(7)予想の範囲内の話
その日沙織は、朝からうんざりしながら、最寄駅から職場への道を歩いていた。
(昨日は和洋さんが大泣きして、なかなか離してくれなくて大変だったわ。追い出すまでに時間がかかって、すっかり寝不足だし。もう本当に、どうしてくれるのよ……)
心の中でそんな恨み言を呟いていると、由良が横に並びながら、沙織とは雲泥の差の元気の良い声で挨拶してくる。
「おはよう、沙織!」
「ああ、おはよう、由良……」
「何? やっぱり具合悪いの? 昨日も何回かメールしたのに、全然応答が無かったし」
不思議そうに首を傾げた由良を見て、沙織は慌てて自分のスマホを取り出した。
「え? あ、ごめん。昨夜はちょっと色々あって。至急の用事だった?」
「そこまで、急ぎじゃ無かったけど。今度の休みに、一緒に映画に行く約束だったでしょ?」
「ああ、あれね? それなら……、げっ!」
「……いきなり何よ。変な声を出して」
急いでメールの着信記録を呼び出してみた沙織は、由良以上に何度も送信してきて、ずらりと並んだ友之の名前を見て眩暈を覚えた。
「やらかした……」
「だから何を?」
がっくりと項垂れた友人を、由良は益々怪訝な顔で見やったが、そんな視線に気が付かないまま沙織は素早く考えを巡らせた。
(和洋さんにかまけて、松原さんに諸々の事情を説明するのを、すっかり忘れてた……。うわ、どうしよう! って……、もうこれはどうしようも無いよね。メールで済ませずに、まずは朝一番で頭を下げておこう)
そう決意した沙織は、これからする事の段取りを頭の中で考えつつ、硬い表情で職場に足を踏み入れた。
「……おはようございます」
「おう、おはよう、関本」
「おはようございます、先輩」
(うっ……、課長、もう出社してる。見た感じは、いつも通りだけど……。本当に和洋さんに殴られた所が、腫れたりしなくて良かった! もし万が一、そんな事態になってたら、《愛でる会》メンバーから物理的心理的にフルボッコだから!)
同僚達と挨拶を交わしながら自分の席に進むと、既に友之が席に着いて何かの書類に目を通しているのを確認した沙織は、動揺しつつも密かに胸を撫で下ろした。そして机の上にあったメモ用紙を引き寄せて、手早くとある店の名前と時間を書き込むと、それを手にして真っ直ぐ課長席に向かう。
「課長、おはようございます」
沙織がそう声をかけた瞬間、顔を上げた友之との間に、微妙な緊張感が発生する。
「……ああ、おはよう」
「その……、昨日は色々取り込んでおりまして、お返事が遅れて申し訳ございませんでした」
そこで沙織が深々と頭を下げ、遠巻きに眺めていた同僚達が「何事だ?」と視線を向けてくる中、友之が冷静に彼女を宥める。
「ああ……、いや。取り込み中だろうとは思ったし、就業時間外だし気にするな」
「そうですか。それで、諸々について詳細を説明する機会を設けたいので、こちらを検討して頂けないかと思いまして」
そう言いながら沙織が差し出したメモ用紙を受け取り、それを一瞥した彼は、周囲の目もあり重々しく頷いた。
「……分かった。これで進めてくれ。そちらに任せる」
「了解しました。それでは失礼します」
再び一礼し、傍目には業務連絡っぽいやり取りを終えた沙織が席に戻ると、隣の席から佐々木が囁いてくる。
「先輩? 何だか深刻そうな顔で、課長と話をしていましたが、俺、何か失敗をしましたか?」
「ううん、佐々木君には関係ないから、安心して頂戴」
「でも……、関本先輩が、そんな面倒な失敗をするとも思えませんし……」
「本当に大丈夫だから、気にしないで。さあ、ほら、仕事仕事」
「……はい」
釈然としない顔の佐々木を何とか宥めて仕事に取りかかった沙織だったが、いつも通り手を動かしながらも、内心では腹を立てていた。
(あれは完全にプライベートだし、確かに色々ごまかしてた私も悪いけど……。でも殆どは松原さんと、和洋さんのせいだよね!? もうどうしてくれるの、この気まずい空気!)
沙織は時折友之の顔色を気にしながら、神経をすり減らしつつその日一日の勤務を終えた。
「悪い、遅くなった」
「いえ、私も少し前に来たばかりですので」
指定した時間に遅れる事十分で、友之が会社からさほど離れて居ない日本料理店の個室に姿を現した為、沙織は座るように勧めつつ、案内してきた仲居に料理を出して貰うように頼んだ。その彼女が下がって室内に二人きりになった途端、友之が深々と頭を下げる。
「その……、悪かったな。わざわざ個室を押さえて貰って。ここの支払いは俺がするから」
「平日でしたから予約を入れるのには支障はありませんでしたし、お詫びも兼ねているので私が支払います」
「いや、しかしだな。俺はとんでもない勘違いをした挙げ句に、あんな暴挙に及んだわけだし」
「それを言ったら、先に問答無用で手を出したのは父ですから」
「そうは言っても」
「失礼致します」
「…………」
押し問答になりかけたところで先程の仲居が戻り、酒とお通しなど二人分を手早く並べていく。そして彼女が一礼して襖の向こうに姿を消してから、沙織が真顔で申し出た。
「取り敢えず謝罪はここまでにして、話を進めませんか?」
「……それもそうだな」
そこで二人は取り敢えず軽く乾杯し、沙織が一口飲んで喉を潤してから、淡々と説明を始めた。
「それではまず事実関係から言いますと、昨夜マンションに来たのは私の父親で、あの部屋の所有者です」
「CSC取締役社長の、一之瀬和洋氏だな」
「調べましたか?」
すかさず友之が答えた為、沙織は少々驚きながら尋ねると、彼は続けて問いを発した。
「一応な。因みにこの前、会社のエントランスで、関本にプレゼントを渡していたのは……」
「兄の一之瀬豊です。CSCに勤務しています」
それを聞いた友之が、盛大な溜め息を吐いて項垂れる。
「うん、やっぱりな。死んだと聞いていた父親が現れたから、何となくそんな気はしていたんだ。……それで?」
「ちょっと待って頂けますか? 呼吸を整えて、気合いを入れますので」
「ああ……」
ちょうどそこで、再び仲居が料理を運んで来た為、友之はおとなしく口を閉ざし、沙織は小さなグラスに入っていた酒を一気に飲み干した。そして再び室内に二人きりになってから、重々しい口調で語り出す。
「三十何年か前の事になりますが……、コンピューター馬鹿の男と杓子定規な頭でっかちの女が、とある場所で予想外の出会いを果たし、忽ち恋に落ちました。当時の二人を知る人間は、今でも口を揃えてこう言います。『本当に見ているだけでウザい、どうしようもないバカップルだった』と……」
そこまで言って、再び手酌で一杯飲んだ沙織に、友之は慎重に確認を入れた。
「……その二人が、関本の両親だよな?」
「はい。結婚して六年程は、順風満帆でした。兄と私が生まれて、家事育児に専念したいからと、仕事一筋だった母が弁護士事務所を退職した位ですから。そして母が弟を妊娠中に、事件が起こりました」
それを聞いた友之が、僅かに渋面になる。
「事件って……、穏やかでは無いな。喧嘩とかではなくてか?」
「辛うじて刑事事件にはならずに、示談で終わったので……。喧嘩と言っても良いかもしれませんね」
「…………」
物騒過ぎる台詞に、友之が何事があったのかとおののいていると、そんな彼の顔をチラリと見た沙織は、微妙に彼から視線を逸らしながら話を続けた。
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