苦労しなくては池から魚を釣りあげられない Ⅳ

「最初に断っておくが、顔を狙うのは“なし”。破れば即反則負けだ」

 分かり切っているだろうが一応な、と形良い唇が獰猛な獣の笑みを浮かべれば、自らの誇りと命運を賭けた試合の火蓋はついに切って落とされる。

「――私は容赦も手加減もしないわ。辞退するなら今の内だけれど、ほんとにいいの?」

「あなたこそ、私と本気でやり合って後悔する羽目になっても知らないわよ?」

 広場の端と端に別れた二人の娘。彼女たちにとってはやんや、やんやと囃し立てる周囲など存在しないのだろうか。自分たちだけの世界に入り込む二人は、ただひたすらに互いをねめつけ合っていた。

 白金の光踊る湖水の静かな蒼とは相反する闘志を宿した眼差しは、厚い雲に覆われた夕空の灰紫と交錯する。絡まり、縺れ、ついに一つの糸となった二つの視線。まんじりともせずに互いを見据える娘たちは、もはや野の獣そのものであった。

 ――この睨み合いに屈する。それ即ち勝負そのものに屈するに等しい。

 自分たちを取り囲む見物人は鬱蒼と茂るもみや白樺ならば、時折投げかけられる声援は風の囁きである。鬱蒼と茂る森の奥で睨み合う二頭の野牛となった娘たちは、幻の角を交えるべく突進した。

「ゾーリャ姉とツェリサ、相変わらずすげえな……」

「うん。百四勝二百十三引き分け百四負けなだけあるよ。全くの互角だ」

「お前、そんな下らないこといちいち数えてたのかよ。キリねえだろ?」

 その速さは全くの同等であり、居並ぶ者たちの驚愕に開かされた口からはごくりと唾を飲む音や感嘆の溜息が漏れる。だが周囲の反応など、角突き合わんとする娘たちにとっては小鳥の囀りに過ぎなかった。

 淡い金の髪をなびかせ、紅の衣装の裾を翻らせながら飛翔する娘は、さながら古い神話での太母である火の鳥。ならば緋と黄金の羽持つ全ての鳥たちの原母にして王と対峙するは、唄や踊りで男を魅了し凍てついた水底に引きずり込む水精しかあるまい。

 滝のごとく流れる銀褐色を陽光に煌めかせながら突進する娘の衣服は、処女雪も恥じらう無垢な白。彼女自身は意図して選んではいないだろうが、薄絹を紡いで織りなされた純白を纏うと言い伝えられる水の娘たちを彷彿とさせる娘は、力強い尾びれで優雅に清水を掻き分ける魚に似ていた。

 炎と水が、鳥と魚が激突する。無防備にうろつく兎の気配をかぎ取った狼の笑みを浮かべた顔のほど近く。見かけばかりは華奢で、触れれば折れんばかりに儚い肩に直撃した衝撃は、避けようとすれば避けることはできただろう。しかしゼリスリーザはあえて最初の一撃を、掌でもって受け止めた。不愉快な熱と痛みは血の巡りと共に全身に広がり、右手は心臓そのものと化して脈打っている。が、勝利のために払う犠牲とすればほんの些細なものだった。長年の仇敵である従妹を己の足元にひれ伏させるためならば、心臓の一つや、持っていれば二つや三つぐらい捧げる覚悟は既にできている。

 勝敗を決する覚悟で打ち込んだであろう一撃をいなされ、がら空きになった鳩尾に堅く握りしめた拳をめり込ませれば、くぐもった悲鳴がもれる。

「――っ」

 本来ならば、ゼリスリーザ自慢の良く伸びた細い脚を軸にした足技でもって、当てつけのように揺れる双の脂肪のすぐ下を抉ってやりたいところだ。だが、大勢の観客の前でみだりに脚を露わにするはしたない真似は、流石に土豪貴族としての矜持が許さない。

 ゼリスリーザの意図は暗黙の了解として伝わっているのか。ツェリサも得意の蹴りを仕掛ける素振りは示さなかった。ならば、腕を抑えてしまえば、この勝負は勝ったも同然なのだ。

 すらりとしなやかな腕は鋭利な蹴爪は備えぬが、磨き抜かれた桜貝の爪を乗せた五指があるのだ。次なる一手を繰り出さんとしていた柔らかな腕を鷲掴み、柔な肉に指先を沈めながらその大元を引き寄せれば、狼狽えた娘は形勢を逆転しようとしてかがむしゃらに腕を振り回す。しかし軸がぶれた打撃など、猫にとっての鼠の足掻きに等しいものであるのだとは、ツェリサとて知悉しているはずだ。

 鞣した革に覆われた爪先で、従妹の全体重を支える足首を払えば、豊満な肉体は前のめりに傾く。そうして、ますます近くになった精緻な刺繍が施された雪白の襟を掴み、放り投げれば――

 しかと踏みしめた地面は芳しき若草が生い茂るむき出しの地面であれども、そこらに転がる小石にぶつかれば万が一もあり得る。

「せめて頭を守ってなさい」

 癖のない毛髪に隠れた耳元で囁いたのはせめてもの慈悲であり思いやりだ。決して良好とは言い難い仲だが、ゼリスリーザとてこんな形で従妹を喪いたくはない。

 どさり、と人体が堅い地面に叩き付けられる鈍い音のほとんどは母なる湿れる大地が吸い取ってくれた。

「勝負、あったわね」

 あまりの衝撃に耐えかねたのか。放心して四肢を投げ出す従妹を見下ろした途端沸き起こった恍惚は、勝利の至福が入り混じるがゆえに誇らしかった。

 自分はとうとう完全勝利したのだ。初めて顔を合わせた時から自分を敵視していた従妹に。年頃を迎えてもちっとも膨らまない胸を蔑んでならなかったこの巨乳に。弟たちには平原じゃなくて陥没地の間違いだろ、と笑われた絶壁が、ついに大いなる山脈の威容を打ち崩したのだ。

「手ぐらい貸してあげるから、さっさと立ち上がってその綺麗な衣装を洗いに行ったらどう?」

 我ながらこれ以上なく尊大に言い放てば、汚泥に汚れた唇はさも口惜しげに歪む。それでも小さな擦過傷と泥に塗れた手は、家事によって荒れ果てていてもなお嫋やかな指に伸びる。いかにも令嬢らしく手入れされた滑らかな掌の皮膚はしっとりとしていて吸い付くようで、かさついた自分のそれとはあまりにかけ離れていた。焼きたてのクレープブリヌイにも匹敵する感触を堪能していると、不意にもぎ取らんばかりの勢いで腕を引かれる。

 勝負は終わったはずなのにと抗議する暇など与えぬ勢いで振り上げられた跟は、寸毫の迷いも躊躇いもなくゼリスリーザの薄い腹部を貫いた。予期せぬ攻撃を回避しかね、尻から倒れ込んだゼリスリーザに覆いかぶさってきた人物などただ一人しかいない。

「ツェリサ……!」

「なあに? 私はこうして再び立ち上がったのだし、公はまだ終わりを宣言していないのだから、試合は未だ続いているに決まっているでしょう? ……勝ったと思い込んで油断したあなたが悪いのよ」

 嗜虐的に口元をほころばせる従妹に情けなど最初から垂れるべきではなかったのだ。

「――あんたがそのつもりなら、こっちだって本気でやらせてもらうわよ」

「望むところよ」

 口内で噎せ返る鉄錆は、無理やりに嚥下すれば嫌悪も燃え盛る焔の糧となる。

「んな卑怯な真似するやつには負けんなよゾーリャ姉!」

「そうだよ姉さん! 頑張って!」

 がんがんと鳴る耳にふと飛び込んできた応援に叱咤され、重くなった身体で何とか立ち上がる。

「馬鹿! お前たちはゼリスリーザが外国に行ってもいいのか!? 気持ちは理解できるが、ここはぐっと堪えてツェリサを応援しなさい!」

「分かったよ父さん。……ツェリサがんばれー。ちょーがんばれー」

「まったく心が籠ってない! そんな声じゃあツェリサに届かないぞ! もっと真面目にやりなさい!」

 ちらと横目で窺えば、父はいかにも怪しげでぎこちない踊りを添え、頭頂に負けず劣らずの無意味に輝かしい笑顔を振りまいていた。

「ほら、父さんと一緒に――が、ん、ば、れ、ツェ、リ、サ! ま、け、る、な、ツェ、リ、サ!」

 大きな尻をふりふり、昨月ぎっくり腰が完治したばかりの腰をくねらせ、謎の音頭を取る中年男。父と致し方なしに父に倣うきょうだいたちの姿にこみ上げる羞恥心は、胃の腑からせり上がって喉を灼く酸味の不快感を彼方まで吹き飛ばした。

「なんの! ゼリスリーザ、お前にはその美貌があるだろう!? 勝て、勝つんだあぁぁぁぁゼリスリーザ!」

 一方伯父は、これまた謎の振り付けを交え、腕と脚を律動的に振り上げだした。とはいえ伯父一人を受け流せばいいだけのゼリスリーザとは違い、ツェリサに降りかかるのは六人分の声援だ。気恥ずかしさは比べ物にならないだろう。

「もうやめてちょうだいよ……。これじゃまるで……」

 終いまでは紡がれなかったが、従妹の心情は我が事同然に察せられた。大方、拷問だとでも思っているのだろう。ゼリスリーザの推測の正しさは、小刻みに震える従妹の肩が証明してくれている。

「ひどいわ……」

 眦に涙さえ浮かべ己の父親を睨む従妹に哀れみを抱かない訳ではないが、それ以上にまたとない好機だと捉えてしまったのは、ゼリスリーザ自身も父の醜態から目を逸らしたかったから。互いの家族の名誉のためにも、この試合は次の一手で終わらせるべきだろう。

「行くわよ」

「そんなこともういちいち宣言しなくていいから、さっさとしなさいよ」

 今度は意識して騒々しい叫びを遮断し、娘たちは体勢を整える。岩をも砕く心意気で繰り出した二つの拳。脈打つ生命の源に向かって、互いにほぼ同時に打ち出した必殺の一撃が刈り取ったのは、一人の娘の気力だけ。

「――勝負、あった」

 朗々としていて、どこか高貴な低音が形にしたのは、

「勝者、ゼリスリーザ・マルトポルカナ」

 紛れもなく自分の名であるはずなのに、眼前の光景はどこか現実から浮遊していた。

「クソ! 勝ったのはあの貧乳か! 俺、巨乳の方に賭けてたのによ。おかげで大損しちまったぜ!」

 品がないにも程がある腹立たしい舌打ちも。

「よくやったゼリスリーザ! 伯父さんはお前ならやってくれると信じていたぞ! お前ならきっとツェリサを救って……」

 預言者の像に対峙するがごとく膝を折って自分を仰ぐ伯父の感激と感謝も。

「嫌だよ! 外国になんて行かないでよ、お姉ちゃん!」

 末の妹リュネミカの号泣も、何もかもが遠いのは、激闘の果てに掴んだ勝利があまりに柔らかく温かであったからだろう。確かに、自分の足元には呆然と蒼穹を仰ぐ従妹が転がっている。けれども数瞬前の自分たちは力量も技の速度も、ついでに腕の長さも何もかも互角であったはずなのに、どうして自分の攻撃は当たってツェリサの拳は当たらなかった――正確には、寸前で崩れ落ちてしまったのか。

「ああ、そうね。そういうことなのね」

 その答えは、姉そっくりの仕草で首をひねっていた二番目の妹ライヤが導きだした。

「どういうことなんだよ、リーリャ姉」

「まあ、その、ツェリサの方が姉さんよりも胸が断然大きいじゃない? だから……」

「そうか! 腕の長さや速さが同じだったら、目標がせり出してる方――ゾーリャ姉の方が当たるのが早くて当然だよな!」

 つまり、ゼリスリーザは胸囲で負けていたから試合に勝てたのである。その単純明快な事実に至った瞬間、訳知り顔で頷く弟を蹴り飛ばしたくなったが、

「……まだよ。私はまだ戦えるわ」

 満身創痍の身体に鞭打って立ち上がった従妹のひび割れた囁きが、宙に舞い上がらんとしていた脚を縛める。

「あんた……」

 そんなにぼろぼろになってまで、どうして。

 心中でそっと呟いた、現実に舌の根に乗せるには忍びないと呑みこんだ言葉をゼリスリーザの代わりに形にしたのは、嗄れざらついた響きであった。

「もういいんじゃ、ツェーラ」

 海老さながらに曲がった背を大きな杖で支える老人の姿に覚えはなくとも、彼が誰であるかぐらい瞬く間に導ける。

「……お祖父さま……」

 地面に叩き付けられた際に噛みしめてしまったのか、一筋の紅蓮が伝う桃色が紡いだのは、想像通りの呼称であった。

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