第一章 ヒトノキモチ

第1話 ちさ

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「話が違うよ……」

 今年から中学生になった雫草しずくさちさは、ようやく念願の〈紋白端末タトゥ〉を手に入れていた。母親が言うに、自分がちさくらいの頃はとにかくスマートフォンが欲しかったのだという。時代は変わり、今はそれが〈紋白端末タトゥ〉になっている。

 ちさの左手の甲に貼り付けられた、白い発光シール。スマートフォン時代に終わり告げた新しい携帯端末だ。

紋白端末タトゥ〉は、それ単体ではただ白く発光して見えるだけの端末だが、特殊な〈ガラス体〉を通してそれを見る事で、白い発光をホログラムとして覗き込むことができるARデバイスだ。〈紋白端末タトゥ〉は生体電気を使用し、また〈ガラス体〉にも電源は不要であり、眼鏡やコンタクトに加工されたものを使うのが一般的となっている。つまり、人類が長年苦しめられていた“携帯端末の充電”という行為はついに消滅した。

 ちさは、手の甲に特殊な工程で貼り付けられた〈紋白端末タトゥ〉を眺めてみる。

 これがあれば友達と毎日通話できるし、ゲームもできる。知りたいお店の情報を調べて、そこへ行く事ができる。毎日が楽しくなるはずだった。

 しかし――ついさっきの事だ。

 そんなちさの手の甲から一匹のネコが生じ、飛び出していた。

 花柄やピンクや水色のちさの部屋の内装は半分以上が母親の趣味なのだが――その風景の中、飛び出したネコが縦横無尽に宙を泳ぎ回っている。それは小学生が描いたかのような雑なイラスト調にデフォルメされた茶色のトラ猫で、顔には歌舞伎調の模様が可愛らしく描かれている。

 カブキネコ――世間ではキネコと呼ばれている。彼は、〈サイコゲーム〉の案内人ガイドAIとして有名なマスコットだった。ちさと目が合うと、キネコはその目の前にやってきた。

「君は〈サイコゲーム〉の対象者に選ばれたにゃん!」

 手の甲にある〈紋白端末〉から『ここをタップ!』というアイコンが浮きだした。キネコは不均等な四つの足の歩行アニメーションを繰り返させながら返答の待機に入る。もしここでアイコンを無視した場合――その後の再三にわたる通知をすべて無視した場合、その人は死ぬことになる。実際、このゲームの根拠法が制定された直後には、通知を無視して命を落とした人たちの話題で持ちきりだった。

 当時まだ幼少だったちさではあるが、その自殺報道を見ていた自分の感情はよく記憶に残っている。

(現実から目を背けるだなんて、大人なのに情けない人たち!)

 そんな無責任な人たちが今まで社会を支えていた事実に怒りすら感じていた。

 しかしそれがいざ自分の身の起こってから、ちさは彼らの気持ちがよくわかるかもしれないと思いかけた。

(いやいやいや。でもやっぱり私はあいつらと同じじゃないって。だって私の場合は、そもそもがおかしいでしょ!)

 当時の苛立ちが現在に蘇り、それは今自分が置かれている不条理な状況に向けられた。

〈サイコゲーム〉の対象者は本来ベーシックインカム支給対象者に限られているハズだ。まだ中学生の自分――親の扶養になっている自分になぜこの通知が届いたのか。

 なにかの間違いだと思った。

「お父さん! お母さん!」

 ちさは自室から飛び出した。階段を駆け下り、灯りがこぼれるリビングに向かう。両親お気に入りのバラエティ番組の音が聞こえてくる。後ろから空中に浮かぶキネコが追いかけてきた。それから逃げるように――

「お父さん! お母さん! 絶対おかしいよ! だって私に――」

 しかし、扉を開いたところでちさは言葉を止めた。

 テレビの中から、〈サイコゲーム〉を乗り越え今も生き残っている芸能人たちのトークが聞こえてくる。ゴールデンタイムのバラエティ番組は、この時代になってようやく品性を取り戻していた。番組は明るく爽やかな調子で芸人たちが自身の経験した〈サイコゲーム〉を解説している。彼らはとても上品になっていた。他人を蔑む笑いを捨てた芸人たちは見ていて素直に気持ちがいい。色々な感情を一瞬だけ忘れ、彼らの面白い話に思わず「フフ」と笑みが漏れる。しかし、前時代的な液晶テレビの青い光からふと視線を落としてみると、ちさの意識は半ば強引に現実世界へと戻された。

 ソファに横たわっているのは、父と母の死体だ。

 ぶらんと垂れさがったそれぞれの手の甲が僅かに発光している。二人の〈紋白端末〉はまだ辛うじてその電源を保っているようだった。

ⅢAスリーエー

 どちらの手の甲からも、その文字が浮き出ていた。

「ピンポーン」とチャイムが鳴る。NA2と警備会社が二重監視する自宅の施錠が特別権限によって解除され、ちさの応答なくして玄関のドアが開く。

「こんばんわ。死体回収員の水流すいりゅうです」

 何人かのうちの一人がそう言って、許可なく玄関からリビングへとあがってくる。

「娘さんかな」

 コクリと頷くちさ。

 お笑い番組によって現実から一時的に回避したはいいが、今度はその愉快な気持ちが現実によって取り上げられた。取り残されたちさの心は虚無になっていた。そのちさに声を掛けた回収員は無精ひげのある渋い顔の男性で、白い作業服の胸元には名乗った通り“水流”という名前が刺繍されている。

「遺体を引き取りに来ました」

 再びコクリと頷くちさ。

 水流瀧也タツヤの後ろから二人の男が棺を運び込んでくる。

「夫婦でマッチングか」と、瀧也が抑揚のない口調で呟くように言う。「気が知れた仲だろうに〈ⅢA〉とはな。色々と引っかかりを感じるが――」

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 瀧也は、無表情で立ち尽くしているちさの頭にポンと手を置いた。

「まだ実感がわかないだろ。今のこの目の前の光景に」

 瀧也を見上げ、三度みたびコクリと頷いたちさ。瀧也はその反応を確認すると、口の片方だけをつり上げて笑みを作る。そして再び視線を死体に戻すが――彼の目はその死体そのものではなく、どこか遠い場所を見ているかのようだった。まるでその皮肉じみた歪んだ笑みを、遥か彼方の社会の果てへと向けているように――

 その様子を見上げていたちさは、本能的に理解した。恐らくだが、この人は味方だ。

「あの、えっと、私、キネコが……」

 その短い言葉で、彼は理解してくれた。母親の入った棺が運び出されていく。

 瀧也は目を見開き、ちさの左手を掴んで持ち上げた。〈紋白端末〉が、その名の由来どおり白く紋様を描き発光している。

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「今、いるのか?」

 頷くちさ。

「両親が死んで扶養から外れたか。もうマッチングは?」

 今度はかぶりを振る。そしてちさは落胆した。これは何かの間違いではないようだ。両親の死と同様、自分自身に突き付けられた現実だ。

「わかった」瀧也はその場で屈み、目線をちさに合わせる。「とりあえずはキネコの言う通り、ゲームの案内を進めていくんだ。そうすると最後にマッチングした相手が表示される。そして君は、マッチング相手と〈サイコゲーム〉をおこなう。相手の気持ちを考えながら相手が言いそうなことを必死に考えろ。とにかくコツはそれだけだ。歳は?」

「一四」

 瀧也は立ち上がり、苛立った表情で片手を宙に放り投げる素振りをした。二つ目の棺が運び込まれてきて、今度は父親の身体がそれへと入れられる。作業の様子を確認し、仲間に頷く瀧也。

 行ってしまう――

 思わず、ちさは瀧也の作業着の裾を指先で掴んだ。

 彼の苛立ちが、どこか遠くの場所から自分に移ってきたのがわかった。

「酷な状況だとは思う。同情するよ。とはいえおれにはなにも――」

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 それでもちさは彼の服を離さなかった。瀧也の言葉もよく理解できる。これはAIのNA2が決めたことで、だれもその決定は変えられない。自分はルールに従わなければいけない。彼は自分を助けられないのだ。

 それでも、この手は離したくなかった。

 息をしようとして、苦しい事に気付く。鼻をすすり、視界が乱反射し、込み上げてくる声を出すまいと身体を必死に力ませる。

 そんな泣くまいと堪えるちさを見て、瀧也は大人の溜息を吐いた。

「……わかったよ、仕方ない。しばらく居てやるから」

 優しい声だった。ちさは小さく頷いてから、そのあまりの優しい声のトーンに堪えきれず、大きな声で泣き出した。

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