第2章 第4話 たくさん食べて午後は元気にいきましょう!
さて――やっと作業らしい作業を出来たので満足である。
夜恵がこの工場に来て2日目だが、夜恵と志稲と兎は昨日ほとんど作業をしていない。工場にいるにも関わらず、それはいけないだろう。
そして、作業に没頭していれば、腹も減るという物である。
夜恵が面接に来た日、金剛はこの工場の食堂は自慢だと話していた。昨日は乙愛の話が長く食べそこなったために、志稲が購買で買ってきてくれた菓子パンだけだったのだが、今日こそ、その自慢の食堂に入れる。面接の日も何やかんやで食べられなかった。と、いうことで夜恵の表情がどこか浮ついていた。
「ふふ~ん――」上機嫌な夜恵が鼻歌を口ずさんでいるのだが、ふと志稲に視線を向け、首を傾げる。「志稲ぁ? なんかビクビクしてない?」
「えぅ?」志稲が素っ頓狂に可愛らしい声を上げる。「……怒って、ない?」
「へ? 私が? 何で?」
夜恵にとって、あれは怒っているというものではなく、ただ五月蠅かったからそのことについて言っただけ――例え、言葉が強かろうと、夜恵本人からしてみれば声を発した。でしかない。所謂『「お前寝起き悪いよな?」「え? そう?」』と、いう、本人には一切自覚のない敵意のことである。
「だから言ったですぜぃ、若は気にし過ぎですぜぃ。それに、あんなことを一々気にしてたら十円ハゲが出来ちまうですぜぃ?」
「むぅ……」兎に諭されたことが気に食わないのか、無表情で頸動脈をナイフで切る殺人鬼のような表情で志稲が膨れた。
「……ごめんなさいですぜぃ」あんな顔で膨れられても誰だって謝る。兎も例に漏れない。「――っと、嬢ちゃん、やけにご機嫌だな?」
「う~ん? うん! だって、食堂が自慢だって聞いたから」
「あ~、なるほどな。まぁ、うん……そうさな。この工場にいて唯一良かったと思う程度には美味いもんを作ってくれるですぜぃ」月に24回も良いことが続くのならば、きっと兎は恵まれているのだろう。「種類も多いし、何より安いかんなぁ」
「へ~……」料理人を目指していた夜恵――何か思うところがあるのだろう。「たくさん食べて午後も頑張らなきゃ!」
……最早、夜恵は作業員への道に染まってしまったらしい。
「なんだ嬢ちゃん、たくさん食うのか? あっしもたくさん食うですぜぃ? ここの飯作ってくれる奴は気前が良いかんな、大盛りを頼んだつもりが特盛になっているなんてざらですぜぃ……」兎の顔がどこか青くなったのは、およそそれで失敗したからだろう。「ハンバーグ150g7個とかアホだろ……」
「わぁ、楽しみ」一体、夜恵は兎の言葉の何を聞いていたのだろうか。と、そんな風に夜恵はホクホク顔を浮かべ、志稲に声をかけようと振り返る。「志稲はなに食べ――志稲?」
「えぅ? あ、うん、私は――」表情ではわからないが、安堵しているのが雰囲気からわかる志稲はボロボロになった食堂の厨房を指差す。厨房兼食事受け取りカウンターは無事だったらしい。「スタミナ定食――」
「あれはスタミナなんて生半可なものじゃないですぜぃ……表の意味はブタ製造定食、裏の意味は拷問ですぜぃ」
「……私、ぷっちょじゃない、です」志稲がまっ平な胸を張り、袖を上げ引き締まった腕を兎に見せる。「食べて分はちゃんと運動、します」
「あ~、そうですかぃ」兎は志稲に呆れながら、夜恵の背中を押し、昼食を受け取る列に並ぶ。「ほれ嬢ちゃん、あそこにメニューがあっから、おばちゃんたちの所に着くまでに決めとけな」
「は~い」
夜恵はジッと壁に掛けられているメニュー表を眺めている。表情からどれを食べるかを決めかねており、うんうん唸りながら結局、決められないまま夜恵の順番が来てしまった。
「嬢ちゃん、速く決めろな? 後ろの奴待たせてもわりぃし」と、言う兎の声に頷く夜恵の後ろにいる作業員――作業員の目は夜恵のお尻に向けられており、満足そうに頷いていた。「……嬢ちゃん、さっさと決めろ」
「わ、わかってるよぉ――え~っと……あ、そうだ」夜恵は志稲と一度目を合わせ、満面の笑みを浮かべる。「志稲と同じので。大盛りが良いかも――」
「おい嬢ちゃん、あっしの話聞いてたか?」
「え~? でも美味しそうだし」
周囲がどよめいているが、当の夜恵はそんな視線もどこ吹く風――ただただ体を揺らし、嬉しそうに、楽しそうに上機嫌に奥の調理している人を見ていた。ちなみに、夜恵のお尻が揺れる度に感嘆の声を上げている作業員には志稲と兎の拳が放たれていた。
そうして、料理が運ばれてくるのを待っていると、志稲が注文を聞く人を手招き耳打ち――何度も夜恵の方を見て、普通盛りを止め同じく大盛りを頼む志稲なのだが、表情が軽く引き攣っており、志稲でもキツいのが見て取れる。
そうこうしていると先に兎が頼んだお子様プレート(ハンバーグ150g×3、ナポリタン200g、ピラフ250g、エビフライ4尾、Mサイズカップ並の容器に入ったプリン)旗がピラフに乗っており可愛さを演出しているが、可愛げなど一切ない不思議――一体、どこにこれを喰らう子どもがいるのか甚だ疑問だが……。
「……え? 多くねぇですかい?」兎の言葉に、注文を受けた女性が首を傾げ、みんな大盛りではなかったか? と、聞く。「うんなわけねぇですぜぃ!」
しかし、その女性が爛漫な笑顔で謝り、エビフライを2尾おまけで乗せる。注文を間違えてしまった故の礼らしい。
「あっしは減らせって――」しかし、兎が声を荒げようとすると、兎の袖を夜恵が引っ張っているのが見える。「って、あ? どうした嬢ちゃん?」
「う~、う~ちゃ~ん」夜恵はスタミナ定食(大量の豚のしょうが焼き、キムチ、牛肉、ナムルが大量に入ったビビンバ丼、大豆など大量の野菜が入ったミネストローネ、大量の海藻サラダ、イチゴやキウイ、バナナが大量に入ったフルーツ盛り)の乗ったお盆をプルプルと腕を震わして持っていた。いくらなんでも多すぎである。「おも~い、持ってぇ」
「は? あ、ああ――いや、まぁ……嬢ちゃんがいいなら良いが」少し心配げに夜恵を見る兎だが、夜恵からお盆を片手で受け取り、そのまま歩き出す。「ほれ、行くですぜぃ。どこで食うんだ?」
食堂はボロボロ――普段は食堂に人がごった返しているが、今日はそういうわけにはいかないだろう。
「う~ん……あ、私の更衣室!」
「そこに持ってけば良いんだな――」
「う~ちゃんも一緒に食べようよ」
「は? あ~、いや……」兎が志稲に視線を向ける。
「……夜恵が良いなら、私は大丈夫、です」
「あいよ。そんじゃあ行くか」
夜恵の更衣室に向かって三人は歩き出す。
朝に比べると大分瓦礫が減っており、兎が夜恵に対して足元を注意するように言うのだが、転んでしまうような大きさのものはほぼなく、それでも夜恵は兎に礼を言う。
そうして、夜恵の更衣室に辿り着き、夜恵が扉を開ける。
その時の兎の第一声――。
「良い匂い――じゃない! 広っ! なんだこれ」兎はあちらこちらに視線を投げ、呆然と立ち尽くした。「ウォーターサーバーにテレビ、シャワールーム、冷蔵庫に……あのババア、なに考えて――」
「う~ちゃん、早く机に置いてよぉ、お腹空いちゃった」夜恵はいの一番に腰を下ろし、机をパンパンと叩いている。しかし、兎が視線をどこかに向けたまま動きを止めていることに気が付き、首を傾げる。「う~ちゃん?」
「……若、女っつうのは自分だけの空間だとこんなもんなんですかぃ?」兎が開きっぱなしのクローゼットを指差す。
「え? あ――」志稲が急いでクローゼットを閉じに動く。そして、苦笑いで夜恵を咎める。「夜恵……どうして、ブラが出しっぱなしなの? と、いうか、今もつけてる、よね?」
「ほぇ? あ、出しっぱなしだった? ありゃりゃ」夜恵は気にしていない風に言い放ち、そして襟を指で下げ、ブラをつけていることを確認させる。「うん、つけてるよ。それは替えのブラだよぉ。ほら、蒸れちゃってここではシルクのブラとパンツ――」
「や、止めるですぜぃ! ここにはブラをする必要のない人間もいるんですぜぃ!」
「さすがにつけてますよ!」赤くなった顔で兎に抗議する志稲。
「と、いうか! 私のブラの話は良いから、早く食べようよ」夜恵は二人に座るように促すと急須の中にお茶っ葉を入れる。「志稲もう~ちゃんもお茶で良いよね?」
「おぅ、あんがとですぜぃ」
「それじゃあ食べよ、食べよ」机の上にデカデカと盛られた料理の数――夜恵はそんな料理を前にしても滅入ることもなく、お箸を手に目を輝かせる。「いただきま~す」
夜恵のいただきます。から始まる昼食。志稲も兎も各々の料理に手を付ける。
昼食の時間は1時間、作業員にとっての癒しの時間――昼休みを利用して仮眠をとる人間もいれば、昼休みいっぱい煙草を吸い続ける人間もいる。
そんな風に、昼休みの過ごし方など十人十色――夜恵たちはこうして昼食をとっているが、中には100%趣味に費やす者もいるのである。
「あ、う~ちゃん」美味しそうに肉を頬張る夜恵が思案顔で兎に尋ねる。「今朝、う~ちゃんが面倒見た人の声を嫌でも聞くって言ったけれど?」
「うん? ああ、そういやぁ、練習用レーンの方まで放送聞こえていないんだったな」
「ほぉそぉ?」
「ああ、多分この時間なら――」
兎の声に被さるように聞こえてくる軽快な音楽――そして……志稲と兎のうんざり顔である。二人にこのような表情をさせるというのだ、相当なものだろう。
『さて……昨日は突然の発熱でおめぇらに声を聞かせられなかったが――今日も元気に五星……レェェェディォォ!』……ああ。男の喧しい声が工場に響く。『さてさて、ではではまずはお便り紹介……って、一通もねぇじゃねぇかぁ! いつも通りだがおめぇらの冷笑が痛いぜこのやろぉ!』
兎と志稲がげんなりしているのは、いくら肉を食べても皿の上がいつまでも騒がしいからだけではないのだろう。
この突然始まったラジオらしき放送――男の口ぶりからして、毎日このようなことをしているのだろうが、あまり評判は良くないらしい。
『さてさて! お便りもないから30分続けられるかわからねぇが、いつも通りに俺の話術でチェケラ!』ウザい……兎以来の衝撃である。『さてさて! それじゃあみんなは元気かい? 俺はテンションだだ下がり! お便りが来ないこともそうだが、何よりも残業が増えたことが俺のハートにズシリとフォール! 今日も明日も残業オール!』
日常の何でもないようなことや天気、今日の占いなどを話す男なのだが、全くもって五月蠅い。こんなものを毎日聞かされているのか。と、この工場の作業員に対して同情してしまうが、金剛と乙愛が止めに入っていない辺り、もしかしたら一定数はファンがいるのかもしれない。
と、思ったが……。
『きょ~~~っの! 工場ちょぉお! 昨日一日工場長のお顔を見ることが出来ず発狂しそうだったが、相も変わらず可愛い! 天使! 奇跡の産物!』まさかの乙愛贔屓である。この放送を聞く兎が頭を抱えながら「……あいつも信者だからな」と、小さく呟いた通り、この声の主は乙愛絶対主義者(ロリコン)である。『俺はまだ病み上がりでぶっちゃけ今も体が怠いんだが……今朝、食堂で見かけた天使――なんと工場長に、風邪はもう良いのかとお声をかけていただきました! 怠いけれど頑張れる!』
きっと、これがこのラジオを流し続けている理由なのだろう。
乙愛は百歩譲ってもナルシスト、五百歩譲ってもナルシスト、どこまで行ってもナルシストであるため、このように大々的に自分に向けられた声が気持ち良いのだろう。
故にラジオは乙愛が許可したものであるのが容易に想像できる。現に兎が「あのババアは信者に甘い」と、言っており、五月蠅いだけで他に害のないこのラジオは誰にも止めることが出来なくなっているのだろう。
ラジオの声の主は今日の一言。と、言っておきながら、乙愛の話を続けていく。
『ある筋から頂いた工場長の寝巻写真! やっべぇぜぇ……』最早ストーカーである。『さてさて――そろそろ、今日の一曲いっとくかい? 桜が満開なこの季節、始まったと思いきや終わっている人もいるだろう何とも移り替わり、雨あられスコール台風春一番な面倒な春! 今日一日、兄貴が牛に構ってばっかな俺の心も夕立狐日和ゲリラ豪雨! そんなグルグルな春のようなそうでもないような一曲――自称ロックシンガー!』
曲名で、春に関係がないことは察せられる。
そして、ドラムのスティックを叩き、リズムに乗っているだろう音が聞こえてくるのだが……違和感。何故だろうか、音が妙に荒い――。
『あいつは自称ロックシンガー! 俺んちの隣に住む山田家の太郎く~~~ん! 成績は普通ぅ、運動音痴ぃぃぃ! だけれど、だけれど――いつだって心はロックだと叫んでいるのさ! 苦手な苦手なシャトルラン、太郎君はぁ! 全力で走り、全力を超えて毎年救急車を呼ぶのさぁぁ! ロックな生き様を見せてくれるぅぅ! だけれど、だけれど――自分の買い物は躊躇しないくせに、割り勘だと1円単位で携帯の電卓を使うぅぅぅぅ――』
貴様が歌うのか……。
音の粗さから、明らかに自作の曲――それだけならまだ許せるかもしれないが、その音に合わせて今この場で歌うのはどうなのだろうか……歌も一緒に録音すれば良かったのではないだろうか?
未だに山田がどうだの歌っているが、そんな歌を聞きながら食事を取っている夜恵は箸を運ぶ手を止め、呆然と声が聞こえてくる箇所を眺めていた。
「……え、えっと――」
「良い……嬢ちゃん、何も言うな」大きくため息を吐く兎なのだが、このラジオの声の主に対して思うことがあるのだろう。「……悪い奴じゃあないんですぜぃ? ただ、ヘンテコなだけですぜぃ」
「う、うん……」兎の引き攣った表情に夜恵は気を遣おうとしているのか、どこか余所余所しい。「えっと、うん……う~ちゃん、私はあんなに面倒じゃないと思う、よ?」
「……ありがとですぜぃ」夜恵の言葉はフォローの意味を成していないが、兎は大人なのだろう。夜恵の頭をポンポンと撫でる。「……さて、さっさと食っちまって煙草でも吸って――って、若?」
兎の視線の先――そこには三分の一まで減らせたにも関わらず、まだ終わりの見えない志稲のスタミナ定食があった。
志稲はげんなりとしており、お腹を押さえては兎に助け舟を求めるような眼差しを向けていた。
そして、兎はもう一度ため息を吐くと、更衣室の窓の傍で煙草を吸って良いかを夜恵に尋ね、了承を得て、煙草に火を点けながら一服終わったら手伝うことを志稲に言った。
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