(35)決着
翌日、一日もやもやした気持ちを抱えつつ仕事をこなしていた沙織は、定時を過ぎて腰を上げた。
(さて、松原さんの言う通り、一人で外に出てみたものの……。うん、おまけ付きだけどね)
友之に加え、どうしても様子を見ると頑張った佐々木を引き連れ、社屋ビルを出た沙織は、二人の前方を前日同様一人で歩き始めた。すると苛立たしげに叫びながら、その行く手を翔が遮る。
「おい、沙織! 今日こそは連絡先を教えろ!」
しかし沙織は傷一つ無い翔を見て、不思議そうに問い返した。
「あれ? あんたピンピンしてるじゃない。昨日の人達に、何もされてないの?」
「何言ってんだ? 昨日って何だよ?」
(ちっ! 課長の従兄弟なのに使えない……。あの男、何やってんのよ)
訝しげに言い返した翔を見て、沙織は心の中で悪態を吐いたが、すぐにそれを撤回する事になった。
「沙織、さっさと、ぐあっ!」
「……え? 急に何?」
沙織の腕を掴んで恫喝しようとした翔だったが、掴んだ瞬間いきなり呻き声を上げて両手で頭を抱えた。それを見て目を丸くした沙織だったが、翔がなおも手を伸ばして彼女の腕を掴む。
「ちょっと頭痛がしただけだ! だから連絡先を、ぐおぉっ!」
しかし再びすぐに腕を離し、頭を抱えてしゃがみ込んだ翔を、沙織は怪訝な顔で見下ろした。
「……何? あんた変な病気持ちだったの?」
「何で俺が病気持ちなんだよ! いいからさっさと、ぎえぇっ!」
腹を立てながら、沙織の足を掴んだ翔だったが、その瞬間悲鳴じみた声を上げてすぐに手を離した。ここで完全に状況を把握した沙織は、余裕の笑みを浮かべながら確認してみる。
「……要するに? あんた私に触ると、頭が割れるように痛くなるとか?」
「そんなわけあるか!」
「じゃあこうすれば、どうなのかな?」
「いででででっ! 離せぇぇっ!」
勢い良く沙織が翔の肩を掴んでみると、彼は顔色を変えてその手を振り払った。それで確信した沙織は、薄笑いを浮かべる。
「うわ……、面白い。前言撤回。従兄弟さん、良い仕事してるわ。……佐々木君! 大至急、こいつを確保して!」
「了解しました!」
即座に方針を決めた沙織は、背後を振り返ってそちらの方角にいる筈の佐々木に向かって声を張り上げた。すると雑踏の中から佐々木が現れ、俊足を活かして立ち上がった翔の背後に素早く回り込み、羽交い締めにする。
「あ、おい! 何するんだ、お前!? 沙織、何する気だ!?」
「ふっ、あんたのせいで、私がどれだけ迷惑を被ったと思ってんのよ。ここで纏めて憂さを晴らしてやろうじゃない! まずはこうだ!」
「ぐああぁぁっ! や、止めろぉぉっ!」
沙織が正面から翔の額を鷲掴みにした途端、翔が悲鳴を上げ、佐々木は彼を捕まえながら面食らった。
「先輩? 何やってるんですか? それにこいつ、どうして嫌がってるんです?」
「何だかこいつ、私に触ったり触られたりすると、猛烈に頭が痛くなるらしいのよね」
ニヤリと笑いながら沙織が説明すると、佐々木は同様の笑いを返した。
「なるほど……。それでは先輩。思う存分やってしまって下さい」
「言われなくても! 食らえぇぇっ!」
「うひゃぁあぁぁっ!」
両手で翔の頬を摘まみ、盛大に左右に伸ばした途端、翔から情けない悲鳴が上がる。
「これならどうだ!」
「ぐほぉあっ!」
「へえぇ? 足で踏まれても駄目なんだ。面白過ぎる! よし、次いくぞ!?」
「ぐあぁああっ!」
「ふはははは、天誅! 思い知ったか、ヒモ野郎!! 正義は勝つ!!」
沙織が足で翔の足を盛大に踏みつけた挙げ句、翔の腹に靴の底を押し付けてぐりぐりとえぐり、翔の悲鳴と佐々木の高笑いが響き渡っている光景を見て、さすがに傍観できなかった友之が、姿を現して制止した。
「関本、佐々木、もう止めておけ。どう見てもお前達が二人掛かりで、こいつをいたぶってるようにしか見えん」
「えぇ? そんな事無いわよね、佐々木君?」
「はい、そんな事ありませんよ、課長」
「……取り敢えず、警察が来たから止めろ」
至近距離にパトカーが停まり、降りた警官がまっすぐ自分達の方に向かって来ているのを確認した友之が、再度言い聞かせた。それを見た二人は、不承不承翔から離れる。
すると歩道にへたり込んだ翔に、やって来た警官の一人が声をかけた。
「おい、お前。名前は桐生翔で間違いないな?」
それを聞いた翔は、勢い良く顔を上げながら警官達に訴えた。
「そうだよ! それよりこいつらを、捕まえてくれよ! こいつら俺を、今まで散々いたぶって!」
「桐生翔。横領罪の容疑で逮捕する」
「身柄確保。現在時刻、十八時十五分。さあ、行くぞ」
「はぁ? 横領って何だよ!? おい! 俺は知らねぇぞ!?」
いきなり問答無用で手錠をかけられた翔は仰天したが、警官達は構わずに彼を引きずってパトカーに押し込み、走り去って行った。
「どういう事ですか?」
呆然としながら見送った沙織と佐々木が、事情を知っていそうな友之に尋ねると、彼は溜め息を吐いてから説明してきた。
「奴が解雇される原因になった、横領事件。実際に経理操作をした女性は業務上横領の罪に問われるが、直接奴の口座に振り込んでいて、弁済能力は無い」
「それはそうですよね」
「会社側も事件化する事に二の足を踏んでいたが、正式に被害届を警察に提出する事にしたらしい。奴には犯罪教唆の面からも、罪が問えると弁護士が入れ知恵したらしいな。身内から犯罪者を出したくない実家辺りに話を持ち込んで、そこが金を出して、何とか示談に持ち込むんじゃないか?」
それを聞いた沙織が、慎重に確認を入れた。
「それ……、例の従兄弟さんが手配したんですか?」
「ああ。会社側に働きかけつつ、奴がここに現れたタイミングで警察に情報を流したそうだ」
「因みに……、奴が変な頭痛持ちになっていた理由は……」
「昨日催眠術をかけた上で、昨日遭遇した事実自体を記憶から消したそうだ」
大真面目にそんな事を言われてしまった沙織は、思わず遠い目をしてしまった。
「……物騒な従兄弟さんですね」
「俺もあまり、借りは作りたくない相手だ」
「でも関本先輩に触っても触られても酷い頭痛持ちになったなら、今後間違っても纏わり付けませんよね!? さすが課長のご親戚です!」
「うん、そうね……」
「確かに一切、手抜きは無いな……」
嬉々として頷いた佐々木と別れ、沙織と友之は一緒に帰宅の途についた。
「色々ご迷惑おかけしましたが、これでマンションに帰れます。ありがとうございました。明日にも戻りますので」
電車に乗り込んでから沙織が改めて礼を述べると、友之が変な顔になった。
「戻る? 明日?」
「はい。奴が捕まりましたし、それ以前にあんな変な体質になったのなら、私に近寄る筈もありませんし」
「ああ……、それはそうなんだが……」
「どうかしましたか?」
何やら煮え切らない返答の友之に、沙織が不思議そうに問い返すと、彼は弁解がましく言ってきた。
「その……、関本が来てくれてから、毎日両親が機嫌が良いし、お前の面白い一面が分かって楽しく過ごしていたし、何も急いで帰らなくても、週末までいるとか」
「長々とマンションを空けてしまったので、ジョニーに愛想を尽かされていないか心配なので」
「……そうか。そう言えばジョニーは、俺とは比べものにならないイケネコだったな」
微妙に自分から目を逸らし、哀愁を漂わせ始めた友之を見上げて、沙織は少々焦った声を上げた。
「え? 別に、松原さんが落ち込む事はありませんよね? 松原さんはジョニーとは違って、立派な胸筋腹筋背筋の持ち主ですし」
「そうか……。俺は所詮、顔と身体だけの男か……」
「いえいえ、仕事も気配りもできる、自慢の上司ですから!」
「それなら、ジョニーが待っているマンションと、俺の家のどちら」
「マンションです」
きっぱりと断言した沙織に、友之は吊革に掴まりながらがっくりと項垂れた。
「……せめて最後まで質問を言わせろ」
「ああっ、すみません! 本当に悪気は無かったんですが、あまりにも明確な答えだったもので!」
「お前、本当に容赦ないな……」
益々焦る沙織を見ながら、友之はそれ以上無理に引き止める言葉を口にできず、苦笑する事しかできなかった。
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