心が心に知らせを伝える Ⅰ

 一歩、また一歩と歩みを進めるごとに、老人の矮躯はふるりと震える。

「父さん!」

 小石に躓いてしまったのか。熱せられた鉄板に生きたまま乗せられた海老のごとく跳ねた老爺は、深く刻まれた皺には相応しからぬ敏捷な仕草で体勢を整え、

「――お前たちは一体何をやっておるんじゃ!」

 彼に駆け寄りその痩躯を支えようとした、二人の息子を一喝した。

「な、何って……」

 見の丈ほどもある杖を持ち上げた一人の老年と、年端もいかない子供さながらに狼狽える二人の中年。見つめ合う彼らは、顔立ちもさることながら磨き抜かれた水晶か夜露じみた、滑らかで艶やかな頭部が非常に似通っていて。

「なー、ゾーリャ姉」

「……こんな時に一体何なのよ」

「もしかして、俺やサーシャ兄やヴァーリャも、年取ったらあんなになるのかな」

 まだ声変わりも迎えぬ弟が、豊かな亜麻色の巻き毛を一撫でして不安げに呟くのも道理であった。だが、生まれて初めて会った祖父を前にして紡ぐ最初の一言が頭髪の量云々では、あまりに情緒に欠ける。第一、今気にするべきなのはそんなことではないのだから、少しぐらい雰囲気というものを気にしてほしい。もっとも、この自由奔放な弟にそれを求めるのは無理が過ぎるのかもしれないが。

「ゾーリャ姉は女だから関係ないと思ってるのかもしれねえけど、俺たちにとっては重大な問題なんだぜこれ。俺、これでも母さんに似た美少年って評判なのに、ハゲちまったら台無しだろ?」

「あ、そ。だったら、毎日食事の前に欠かさず“美しく優しく気高い姉ゼリスリーザを讃えます”ってお祈りでもしてなさい。そしたら大丈夫よ」

「適当言いやがって」

 ぶつぶつと未練たらしく文句を垂れる弟を、何らの解決にもならない言葉で諌め、目も眩まんばかりの光を放つ三つの不毛――父と伯父と祖父に向かい合う。

「お前たちは昔からそうじゃったが、嫁入り前の娘に決闘などという危険極まりない真似をさせるとは! お前たちはそれでも親か! 父親か! 今すぐ答えてみい!」

「父親です!」

「ならばお前たちはどうして……」

 出口のない迷路に迷い込んでしまった議論と、毛髪とは対照的にふっさりと豊かに垂れる眉と杖を吊り上げて喚き散らす老人の剣幕に怖気づいたのか。あるいは、面倒事に巻き込まれてはと恐れているのか。きょうだいたちはいずれも、観客に紛れて遠巻きに嵐の終わりを待つばかりだから、致し方ない。

「はじめまして、お祖父さま。あなたの孫娘ゼリスリーザですわ」

 と、淑女の仮面を張りつけにこやかに微笑めば、悪竜ズメイも飛んで逃げ出す形相はたちまちなりを顰める。

「……お前が、そうなのじゃな……」

 氷柱じみてはいるがいかにも柔らかな髭をそよがせる溜息は重苦しく、祖父と父との間に立ちはだかる断絶の深さを察せずにはいられなかった。

 皺と眉にほとんど埋もれた目を潤ませた老人が見つめるのは、もはや還らぬ過去であるに違いない。しがない聖像画職人の娘であった母と、弱小なれども土豪貴族の子弟であった父。父母の結婚に大反対した祖父は、自分に逆らって駆け落ちまでした息子の娘であるゼリスリーザの存在を快く受け止めてはくれないだろう。だが、祖父と孫として、言い換えれば年長者と若者として、払うべき敬意と礼節はどんなことがあっても忘れてはならない。

 色褪せた薄い唇を境に二つに分けられた白い長い髭は、赤く染め上げられていさえすれば海老のそれそっくりだっただろう。しかし、炉端やむずがる幼子の枕元で歌われるお伽噺の中のあらゆる水の支配者はかくあるのだろうか、と親しみを感じさせる容姿に気を許してはならないのだ。なぜなら、亡母を父の妻として認めぬ限りは、祖父はゼリスリーザの敵であるから。

「話には聴いておったが、成る程母親によく似ておるわい。まるであの女がもう一度儂の目の前に現れたようじゃ……」

 もごもごと剽軽に動く毛の束の合間からどんな罵倒が吐き出されるのか、と身構えた娘に掛けられたのは存外に温かな囁きであった。

「これならば、ラウーズ? いや、ロロズ……いやニョロロズじゃったか……?」

「父さん、それ多分“ルオーゼ”です」

「そうじゃ、そうじゃ。ラオーゼじゃ。お前ならばそのラオーゼに行っても、」

「ラオーゼって一体何なんですか!? ラ、じゃなくてルだって言ってるでしょう!?」

「大事な時に一々口を挟むでない、この馬鹿息子が! ……とにかく、お前ならば名を聞いたこともないような訳が分からん国にやっても、このサリュヴィスクが貶められることはあるまいよ。長いこと生きてきたがこんなにべっぴんな娘を見たのは、儂は初めてじゃ」

 伯父の的確な助言を微妙に聞き逃しているし、「ニョ」は一体どこから出てきたのかと問い質したくなったが、涙さえ滲ませながらゼリスリーザの肩を抱くのは、気の良い祖父に他ならない。

「まあ、お祖父さま……」

「まったくもって似合わん淑やかな令嬢の振りなどせずともいいんじゃよ、ゼリスリーザ。祖父さん、と気軽に呼べばええ」

 病み上がりの、ともすればたちまち傾いて大地に禿げあがった後頭部をぶつけそうになる肢体を掻き抱けば、か細いが頼もしい手に背を撫でられる。染み入るぬくもりは、おおよそ二十年に渡って成長しつづけた確執をも蕩かした。

「父さん……!」

 厚い氷の下には緑萌ゆる麗らかな草地が眠っていたのか。この地上の生命が謳歌する輝かしい夏の牧場を駆ける牧童を彷彿とさせる、満面の笑みを浮かべて突進してきた巨体が、白樺にしがみ付く枯れ木を――ゼリスリーザと祖父を押しつぶす。

 ぐえふっ、とおおよそ人間の舌が奏でるに相応しくない音が弛んだ喉から漏れ出たが、祖父はただひたすら双眸に無垢な光を宿す父を穏やかに見つめていた。ただし、杖の持ち手を貫禄たっぷりに突き出た腹部に向け、これ以上近寄るでないと牽制しながらではあったが。

「すまなんだなあ、マルトポルク」

 父の腹は幼児の肌理細やかな頬ではないから、突いても丸い輪など浮き出ない。二人の合間に挟まれた節くれだった木の棒さえなければ、完璧にして感動的な親子の和解。その光景を興奮して暴れる熊と、老いた調教師の緊迫した光景として捉えてしまったのは、ゼリスリーザだけではないだろう。

「我が家は土豪貴族ではあるものの代々弱小の、そこらの商人にすら負けるようなしがない家柄じゃ。だのに儂は、貴族としての品格などという元から大して備えていないものに拘るあまり、お前の妻の誇りを随分と傷つけてしまったのお……」

 都で職も得た息子夫婦に子ができたと聞かされてから、孫の顔を見るついでに謝罪に行こうかと何度も考えていた。しかし拒絶を恐れるがあまり逡巡しているうちに、息子の妻は死亡してしまい、今の今まで領地の屋敷でもう一人の息子にすら打ち明けられぬ悔恨に沈んでいた。

 積年胸中に巣食っていただろう蟠りを吐き出した祖父の顔は晴れやかで、頭部を抜きにしてもまさしく太陽そのもの。

「……そんなに落ち込むなよ、ジジイ!」

「そうだよお祖父ちゃん!」

「そうです! 母さんは“父さんと一緒になれた私は世界一の幸せ者だ”っていっつも言ってたんですから!」

 全ての命を育む日輪の温かさに惹かれてか。次男は悪友たちと競い合って培った機敏さで祖父から杖を奪い、三男は直ぐ上の兄から受け取ったものを放り投げ「あいてっ!」との野太い絶叫をどこぞから轟かせた。そして長男は、支えであり防御でもあった杖を失って惑う老人を後ろから羽交い絞めにする。

「さあ、心ゆくまで触れ合ってください!」

 あんたたち何やってんの、祖父さんを殺す気なの、とゼリスリーザ達姉妹が慌てた時には既に遅かった。率直に言い表せば、間に合わなかったのだ。熊の突進を枯れ枝が受け止め切れたのかどうかなど、あえて言及する必要はないだろう。

「この慶事の最中に死人が出るなんざ幸先悪いこと極まりない。お前ら、ウィタリー・レザロフを救出しろ」

 ただ、常に飄々とした公が、整った顔を僅ながら引き攣らせながら配下の従士団に命じたために、伝染した熱狂に駆られた観衆たちに胴上げされていた祖父は、嘔吐も失神も失禁もせずに済んだのである。

「いやはや、公の采配のおかげで命拾いしましたな……」

 死人よりも蒼ざめた面に羞恥の紅を登らせながら、老人は側頭につるりと手を置く。

「なに、領民を守護するのも公の務めの一つだからな。だが……」

 形良い口元に、獲物を狩ったばかりの狼を彷彿とさせる笑みが刷かれる。青年はその威圧的な微笑を保ったまま、いかにも尊大に腕を組んだ。

「お前は随分と子の躾を不得手としているようだな。血筋か? マルトポルク・ウィターレフも、スヴャトマルク・ウィターレフも娘の教育には随分と苦労・・したのだろう。俺はお前の孫娘たちのような貴族の娘を他には知らんし、公国中探したって他には見つからんだろう」

 青年の吊り上がった口角は、嘲笑っているのだとも、単純に面白がっているのだともとれる。

「全て公のおっしゃる通り。返す言葉もありませぬが、これは全て儂の不徳が致すところでして……」

「だが、随分と愉快な失敗ではある。中途半端な成功よりも余程興味深く、そこらに掃いて捨てるほど溢れた、気位の高さと従順さだけが売りのつまらん成功品どもよりも骨があって好ましい。ここまでくるといっそ潔くすらあるしな」

 祖父の無事に無い胸をなで下ろしたゼリスリーザを射抜く眼差しは、槍か剣めいていて鋭い。しかし親が子に向けるに通じた温かみを宿していた。

「マルトポルク・ウィターレフよ」

 この凍てついた北方の地で、太古から連綿と受け継がれた営みを続ける民の上に立つ支配者は、長女の説教に頭を垂れる中年男に、遍く人の子に語りかける。

「私は未だ子を儲けるどころか妃すら迎えぬ独り身ゆえ、愛娘を案じるそなたの親心を解したなどという戯言でそなたの怒りを買う愚行を犯すつもりはない。だが、ただ一つ確約しようではないか」

 私はこの国をより豊かに、より大きくするために身命を尽そうと。遙か西の大国と対等な関係を築けば、花嫁にして人質・・であるゼリスリーザも決してぞんざいな扱いは受けまいと。

 人質とは一体どういうことなのだ。聞き捨てならない響きに大きく目を瞠った娘の異変に感づく者は誰もいなかった。

「そなたの娘を、このサリュヴィスクの未来と発展のために捧げてくれるか?」

 鼻を垂らした幼児から乾物そっくりに干からびた老人に至る皆が、質問の体裁を纏った命を下した公の雄々しさや威光に心酔しきっていたために。

「――差し上げます!」

 つい先ほどまでは長女の婚姻・・に反対していたはずの父は、寸毫の躊躇いもなく頷く。

「こんな姉でいいのなら、いくらでも貰ってください!」

 ついでにきょうだいたちも、感涙に咽びながら。いくらもなにも、ゼリスリーザは一人しかいないのだが。

「公国のお役に立てる孫娘を持てた儂は、公国一の果報者じゃあ……」

 指を組んで跪き、孫息子と然程齢の変わらぬ青年の雄姿を仰ぐ老人が、ふと背後を顧みたのは、血が滴らんばかりの苦痛に塗れた声を耳にしてしまったためなのか。

「……やっぱり、お祖父さまもなのね」

 小さな拳を怒りに慄かせた娘は、憤りの雫で乱れた銀褐色が張り付いた頬を洗いながら叫ぶ。

「やっぱりみんな私じゃなくてゼリスリーザを選ぶんだわ!」

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