介護老人保健施設に入っていた父の名義でね。七年前に父が亡くなった時、家を除く全てを妹達に相続させたんだ。私には妻子はいないから、その方が後々面倒が無いと思ってね。だが寧子は殆どを私が相続したと、勝手に思い込んでいるらしい。一度ここで顔を合わせた時、言葉の端々から『後の事は任せてくれ』と、色々滲み出ていたよ。私が長くない事も知っているみたいだから、尚更だな」

「ふざけるな……」

 怒りのあまり友之は歯ぎしりしたが、ここで菅生が予想外の事を言い出した。


「だが実際は、あの纏まった広さのある敷地の半分も、既に私が購入してそのままにしているだけだし、残りはリバースモーゲージ利用で、大学への纏まった寄付金の他、彼の生活費と治療費に充てているんだ」

「だから私が死んだ後、家や敷地を勝手に売却できない。借入金の返済に充てる現金も無いし、そのまま銀行に所有権が移る筈だ。私が君に手伝って欲しい事が、今の話だけで分かるかな?」

 まるで講義中に生徒に質問するような気軽さで、寺崎が問いかけると、友之が考えたのは一瞬だけで、すぐに不敵な笑みで応じた。


「なるほど……、そういう事ですか。お話は分かりました。それでは早急に、口が固くてこちらの意図を汲んでくれる、弁護士と司法書士を手配します。菅生さんは、妹さん側の代理人になって下さい。教授にはお子さんはいらっしゃいませんし、そうなると法定相続人は、配偶者の他は妹さん二人になりますよね?」

「ああ、そうなるな」

「いや、しかし松原君。君は何をする事になるか、本当に分かって言っているのか?」

 完全に自分の意を汲み取り、さくさくと話を進めた友之を見て、寺崎はできの良い生徒を褒めるように頷いたが、あっさり引き受ける返答をよこした彼に、菅生が狼狽気味に確認を入れた。しかし友之は、真剣な表情で頷く。


「勿論です。彼女に効率良く借金を背負わせる為に、どうしても誘導役が必要ですが、親戚筋でこれまで散々彼女を罵倒していたあなたが急に好意的に接したら、確実に疑念を抱かれます。それに下手をしたら法に抵触する可能性がある立ち回りを、弁護士のあなたにはさせられません」

「だが……、それを言ったら君も同じだろう。将来有望な若者に、危ない橋を渡らせるわけには……」

「教授を裏切って大恥をかかせた彼女に対して、未だに怒りを覚えているのは、あなた達だけではありません。私を信用して、諸々を任せて貰えませんか?」

 その真摯な訴えに菅生が反応する前に、これまで黙ってやり取りを聞いていた寺崎の妹達が、揃って友之に向かって頭を下げた。


「分かりました。松原さん、本来部外者のあなたにご迷惑をおかけしますが、宜しくお願いします」

「兄があなたなら、信用できると申しましたので。堅物の兄の最後の望みを叶える為に、お力を貸して下さい」

「勿論です。それでは連絡先の交換を。それから今後の方針が決まっているなら、教えて頂けますか?」

「ええ、構いません」

「それから、別れたとは口で言っていても、例の男とは籍を抜いただけで、実は今でも一緒にいるとか、それとは別の他の男が纏わりついて、入れ知恵している可能性も考えられます。そちらで特に調べていなければ、私の方で興信所に調査させますが」

 抜け目なく指摘してきた友之に、菅生も感嘆の表情を見せながら腹を括った。


「そこまでは、考えていなかったな……。私もまだまだ、考えが甘いらしい。分かった、宜しく頼むよ。そちらの費用は私が出すから、遠慮無く請求書を回してくれ」

「分かりました。すぐに手配します」

 そんな風に話が纏まった所で、寺崎が申し訳なさそうに声をかけてくる。


「すまないな、松原君。面倒をかけるが、君以上にあれと面識があって目端が利いて、秘密を厳守してくれそうな人間が思い当たらなくてね」

「先程も言いましたが、恩師と呼べるのは教授だけですから、声をかけて貰えて嬉しいです。後の事は任せて下さい」

「……ああ、宜しく頼むよ。やはり、こんな事を頼めるのは君だけだ」

 安堵の表情になった寺崎に友之も微笑み返し、それからは菅生と幾つかの事について意見を交わしてから、また見舞いに来る事を告げて、長居をせずに病室から辞去した。そして廊下を数歩歩いてから、何気無く友之が足を止め、今出て来たばかりの病室を振り返る。


「やはりあなたには、分かっていましたか?」

 何となく含みのある表情だった恩師の顔を思い出した友之は、無意識に呟いたが、すぐに気を取り直してその場を歩き去った。

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