夢破れた男の話

星彼方

夢破れた男の話


「これで勝ったら決勝、これで勝ったら決勝……頑張れよ俺、まだいけるぜ」


 俺は呪文のように呟き、震える手に力を込める。観客の歓声を耳から排除し、嘶く馬を手綱を引いて首を叩いて諌めると、きっさきを潰した重たい槍を真っ直ぐに構えた。

 視線の先にいる相手は、若く勢いのある立派な警務騎士だ。一方俺は、うだつの上がらない片田舎の自警団員であり、四十代の立派なおっさんだった。

 そんな俺が何故馬上槍試合に参加しているのかというと、ちゃんとした理由がある。栄光とか名誉とかそういう青臭いもんじゃなく、汚く言えば賞金が欲しいのだ。

 地方都市のダーセルで行なわれている祭りの呼び物の一つに『馬上槍試合』があった。金を必要としていた俺は、その優勝賞金に目を付けた。それだけの話だ。

 賞金五十万ゼールと言えば庶民にとっては大金であり、この金が有りさえすれば悩み事が吹っ飛んでお釣りが出るくらいだったのだ。幸いダーセル市民でなくとも参加は可能であったので、これしかないと考えた俺は一も二もなく参加することにした。

 とはいえ、馬上槍試合なんて一般市民が簡単に参加できるものではない。しかし俺は一般市民ではなく自警団員だ。さらに言えば、七年前まで皇都の警務騎士団で腕利きの騎士としてその名を轟かせていた過去があり、馬上槍試合はお手の物というわけだった。


(あと二勝すれば)


 中央の審判が赤い旗を振り上げ、俺と相手を交互に見る。相手の名前が読み上げられた途端に歓声が上がったことから、人気のある騎士なのだろう。俺はトット町というど田舎の自警団員なので、歓声すらわかない。

 それで結構、声援など不要だ。


 会場が静まりかえる中、俺は審判の旗に集中し –––– そして赤い布が縦に振り下ろされた。


 ◇◇◇


 俺の名前はマイク・ターナー。今年で四十三歳になるしがない田舎の自警団員だ。身長はそこそこあるが、年と共についた背中の贅肉と、最近ぽっこり出てきた腹がまごうことなき中年のおっさんである。目尻の皺や豊麗線、剃るのも面倒なあご髭も中年ということを強調していた。当然未婚だ。酒に煙草に何でもござれとばかりの堕落した生活の所為なのか、場末の女すら近寄ってこない有り様だった。

 だが、この生活に不満はない。

 皇都で騎士をしていた頃の、潔癖なくらいに騎士然とした生活から解放されて清々していた。身なりに気をつけなくてもいいし、言葉遣いだって自由だ。好きな時に煙草も吸える。靴に泥がついたくらいで怒られることもない本当にいい仕事なのだ。平和な町を巡回して茶を飲んで、じいさんとばあさんの世間話に相づちを打ってりゃいいなんて、何てやすい仕事だろうか。

 いや、本当は不満はあるのだ。

 騎士への未練は俺の中に確かにあった。しかし栄光の時代は大怪我の所為で終わりを告げ、俺は逃げるように生まれ故郷のトット町に戻って来た。

 安い貸し部屋に篭ったきりで、太陽の光すらろくに浴びない自堕落な生活。見る間にだらしない身体の、立派なおっさんの出来上がりだ。まあ、そんな生活も、隣の小綺麗な貸し部屋に住むお節介な女の所為で終わりを告げ、まんまと自警団に就職させられてしまったのだが。


 たまにふらりと買い物に行き、煙草と酒とつまみを買い込んでは引き篭もるようにしてずるずるとゆるい生活を続けていた俺の部屋に、「煙草臭いから窓を開けるな」と突然怒鳴り込んできた女がいた。そいつはトット中央商店街に洋裁店を構える三十代のおばさんだった。飾り気のない服は自作の服らしいが、それがまたおばさんに拍車をかけており、丸い眼鏡がこれまたダサい。髪はひっつめていて、俺と同じような目尻の小皺と眉間にある深い縦皺が年齢を物語っていた。

 ガンガンと玄関戸を叩く中肉中背の中年女は、俺の姿を一瞥いちべつすると「煙草を吸うなら窓を開けるな」とのたまわれた。「煙いから窓を開けるんだろうが」と俺が言えば、「商品が煙草の臭いで駄目になるから弁償しろ」とまで言う始末だ。


「はいはいわかりましたよ、窓を閉めりゃあいいんだろ? その代わりお前のところも窓を閉めておけよ、平等だ」

「何よ、その言い方は。見たところ働きもしないでダラダラとだらしないったらありゃしない。この町の住人なら町の為に働きなさいよね。騎士だったんでしょ? 自警団員の成り手がなくてみんなが困ってるの、知らないわけじゃないわよね? あたしに文句が言いたきゃ働いてからにするんだね!」

「何だとこの、てめぇはそんなに偉いのかよ⁉︎」

「あんたより偉いわよ。私は立派に働いてるもの。あんたは何だい、騎士が無理だってだけで手足はぴんぴんしてるんだろ?」

「うるせぇっ! 帰んな、二度と来るなよ」


 という最悪な初対面の後、散々脅したはずの女は二日と開けずやってきた。口を開けば自警団自警団とうるさい女は、名前をハンナ・スミスと言った。俺と同じく田舎臭い名前のハンナは『商店街の行かず後家』と言われて久しい三十二歳のちゃきちゃきなおばさんで、三年前に相方と一緒に仕立て屋を出したばかりの商店街の新参者だった。相方が結婚してからは店を一人で切り盛りしているようで、どうやら借金を返すのに苦労しているらしい。その相方は遠くに引っ越してしまい、実質一人で借金を被っているようだ。

 俺には関係ないことだというのに、商店街のおばさん連中が木枯らしの吹き荒ぶ中わざわざ引き留めてご丁寧に説明してくれた。あのハンナとか言う女も苦労してんだな、と少しだけ同情したがそれだけだ。そして俺は、久しぶりに外の空気に長く触れてしまった所為で風邪を引いてしまい、部屋の中でうんうん唸る羽目になってしまった。


 翌日、日頃の不摂生で貧弱になってしまっていた俺は、高熱で震える身体に毛布を巻きつけ、汚い床に丸くなって耐えていた。このままでは死ぬと思ったが、どうしようもない。そこで俺の意識は途切れ、再び意識を取り戻した時には何故かあの女 –––– ハンナがいた。


 俺の手を握り、拙い治癒術をかけながら俺の名前を呼んでいたハンナは、俺が目を覚ましたことに気がついた途端にボロボロと泣き出してしまった。「ごめんね、見よう見まねの治癒術しか使えないんだよ、医術師様に伝令を飛ばしたからもう大丈夫だよ」と俺の手をさすりながら泣くハンナに、さすがの俺もばつが悪くなる。突き放しても突き放しても家を訪ねてきていたハンナは、朝から晩まで灯りがついている俺の部屋を不審に思い、玄関戸をぶち破って中に入ってきたらしい。

 とにかくハンナのお陰で助かった俺は、借りを作るのが嫌で自警団員になることを引き受けた。自堕落な生活の所為で弱くなった身体を鍛え直して、新しい生活基盤を作るのに丁度いい。

 俺の決断に喜び勇んだハンナは、役場の職員と自警団の奴らに引き合わせてくれて、俺は晴れてトット町の自警団の一員となった。


 あれから七年。俺の腹は引っ込むことはなかったが、元気に自警団員としてやっている。今では商店街の住人ともそこそこ仲が良くなった。

 ハンナといえば相変わらずお節介で、外食か酒とつまみばかり食っている俺に手料理を持ってきてくれる時もあれば、余った布で服を作ってくれる時もある。自分の服はダサいのに、他人の服を作るとなるとなかなかに洒落たものに仕上げてくるのだ。着心地の良いシャツは俺も結構気に入っていた。

 もらうばかりではあれなので、俺も屋根の修理や店内の改装など力仕事を手伝っている。ハンナがアパルトマンで作った商品の服を、俺が店に運ぶこともざらであった。要するに持ちつ持たれつの関係ってやつだ。

 気がつけば俺は四十歳を過ぎ、食うに困らない生活を送っていれば、独りの生活が至高のものに感じられるから不思議だ。


 そんな時、ハンナの仕立て屋に暗雲が立ち込めた。

 自警団の事務室にやってくるご意見番のじいさんばあさんたちが、親切に教えてくれたのだ。借金の返済に店の売り上げが追いついていないらしく、このままでは店をたたまなくてはならない深刻な事態らしい。相方に子供が生まれ、仕送りが途絶えたというのだ。二人で始めた店であり、借用書には二人の名前が書いてある。相方に言ってきちんと金を送ってもらえばいいのに。ハンナは変なところでお人好しで甘い部分がある。向こうの都合にお前が合わせる必要はないんだ、と言いたくなった俺は、仕事もそこそこにハンナの仕立て屋に向かった。


「あれま、マイク。どうしたんだい?」

「ハンナ、この店危ないのか?」

「どこでそんなことを。この店は昔っから危ないよ。あんたも知ってるじゃないか」

「ちげーよ、借金はどれくらい残ってるんだ? じいさんたちから聞いたぜ」

「なんだ、もうそんな噂が回ってるのかい」


 ハンナは諦めたように話し出した。

 借金は利息を合わせて残り七十六万ゼールもあり、このところ、というか二年くらい支払いが滞っていて、最後通告を受けたと言うのだ。その最後通告を受けたのは三ヶ月前のことで、あとひと月半後までに指定された金額を用意できなければ、店を売り払わなくてはならない状況まで追い詰められていた。

 指定された金額は四十万ゼール。とてもじゃないが、片田舎の仕立て屋で用意できるものではない。


「四十万ゼールってあては……ないんだな。何で俺に相談しなかったんだよ」

「友人にお金の無心なんてできないよ。いいさ、店はたたむよ。潮時だったんだろうね」

「ハンナ、お前は本当にそれでいいのか? 諦めるなんてらしくないぞ」

「諦めも肝心だよ。田舎の仕立て屋なんて、やっぱり無理だったんだ」


 ハンナはそう言って淋しそうに笑った。

 よし、俺が何とかしてやる、などと言えるくらいに蓄えもなく、かと言ってこのまま指を咥えて見ているだけでは男が廃る。騎士を辞める際にもらった退職金を散財してしまったことが悔やまれるが、今更嘆いても始まらない。ハンナはいわば俺が立ち直るきっかけになった恩人であり良き友人だ。

 俺は無言実行とやらでハンナに隠れて金策をすることにした。ハンナの仕立て屋はハンナの夢なのだ。俺の夢は散り散りになってしまったが、ハンナの夢まで散り散りになる必要なんてどこにもない。受けた恩を返す時がやっと巡ってきたというわけだ。

 しかし俺にもあてはない。王都は遠いし、第一、昔の知り合いを頼りたくはない。落ちぶれてしまった姿を見られたくないという虚勢の所為で、気がつけばもう時間がなくなってしまっていた。


 祭りの話を聞いたのはそんな時だった。

 ここいらの地方で一番大きな都市ダーセルで、馬上槍試合が開催されるというのだ。噂話を聞いた俺は町の新聞屋に駆け込むと、真偽を確かめて拳をグッと握り締める。


 ダーセル市夏の火祭り

 期間:火蜥蜴の月二十日から二十三日まで

 催し物:火踊り、歌謡大会、名物トルルン豚のパン粉揚げ早食い大会、馬上槍試合、他


 馬上槍試合なら賞金が出るはずだ。それなら俺にだってできる。腕前は錆び付いているかもしれないが、まとまった金を手に入れる好機だ。

 俺は急いで自分の部屋に帰ると、物置から木箱を引きずり出す。この木箱は七年間一度も開けたことはないが、中には騎士時代に使用していた剣や帯革たいかく、胸当てに編上靴へんじょうかなどが詰め込んであった。

 ゴトッと音を立てて開いた箱の中には、カチカチになった革製品と黄ばんだ衣服、曇ってしまった剣が入っていた。七年という歳月が改めて俺に突きつけられる。試しに帯革を腰に着けようとしたが、ひと回りほどでかくなった俺の腹には短か過ぎた。

 しかしそんなことで諦める俺ではない。祭りの実行委員に問い合わせると、年齢制限はなく装備を持たない者には貸し出してくれるらしい。どんな貧乏人でも体ひとつあればいいというわけだ。俄然やる気になってきた。


 馬上試合の槍は、安全性を考慮してきっさきだけが鉄でできており、持ち手以外はわざと折れやすい木を使っている。わざわざ本物の槍を使って死ぬような事態を避ける為なので、俺でも扱えるというわけだ。槍以外は自前の装備が可能だったが、俺にはそんなものはない。おまけに馬もない。まあなんとかなるだろう。

 かくして俺は馬上槍試合に出場することを決め、三日間の休みを取ってダーセルへと向かった。


 ◇◇◇


 馬上槍試合は大盛況で、街の広場に設置された会場はたくさんの人でごった返していた。

 借り物の防具一式を身に纏った俺は、入念に筋肉をほぐすと槍を構える。そして、頭の中で過去の試合を再現した。意外と重く感じられた槍に苦戦しつつも、精神を統一して勝つことだけを考えた。

 一回戦は素人相手で楽に勝てた。しかし二回戦、三回戦と勝ち上がる度に相手も強くなっていき、槍を構える腕に力が入らなくなっていく。

 古傷がある右腕は使えないので、左手一本で俺はなんとか準決勝まで勝ち上がった。しかし身体は重く腕は痛い。たった七年、されど七年の空白の時間は、俺の自慢であった鍛え上げられた肉体を無情にも衰えさせ、自尊心を粉々に打ち砕く。


(弱音を吐くな、次はいよいよ優勝候補が相手だ)


 優勝候補の皇都から派遣されてきた若い警務騎士は、当然俺のことを知らないようだった。


 赤い旗が振り下ろされたと同時に俺は馬の腹を拍車で蹴り上げる。

 相手の槍が俺の右肩を狙っている。騎士は右手に槍を持っているが、俺は左手に槍を構える。左利きではないが、壊した右肩では槍の重さに耐えきれないのだ。向かい合うと同じ側に槍を構えることになるのでやりにくい。が、そんなことを言っている場合ではない。


 絶対の勝利を、賞金をこの手に。


 しかし俺は、次の瞬間、背中から地面に叩きつけられていた。あまりの衝撃に息ができない。馬の嘶きがあたりに響き、ガツガツと蹄鉄で地面を蹴り暴れる。その振動すらも俺の身体、特に左肩に激痛をもたらした。


「かはっ、がぁっ、うぇっ、ひぃっ……ぇっ」


 肺が痙攣したように動かない。誰かが何かを叫んで俺の左肩に触れ、そしてすぐに俺の意識はなくなった。

 ようはあれだ。右肩を狙われているとばかり考えていた俺の裏をかいた相手は、腕をめいいっぱい伸ばして俺の左肩を突いたのだ。俺はそれに対応できず、渾身の突きをもろに食らって馬から落ち、突かれた左肩を脱臼していたということだった。意識のないままに治療が施されたのが幸いして、吐くこともなければ発狂するほどの痛みも味あわずに済んだのは有難い。意識有りの状態で脱臼を治すのは拷問に等しい所業なのだ。

 しかし最悪なのはここからだった。

 俺が気絶している内に試合はすべて終わり、三位まで決まっていた。三位はもちろん俺ではない。準決勝で敗退した俺が戦うべき相手は、俺が気絶していたことにより不戦勝として三位に君臨していたのだ。優勝賞金の五十万ゼールには及ばないが、三位であれば十万ゼールはもらえたというのに。みすみす勝利を逃し、ただ呆然としていた俺に手渡されたのは入賞賞金の一万ゼールだけであった。


 失意の中とぼとぼと帰路につき、次の日の昼過ぎには町に帰り着く。知り合いには何も言わずに出てきていたので出迎えはないと思っていたが、何故か俺の部屋の前でウロウロしていたハンナが、血相を変えて駆け寄ってきた。


「マイク、その怪我は何だいっ! 大丈夫なのかい? あちこち酷い青あざじゃないか」

「ようハンナ。男っぷりがあがっただろ? 見た目より酷くはないんだぜ、これ。治療術も効いてるから一週間くらいで元に戻る」

「無茶しちゃってさ。新聞屋が『マイクがダーセルの馬上槍試合に出場する』って言いふらしてたの、本当だったんだね。あたしの店の為なんだろ?」

「すまねぇな。結局負けちまったんだよ。カッコ悪りぃな、俺」

「いいんだよ、あたしがもっとしっかりしてなきゃいけなかったんだ。あんたの所為じゃないよ。ありがとね、マイク」

「入賞しかできなくてな、これで飯でも食おうぜ」

「あんたのお金じゃないか、いいのかい?」

「これっぽっちじゃ足りねぇからパーっと使っちまうのもありなんじゃねぇか?」


 怪我の治療の為に余計な出費があり、賞金は半分以下になってしまったが、二人で盛大にドンチャンやるくらいはできる。俺はためらうハンナを引きずるようにして、町一番の料理屋の扉を開けた。


 ◇◇◇


 それから一ヶ月も経たないうちに、ハンナの仕立て屋は空き店舗になった。

 ハンナは今、市場にある八百屋で店子として働いている。俺も最悪の事態を回避しようとでき得る限り頑張った。もう恥も外聞も殴り捨てて昔の知り合いに金策に回り、家の中にある金目の物を全部売り払った。しかし世間ってのは冷たいもんで、あんなに親しかったはずの旧友たちにはにべもなく断わられ、俺の私物も大した金になるはずもなく、とうとう指定期限の日を過ぎてしまったのだ。


「力になれずにすまない。でも部屋を出る必要なんてないだろ?」

「ここの家賃も馬鹿にならないんだよ。それに力になってくれたじゃないか。あんなにたくさんのお金、ありがとう。残りの借金を返し終えたらちゃんと返すよ」

「俺のはいいんだよ。俺の方が世話になってるんだしよ……ハンナ、ありがとな」

「やだよ、辛気臭い。町を出るわけじゃないんだし巡回がてら遊びに来なよ。住み込みだからもてなしてやれないけど、野菜は安くしてやるよ」


 そうしてハンナはアパルトマンさえも引き払い、俺の部屋を訪ねて来る者はいなくなってしまった。


 ◇◇◇


 寒い冬が過ぎ、若葉が芽吹く春が訪れようとする頃。俺は煙草のやにで黄色く染まった壁紙の事務室で、自警団の勤務日誌を書いていた。


「本日も異常なし。いや、猫がいなくなったんだっけか。仕方ねぇな、貼り紙でも作っとくか」


 いなくなった猫は、詰所の裏側に住んでいるマーサばあさんちのトラ猫だ。ばあさんは慌てて駆け込んできたが、季節は春だ。猫も恋に忙しいんだと思うぜ? とは流石に言えず、とりあえず猫の特徴を聞いてから巡回がてら探して歩いた。当然見つかるはずもないので、捜索は明日に持ち越しだ。

 三十分後、適当に描いた割にはなかなかの出来の貼り紙を輪転機りんてんきにかけながら、帰り道に貼っていくかと考える。もう勤務時間は過ぎているし、日が落ちる前には帰りたい。時計を確認した俺は、帰宅準備を整えてから詰所の入口の鍵をかけ、入口に迷い猫の貼り紙を貼る。そしてぶらぶらと歩きながら目についた箇所に次々と貼り付けて行った。


「あれ? ついに開店したのか」


 トット町中央商店街では、長らく空き店舗になっていたあの場所にかなりの人集ひとだかりができていた。買い物籠を提げたおばさんや、仕事帰りのくたびれた親父たちが並んでいる。店にはデカデカと開店の横断幕が掲げられ、香ばしい揚げ物の匂いが客足を誘っていた。先月半ばから工事が続いていた店は、どうやら総菜屋であったらしい。仕立て屋の頃の面影はなく、ハンナの店は思い出の中だけにしか存在しない。


(俺もきっとこんな感じに忘れられてしまったのだろうか)


 皇都の騎士団で華々しい戦果を収めてきた俺も、辞めてしまえばもう噂にすらのぼらないただの人だ。あの頃の俺を知る者も、片田舎で自警団員として細々と暮らしているおっさんなんかには興味すらわかないのは当たり前のことだ。

 だが、俺はもうそんなことにこだわったりはしない。過去の栄光にすがって生きていくことに、自らの意思で決別したのだ。例え大した事件もない平和な町の自警団員であっても、俺がいることで守られているものも確かにあるのだ。警務騎士あがりの自警団員が居るってのはなかなかに箔がついていいらしい。

 商店街の照明柱に魔導術の灯りが灯る。もうすぐ山の向こうに陽が沈んでしまう時間だ。俺は商店街を歩きながら、貼り紙を貼らせてくれそうな店を回った。


「ただいま。これ買ってて遅くなっちまった」


 帰宅した俺は、あの店の揚げ物が入った紙袋を差し出す。ブンブン鳥と野菜の丸揚げが安かったし、何より匂いにつられてつい買ってしまったのだ。


「おかえり、マイク。あんたもあの店に行ったのかい? あたしもなんだよ。今夜はお惣菜ご飯になるね」

「そりゃあ構わないが……何だハンナ、久しぶりにまた始めたのか?」


 ハンナの座っていたソファには、しばらく見なかった裁縫道具や型紙、柔らかそうな生地が置いてある。

 仕立て屋を閉めてから二ヶ月後、俺はハンナに求婚した。付き合っていたわけじゃなかったが、俺も片意地を張る必要がなくなり自分に素直になった結果、これからの人生をハンナと歩むことに決めたのだ。ハンナも満更でもないみたいで、「仕方がないから結婚してあげるわ」なんて返事だった割には、年甲斐もなく顔を真っ赤に染めていた。まあ、そんなハンナも可愛いじゃないかなんて思った俺も、相当焼きが回っていると思う。

 とにかくお互い年齢が年齢なので早いとこ籍を入れようってことになり、お互いの実家への挨拶もそこそこに年末ギリギリに結婚したってわけだ。

 春になったらお披露目をしようと決め、ハンナは色々と準備をしているようだったが、また洋裁を始めるまでになれたことは喜ばしい。仕立て屋をたたんでから今まで、ハンナが手元に残しておいた裁縫道具に触れている姿を見たことがなかった俺は、もう大丈夫になったんだろうと軽い気持ちで聞いてみた。


「これからさ、たくさん作ってあげたくてね。あんたとお揃いのとか着せてあげたら可愛いだろうなって思ったら、わだかまりなんか吹っ飛んじゃった!」

「そうかそうか、そりゃあよかったな。この年でお揃いってのはむず痒いけどよ、お前の作る服を喜ばない奴はいない……あん? 誰に着せるんだ、その服。お揃いって俺とお前じゃないのか?」

「誰って……そのさ、こっ、この子だよ! 夏の終わりか秋の始めに生まれるんだって先生が教えてくれたんだ。あたしたちの子供だよ」


 ハンナは自分の腹を愛おしそうに撫でて俺の反応を待っている。


(いつだ? いつの子だ⁉︎)


 確かに俺もハンナも子供が欲しくて結婚してから頑張った。贅肉のついた身体にお互いが苦笑しながらも、相性がよかった俺たちは若い新婚夫婦……とまではいかなくてもことあるごとにいちゃついては愛のある子作りに励んでいたわけだが。覚えがあり過ぎて、いつの時の子供だか見当がつかない。


「な、何ヶ月だ? そんなことより仕事は辞めるんだぞっ! 安静にしておけ、な? 頼むから、無茶はすんなよ?」

「慌て過ぎだよ、マイク。この子はまだ二ヶ月半か三ヶ月くらいでこーんなに小さいんだってば。順調に育ってるから心配ないよ」

「心配はないって、自分の年齢を考えろよ! ああわかった、俺がする、家事は全部俺がするからお前は何にもするなよ? 具合はどうだ? 吐き気とかはないのか?」

「料理の匂いで気持ち悪くなるんだよ。お惣菜屋さんが開店してくれて助かったね」


 ハンナは慌てふためく俺を楽しそうに見ている。

 ああ、ちくしょう。何だって落ち着いていられるんだ? 女ってのは一生男にはわからねぇ生き物だって聞いていたが、一生どころか死んでもわからねぇよ!


 ◇◇◇


 そうして医術師の言う通り、秋の始めの満月の夜に俺たちの息子が生まれた時、俺は人目をはばかることなく号泣した。騎士時代にも見せたことがなかった涙をボロボロと流す俺に、出産で疲れているはずのハンナはやっぱり楽しそうに言ったのだ。


「あんたの後継ぎが無事に生まれたから、次は娘が欲しいね」


 汗まみれでぐちゃぐちゃの顔で死にそうなくらいに苦しんでいたとは思えないハンナの笑みに、俺は負けを悟る。「息子だけで十分だ、お前が無事ならそれでいい」と弱々しく答えた俺に、ハンナも泣いていた。ついでに産婆も医術師ももらい泣きしていたが、お腹の空いたらしい息子の元気な泣き声が響き渡るとみんなが一斉に息子に注目し、それから幸せな笑い声が漏れる。

 ああ、ああ……これが幸せというものなんだろうか。一度は何もかも諦めた俺がこんなに幸せでいいのだろうか。


「ハンナ、ありがとうな……おい息子、と、父ちゃんもこれから頑張って働くから、お前も頑張って大きくなれよ」


 俺が皺くちゃの息子の手を突くと、息子が指をぎゅうっと握ってきて、まるで返事をしているように思えた。これからこの小さな命にたくさん教えてやりたいことがある。しかし息子が成人する頃、俺は既に六十歳を超えてしまう。しかもその前に息子がやんちゃ盛りになる頃には五十歳だ。


(いかん、これは大問題だ。腹の出た親父なんて、やっぱり嫌だよな?)


 俺がぽっこり腹を力を入れて凹ますと、それを見たハンナがつい吹き出して「痛たたっ」と顔をしかめる。見てろよハンナ、それから小さい息子、俺は若い奴らにも負けねぇカッコいい親父になってみせるぜ。


 一度は夢破れすべてを諦めた俺に新たな夢が出来た瞬間であった。

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