(8)予想の範囲外の話

「当時、私が今住んでいるマンションで、親子で暮らしていたんですが、里帰り出産の予定だった母が臨月になったので、当時三歳の私と五歳の豊を連れて、名古屋の実家に戻ったんです。ですが、お気に入りのぬいぐるみと絵本を荷物に入れ忘れた私が、盛大にぐずってしまいまして……」

 そう言って溜め息を吐いた沙織を、友之は宥めた。


「三歳だし、それは仕方ないだろう。マンションに残っていた父親に頼んで、送って貰わなかったのか?」

「母が電話したんですが、上手く伝わらなかったみたいで。和洋さんは、普段私が使っているおもちゃや絵本に詳しく無かったですし。半分位は違う物を送ってしまったんです」

「……なるほど」

「それで私は更に大泣きしてしまったんですが、ただでさえ仕事をしながら一人で身の回りの事をしている和洋さんに、また余計な手間をかけるのは悪いと母が考えて、里帰りした翌週、私達を連れて家に戻ったんです」

 そこまで話を聞いた友之が、本気で首を傾げた。


「いい大人なんだし、二度か三度送る手間が、それほどかかるとも思えないんだが?」

「要はバカップルだったので、理由を付けて和洋さんの顔を見に行きたくなったんですよ」

「そうか……」

 友之は内心で(一週間もしないうちに、何だよそのバカップルは)と呆れたが、口には出さなかった。しかしそれを表情で読み取った沙織は、渋面になりながら話を続ける。


「和洋さんを驚かせようと考えて、事前に連絡せずに私達を連れてマンションに戻った母ですが、玄関で想定外の事態に遭遇しました」

「まさか子供連れの妊婦が、強盗に出くわしたとかじゃ無いよな?」

 瞬時に顔付きを険しくしながら尋ねてきた友之に、沙織は小さく首を振った。


「玄関に見慣れた靴と、見慣れない靴が脱いであったんです」

 それを聞いた友之は、先程とは違った意味で、顔を強張らせる。

「……まさか見慣れない靴って、女物の靴だったのか?」

「いえ、どちらも男物でした」

「驚かせるな。心臓に悪いぞ……」

 ぐったりとして勢い良く友之がグラスをあおった所で、次の料理が運ばれて来た為、再び話が中断したが、仲居が姿を消すと同時に、沙織がいつも通りの口調で話を再開した。


「てっきりお客様かと思った母は、リビングに行きましたが誰もおらず、まさか会社で具合が悪くなって、同僚の人に連れてきて貰って寝込んでいるのかと、慌てて寝室に向かいました」

「さっき、『想定外の事態』とか言っていたし、一之瀬氏は大丈夫だったのか?」

 急病で倒れたのかと心配そうな顔になった友之から、沙織は再び視線を逸らしながら口を開いた。


「……ええ、大丈夫でした。十分、元気でしたから」

「そうか。それは良かった」

「玄関の見慣れない靴の持ち主の男と二人、ベッドの上でやることやってましたので」

「…………は?」

 言われた内容を咄嗟に理解できず、友之は間抜けな顔で固まった。そんな彼を見てから深い溜め息を吐いた沙織が、益々平坦な声で続ける。


「後から聞いた話ですが……。本人曰わく、結婚してからは母一筋でしたが、元々バイだったそうです。それで妊娠中とはいえ、女性と浮気をするのは申し訳ないが、男が相手だったらまだ良いかと考えたとか」

「…………」

 そこまで聞いた友之は、無言で座卓に両肘を付いて頭を抱えた。そんな彼の様子を眺めた沙織が、冷静に声をかける。


「松原さん。私の父親ですが、はっきり口に出して言っても良いですよ? 見た目も頭も良くても、どうしようもない馬鹿で阿呆で残念な男なのは、誰から見ても確実ですから」

「コメントは差し控えるが……、一応聞いておく。その後、どうなったんだ?」

「素っ裸の男二人を見てみるみる無表情になった母は、無言のままそばにあった五段チェストを両手で持ち上げ、男達に向かって勢い良く投げつけました」

 そこで友之が勢い良く顔を上げ、声を荒げて問い質してきた。


「ちょっと待て! お母さんはその時、臨月だったんじゃないのか!?」

「色々、ブチ切れたでしょうから……。後から母が言っていました。『女相手に浮気をしていれば、まだマシだったし許せたものを』と……。『火事場の馬鹿力』って怖いですね」

「…………」

 もう何も言えずに溜め息を吐いた友之に対して、沙織は冷静に話を続けた。


「間一髪で和洋さんはチェストをかわしましたが、相手の男の頭に直撃して、その人はそのままベッドから床に転落して意識不明に。すると母は次にフロアスタンドライトの柄を掴み、その台座で和洋さんを滅多打ちにし始めました」

「おい! まさかお前、それを黙って傍観していたんじゃあるまいな!?」

 思わず非難がましい声を上げた友之に、沙織が弁解気味に説明する。


「傍観してはいなかったのですが……。目の前の光景が何が何やら分からないでいるうちに、豊に『じゃあ持って行くおもちゃや絵本を選ぼうか』と言われて子供部屋に誘導されて、ウキウキで選んでいました。三歳だったので……」

「そうだな……、三歳だしな……。すまん」

 当時の彼女の年齢を思い出した友之は、素直に頭を下げた。


「結局その間に豊が固定電話を使って、意識不明の浮気相手を搬送して貰う救急車を呼び、暴れている母を取り押さえる為に警察に通報し、自分達を迎えに来て貰えるように名古屋の母方の祖母に連絡し、最後に興奮し過ぎたのか予定日より早く産気づいた母の為の救急車を、もう一台呼びました」

 その子供とは思えない手際の良さに、友之が疑わしそうに確認を入れる。


「お兄さん……、当時五歳とか言っていなかったか?」

「その時以来、私から見ても、苦労性みたいです」

「心の底から同情する。五歳でそんな修羅場体験なんて……」

 沈痛な面持ちになった友之だったが、沙織はある意味いつも通りだった。


「その後は、あっという間でしたね。母はすっかり結婚前の氷の女に戻って、有無を言わせず協議離婚に持ち込み、以前の弁護士事務所に復帰してバリバリ働き始めました。そして私と豊に言ったんです。『あなた達のお父さんは死んで、もうこの世にはいない』と……」

「いや、お母さんの気持ちは分からないでも無いが、それは幾ら何でも」

「『だから時々会う、死んだお父さんに良く似た人は、「父親」でも「お父さん」でも「パパ」でもない全くの赤の他人だから、「一之瀬さん」と呼びなさい』と厳命されました」

「それって……」

 思わず顔を引き攣らせた友之に、沙織は深く頷いてみせる。


「はい。離婚はしたものの、和洋さんは子供との面会を、家庭裁判所からひと月に一度の頻度で認められていたんです。それで私、小さい頃……、とっても素直な、可愛い子供だったんですよ……」

 そこで急に、居心地悪そうに視線を逸らした彼女を見て、友之は過去に何があったのかを悟った。


「母親に刷り込まれた通り、一之瀬氏と顔を合わせる度に、頑として『お父さん』とか『パパ』とか呼ばず、笑顔で『一之瀬さん』と言っていたんだな?」

「そうです……。それでそれ以降、和洋さんと会う度に『お母さんは信奉者が一杯いるけど、一之瀬さんはいないよね?』とか、『お母さんは正義の味方だけど、一之瀬さんは単なるオタクなんだよね?』とか『お母さん家ではバサバサだけど、外ではキリッと美人だね。一之瀬さんはダサダサだね』とか、考えなしに笑顔で垂れ流し、その度に和洋さんが泣き崩れていたそうです」

「うん……。完全に部外者の俺が聞いても、結構酷いぞ?」

「それで某社の中間管理職だった父は『沙織、俺は正義の味方になってやるぞ!』と宣言して一念発起し、脱サラした挙げ句、当時まだ大して驚異とも思われていなかったサイバー攻撃に対抗する為のCSCを立ち上げ、忽ち業務規模を拡大して、今に至るわけです」

「設立当時は業界関係者から冷遇視されていたらしいが、今では『先見の明があった』とか『草分け的な存在』と持ち上げられているCSCは、実は別れた妻からの嫌がらせで、設立されたような物なのか……」

「『知らぬが仏』って、まさにこの事ですよね。そんな調子で何年か過ぎてから、豊から『いつも涙目になっててかなり可哀想だから、せめて名前で呼んでやれ。それからお前は、少し考えて喋れ。お前の笑顔は、たちの悪い凶器だ』と、懇々と説教されました」

「お兄さん……、本当に苦労性みたいだな」

 和洋と豊に友之が益々同情を深めていると、沙織が意外な事を言い出した。


「私には名前呼びされ、弟に至ってはどこかの知らない、どうでも良いおっさん扱いされていた父親を不憫に思ったのか、豊は大学卒業と同時に『親父が未だに独り身だから、仕方ないから全財産貰う代わりに、面倒見てやるよ』と宣言して、一ノ瀬の籍に入りました。元々プログラミング能力は抜きん出ていましたし、CSCに入社して今では役員になっています」

 それを聞いた友之は、疑わしそうに確認を入れた。


「……財産云々の所は、方便だよな?」

「半分は本気かと。そしてその途端、母が『あれとは親でも子でもないわ』と宣言し、私と弟に『兄』とか『兄さん』呼ばわりを禁止させたので、それ以降、和洋さんと同様に名前呼びをしています」

「良く分かった」

「因みにこの前、わざわざ会社まで豊が会いに来たのは、私に母の説得を頼みに来たんです」

「説得?」

 沙織が付け加えてきた内容に友之が首を傾げると、彼女は詳細について説明した。


「豊は先月入籍しまして、二ヶ月後に披露宴を行う予定ですが……。母が出席を拒んでいるんです。『あの恩知らずとは親子じゃ無いのに、どうしてそんな物に出なくちゃいけないの! 第一、あの野郎と肩を並べて座るなんて、死んでも御免だわ!』とはねつけていまして」

「離婚した母親だし、今は行き来が無いとか新婦側に言えば良いんじゃないのか?」

 そんな素朴な疑問を口にした友之に、沙織は残念そうに首を振ってみせた。


「豊が付き合ってる間に、大学までは母親の方の籍に入っていて、母がバリバリ現役で働いてるって話していたんです。だから『普通なら幾ら別れた相手が嫌いでも、息子の結婚式には出るだろう。元夫じゃなくて、よほど娘の事が気に入らないのか?』とお相手のご両親辺りが邪推して、相当心配しているそうなんです」

「難儀な事だな……」

 思わずうんざりとした顔で感想を述べると、沙織が真顔で付け足してくる。


「難儀と言えば……。親が離婚したと言うと、大抵の人はそこで話題を変えるんですが、五人に一人位の割合で、興味本位で突っ込んで聞いてくるんです」

「どこにも暇人は居るものだな」

「離婚の理由とか根掘り葉掘り聞かれても丸無視していたら、『そんなに隠すなんておかしいよね? 何か犯罪に関わって警察に捕まったからとか? お母さん弁護士なのに、結婚相手が犯罪者なんて、格好つかないもんね~。納得~』とかほざいてケラケラ笑った同級生をその場で叩きのめして、小学校に母が呼ばれました」

「それで色々面倒になって、以後は父親とは死別設定で通す事にしたと?」

「はい、その通りです」

「そうか……、諸々がもの凄く腑に落ちたし、良く分かった」

 疑惑や疑問は完全に明らかになったものの、頭を抱えるしかないこの顛末に、友之は盛大に溜め息を吐いた。

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