(23)お呼びじゃない男

「ヨリを戻そうとか何とか、勝手にも程がある寝言を言っていましたが」

 それを聞いた友之は、はっきりと顔を顰めた。

「一応、確認しておくが……。関本にその気はあるのか?」

「あるわけありません」

 そう明言した沙織に頷いてから、友之が素朴な疑問を口にした。


「因みに、どうしてその男がここに来た? 普通から、まず本人に連絡を入れないか?」

「私の職場は知ってましたが、住所は知らないからではないでしょうか? それに去年色々あって、電話番号もメルアドも変更しましたから。仕事上での登録内容はすぐに変更しましたし、プライベートで付き合いのある人間には変更後の物を伝えましたが」

「それは分かったが……、その男は、どうして住所を知らないんだ?」

「付き合い始めて五日で別れたので、教えていませんでした」

「それは付き合っていた範疇に入るのか? と言うか、以前その話を聞いた時は、半分冗談かと思っていたんだが……」

 思わず額を押さえて友之が呻いたところで、先程飛び出して行った佐々木が暗い表情で戻ってきた。


「あ、戻って来た」

「全く、職場放棄とはいい度胸だな」

「佐々木どうした。何だか顔色が良くないみたいだが」

 何気なく友之が尋ねてみると、佐々木はボソッと呟いた。


「……ってました」

「何だ?」

「佐々木君。今、何て言ったの?」

「姉が……、結婚詐欺の被害に……」

「……え?」

 途端に周囲が静まり返る中、佐々木が沈鬱な表情で状況を語った。


「俺に心配かけないように、姉ちゃんが実家の両親に口止めさせていたそうで……。俺が騙されてないかどうか聞いたら、その事を姉ちゃんから聞いたのかと勘違いした母が、口を割りました……。姉ちゃんが、結婚資金にってコツコツ貯めてた金っ……。ちくしょうぅぅっ!! 姉ちゃん騙したろくでなし野郎、ぶっ殺してやるぅぅっ!! 姉ちゃんが可哀想だぁぁっ!!」

 そう叫ぶなり床に崩れ落ちるように四つん這いになり、号泣し始めた彼を見て、周囲は呆気に取られて困惑した。


「おい……、これ、どうするよ?」

「どうするって言われても……」

「佐々木君って姉弟仲が良いのね。ちょっと羨ましいわ。私には一人弟がいるけど、あいつったら人の生き死にに関わる事位しか、連絡を寄越さなくて……。あれ? 本当に一人暮らしを始めてから、あいつの方から連絡寄越したのって、地元で大叔父さんが亡くなった時と、仲の良い従姉が出産した時だけかも……。え? それってどうなの?」

 佐々木の横に膝を付いて座り込み、宥めようとして自問自答を始めてしまった沙織を見て、朝永達は叱りつけた。


「関本! 全然フォローになってないぞ!」

「お前、真顔で考え込んでないで、最後まで佐々木を宥めろよ!」

 そこで佐々木は勢い良く上半身を起こして沙織の両肩を掴み、未だ豪快に涙を零しながら必死の形相で訴えた。


「先輩! 先輩は、駄目男なんかに付け込まれたりしたら駄目ですよ!! 『家賃滞納して追い出されて困ってるんだ~』なんて言われて、『困ってるなら仕方ないわね』とか言って、家に入れたりしたら駄目ですからね!? 分かってますか!?」

「しないから。そんな心配要らないから、少し落ち着こうか」

 そんな二人の周りで、集まってきた同僚達が囁き合う。


「……察するに、佐々木の姉さんがそう言われて、男に転がり込まれたのか」

「生活費を全額出させた上、身の回りの事を全てやらせた挙句に、結婚資金を持ち逃げって流れですかね?」

「本当に、最低野郎だな」

「佐々木が錯乱する気持ちも分かるが……」

「先輩! 本当に、本っ当に大丈夫ですか!?」

「くどい! もういい加減正気に戻って、仕事にも戻りなさい!!」

 とうとう我慢の限界に達した沙織は、佐々木の両肩を掴み返しながら盛大に揺さぶり、大声で叱責した。そして何とか涙を拭きつつ机に戻った佐々木に事務処理を言いつけてから、沙織は鞄の中から書類を取り出して課長席に向かった。


「先程はお騒がせして、申し訳ありませんでした。こちらが、本日締結してきました契約書になります。確認をお願いします」

 そう言いながら沙織が差し出した物を、既に席に戻っていた友之は何事も無かったように受け取りながら、さり気なく問いかけた。


「分かった、預かっておく。……ところで関本、ちょっとプライベートな事を尋ねても良いか?」

「内容にもよりますが」

「さっき話に出ていた、絡んできた元カレ。自由業なのか?」

 その予想外の質問に、沙織は一瞬戸惑った。


「……え? いえ、普通のサラリーマンですが」

「因みに、絡んできた時の服装は? ビジネススーツだったか?」

「はぁ? 服装……、いえ、普通の私服でしたが……」

「職場の休みはどうだった? ローテーションで平日休みなのか?」

「普通に、土日祝日だった筈ですが……。それがどうかしましたか?」

 立て続けに問われた内容の意味が分からず、沙織は本気で戸惑ったが、友之は難しい顔のまま考え込んだ。


「ちょっと気になったんだ。関本が絡まれた時間は、普通の会社員なら就業時間内の筈だろう? 現に今も退社時間が近いが、れっきとした就業時間内だ。それなのに、どうして私服でフラフラ出歩いているのかと思ってな」

「偶々平日に、休日出勤の代休を取ったとかでしょうか?」

「普通に考えれば、そうなんだがな……」

 それらしい推測を口にした沙織に、友之は一応頷きながらも、どこか納得しかねる顔付きで考え込んだ。そのまま彼が黙り込んでいる為、沙織は控え目にお伺いを立ててみる。


「あの……、課長。お話はそれだけでしょうか?」

 それで我に返ったらしい友之は、机上にあったメモ用紙を引き寄せた。


「悪い。一応、その男の名前と、勤務先と所属部署を教えてくれ」

「はぁ、構いませんが……。名前は桐生翔、勤務先は中林総合企画の営業部です」

「そうか、分かった。もう戻っていいぞ」

「はい、失礼します」

 素早く書きとめてから友之は声をかけ、それを機に沙織は一礼して自分の席に戻った。


(何だろう? 佐々木君だけじゃなくて、課長まで心配性なのかしら? あいつとは無関係なんだから、別に問題になる筈無いのに)

 釈然としないまま席で報告書の取り纏めにかかった沙織だったが、そんな彼女に時折目を向けながら、友之は密かに苛ついていた。


(余計な心配だとは思うが、妙に引っかかるしな。しかし関本は何でまた、そんな変な男と五日間とは言え、付き合っていたんだか。妙な所で脇が甘くないか? それに佐々木の台詞では無いが、どうして職場の男には見向きもしないで、そんな軽そうな男と付き合うのか……。自惚れているわけでは無いが、理解できないぞ)

 そんな事を考えながら、友之は憮然とした表情で残りの勤務時間を過ごした。



 その日、無事に帰宅し、マンションのエントランスで自動ドアのロックを解除しようと鍵を取り出している最中に、沙織は忌々しい事を思い出して溜め息を吐いた。

(今日は契約が成立して、清々しい気持ちで帰って来れる筈だったのに、あの馬鹿のせいで台無しだわ。さっさと寝よう)

 そんな事を考えて鍵を手にしたところで、背後から明るい声が聞こえてくる。


「やっぱり一流企業に勤めてる奴は違うよな。こんな立派なマンションに住んでるなんて」

 その聞き覚えのある声に、沙織が素早く振り返ると、予想通り翔の姿を認めて盛大に顔を顰めた。


「はぁ? ……あんた何でここに居るのよ?」

「ここって、単身者用じゃなくて、家族向けの分譲マンションだよな? それなら部屋は余ってるだろうし、俺が居ても支障ないな。いやぁ、助かったよ」

「こっちの質問に、答えていないんですが? 私の後を付けて来たわけ?」

 相変わらず通じない会話に本気で苛つきながら彼女が睨み返すと、翔はヘラヘラと笑いながら恩着せがましく言い放った。


「だってお前、付き合ってた時も恥ずかしがって、住んでる所を言わなかったし? まあ、やっぱり女の一人暮らしだと色々物騒だから、俺が面倒見てやるよ」

「……確かに、変なのに絡まれているわね。さっさと帰ってくれない? 警察呼ぶわよ?」

「何だよ。俺と沙織の仲じゃないか。さっさと中に入れてくれよ。マンスリーマンションだと、寝るだけのスペースでさ。ゆったりくつろげないんだよな」

「アホか。タコツボに入って丸まってろ」

 冷たく言い切った沙織だったが、ここで翔が嫌らしく笑いながら彼女の腕を掴んだ。


「はっ、そんな意地っ張りのところもなかなか可愛いと言えば可愛いよな」

「ちょっと! 離しなさいよ!」

「いいからさっさと中に」

「君は何をやっているんだ?」

「は? 何だよおっさん? 邪魔すんな、いってぇ!!」

 そこで不機嫌そうな男性の声がかけられた為、翔は振り返って恫喝しようとしたが、その隙に沙織が勢い良く彼の脛を蹴り付けた。その痛みに翔が思わず沙織から手を離し、足を押さえて蹲ると、沙織は和洋に歩み寄りながら丁重に頭を下げた。


「あ、一ノ瀬さん。ご苦労様です。今お帰りですか? この前はお裾分けを、どうもありがとうございました。隣だからっていつも奥様から美味しい物を頂きまして、恐縮しております」

(こいつに知られたら色々面倒だから、話を合わせてよ!?)

 沙織が目で訴えると、彼は少し驚いた表情になったものの、すぐに彼女の話に合わせた。


「いえ、子供達も独立して、貰った物を持て余す事が多いので、こちらも助かっています。妻もまた新作料理をご馳走したいと言っておりますので、ご遠慮なくどうぞ」

「ありがとうございます。またお邪魔させて頂きますね?」

「ところで関本さん。先程こちらの方と揉めておられた様ですが、警察を呼びますか?」

 しっかり近所付き合いがある隣人とアピールしてから、自分を見下ろしながら冷たく尋ねた和洋に、翔は立ち上がりつつ虚勢を張った。


「はっ! オッサン、何言ってんだよ! 警察は民事不介入なんだぜ?」

「君は民事不介入の意味を、何やら取り違えているようだな。個人間の私的係争の範囲内では、確かに警察は積極的に関与しないかもしれないが、警告や事情聴取なども一切しないという事ではない。現に今、君は明らかに、このマンションの共有スペースに住人を脅迫暴行の上、不法侵入しようとしている。これはここの住人全体に対する不利益行為で、私はそれを阻止する権利がある」

 大真面目に和洋が述べた内容に、翔は若干怯みながらも、尚も抵抗した。


「はっ、何馬鹿な事言ってんだよ! ちょっとこいつと揉めてただけだろう?」

「そう言うなら警察を呼んで、どちらの主張が正しいか、はっきりさせようじゃないか。私もそれなりに、社会的地位を持つ人間でね。事を曖昧にはしたく無い」

 暗に「取るに足らん貴様の主張など、誰もまともに取らん」と脅しをかけつつ、彼がスマホを取り出すと、翔は忌々し気に舌打ちして踵を返した。


「頭の固いじじいだな! 沙織! 近所付き合いはもう少し選んだ方が良いぞ!!」

「そんな事、あんたに言われる筋合いは無いわよ!」

 罵声に沙織は怒鳴り返したが、その姿が見えなくなってから和洋に向き直って礼を述べた。


「和洋さん、咄嗟に話を合わせてくれてありがとう。助かったわ。説明するのが色々面倒だし、あんなのに知られたら、どこにどう広まるか分からないし」

「それは構わないが、一体どういう事だ?」

 そして解除した自動ドアの奥に二人で進みながら、沙織は憤慨しつつ夕方からの出来事について詳細を語った。

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