59話 悪魔の本性

 翌朝目覚めると、少し熱っぽい感じがして、体温を測ると37.2℃。昨晩、狭いベッドで一緒に寝たため風邪を引いたらしく、念のためにもう一日欠席することにした夏輝くん。


 冬翔くんを送り出し、ベッドに横になるとすぐに眠ってしまったようで、どれくらいそうしていたのか、電話のベルの音で目が覚め、慌てて階下へ行き受話器を取ると、父親からでした。


 夏輝くんの容体を心配し、快復したことを告げるとホッとした様子。そして神妙な声で、これまで自分がしたことの反省を述べ始めたのです。


 自分はどうかしていた、二度とこんなことはしない、おまえたちのおかげでようやく目が覚めた、という言葉を涙ぐみながら何度も繰り返す父親。



「もういいよ。分かったから」



 と答えた夏輝くんに、心からの謝罪と感謝の言葉を繰り返し、そのお詫びとして、お正月に三人で旅行に行くことを提案したのです。



「一月三日から五日まで、温泉旅館を予約しておいたから。そこで三人でのんびり過ごそう」


「今からよく取れたね?」


「おまえたちのためなら、どんなコネでも使うさ」


「やっぱ、父さんって凄いや」



 そう言う夏輝くんに、まんざらでもない様子の保さん。



「ただ、仕事のほうがちょっと立て込んで、初日だけ調整が付かなくてね。三日の深夜か、四日の朝には合流出来ると思うから、悪いが、おまえたちだけ先に行っててくれるか?」


「そんなに忙しいなら、無理しなくても良いのに」


「これは、父さんの気持ちなんだ。おまえたちと旅行に行けるのを、楽しみにしてるから」


「うん、分かった。僕も、楽しみにしてる。それじゃ」



 電話を切り、ホッと胸を撫で下ろした夏輝くん。自分のしたことを反省して、こんなサプライズを準備していたとは。



「結構、良いとこあるじゃん」



 多忙を理由に、これまで一度も家族で旅行をしたことはなく、こんな予約が取りづらい時期に、頑張って宿泊先を手配してくれた父親を、後は冬翔くんがどこまで受け入れてくれるかです。


 彼が心と身体に負った傷を思うと、すぐには無理だとしても、自分が間に入り、少しずつでもふたりの関係を改善させる手助けになれば、と考えていると、再び電話のベルが鳴りました。



「もしもし、北御門です」


「あら、その声は、ふうちゃん? なっちゃん?」


「夏輝だよ」



 電話は、祖母の千鶴子さんでした。



「こんな時間にお家にいるなんて、学校はどうしたのかしら?」


「ちょっと風邪引いて熱があったから、休んだんだ。それより、何の用?」


「お父さんはいる?」


「仕事で出かけてるけど」


「そう。それじゃ、お正月にそっちに行く予定のことで、さっき、きいちゃん…菊子おばあちゃんに電話したら、こうちゃんと一緒にお泊りに行きますって言ってたからって、お父さんに伝えておいてくれるかしら?」


「え…? どういうこと?」



 思わず、訊き返した夏輝くん。


 つい今し方、お正月は三人で家族旅行に行くと言っていたはず。あるいは、急なことで、祖母への連絡が行き違いになっているのかと思ったのですが、



「なっちゃんたちは、スキー合宿があるんですってね。会えなくて残念だわ」


「ちょ…待ってよ、何それ?」


「なっちゃんは、勿論見学するんでしょ? 怪我しないように、気を付けて行ってらっしゃいね」


「ばあちゃん、どういうこと?」



 お年寄りの悪い癖といいますか、相手の話は全く聞かず、一方的に自分の話ばかりをする千鶴子さん。



「そういえば、昔はよく、きいちゃんがこうちゃんを連れて、うちに泊まりに来てたけど、なぜかこうちゃんが泊まった日に限って、ふうちゃんが夜泣きするのよね。不思議だったわ」


「いや、今そんな話じゃなくて…!」


「あらやだ、もうこんな時間! それじゃ、なっちゃん、宜しくね! ごきげんよう!」



 一方的に言いたいことだけ言うと、電話は切れました。


 そして、それらすべてが父の策略であることに気付いた夏輝くん。冬翔くんが言った通り、目的のためなら平気で嘘をつき、謝罪も旅行も、すべては自分の欲望を叶えるために仕組んだことなのだと。



「すぐに、冬翔に知らせないと…!」



 そう言い掛けて、ハッとする夏輝くん。


 もし、このことを冬翔くんが知れば、保さんの毒牙から私を守るために、宣言通り、実力行使に出るに違いありません。



「駄目だ…! だったら、このことをこうちゃんに…」



 ここで、ようやく気付いたのです。なぜ、冬翔くんが、私に迫っている危険を、私自身に知らせなかったのか、ということ。


 そう、冬翔くんへの性的虐待が止まるとすれば、その対象が私へシフトすることを意味し、彼を助けるために、自ら進んで犠牲になることを厭わないとしたら。そうなることを、何よりも冬翔くんは危惧していたのです。


 彼が言った『こうちゃんがいれば、みんな傷つく』という言葉の意味は、身体を傷つけられる私自身、身代わりにしたという冬翔くんの苦悩、そして、父親と恋人の両方から裏切られる夏輝くんの衝撃を指していたということ。


 だからこそ、あんな嫌がらせという不合理な手段を用いてでも、この家から遠ざけようとしたわけで、たとえ私が覚悟の上だとしても、それを阻止しようと、彼は父親殺しを実行に移すでしょう。


 世間では、家庭内暴力による殺人事件が社会問題となっており、その大半はゴシップネタとして扱われていました。汚い部分すべてを、自分ひとりで引き受けるつもりでいる冬翔くんが、何も知らない世間の好奇の目に晒されることなど許せません。



「聖たちに相談…」



 そう呟きかけ、すぐに首を横に振りました。万が一彼らの口から、私や冬翔くんの耳に入れば、元も子もありません。


 まるで周到に張り巡らされた罠のように、どこか一部でも触れれば、被害者、犠牲者、犯罪者のいずれか、もしくは複数、あるいはそのすべてが出てしまう可能性が、限りなく大きいことは事実。


 周囲の大人に助けを求めたところで、世間体の良い父の裏の顔を、にわかに信じる人などおらず、八方塞の状態で万策尽き、頭を抱える夏輝くん。


 つい先日まで、敬愛して止まなかった父親の、悪魔のような本性を知ってしまった今、その手の中で転がされている自分の非力さを、嫌と言うほど思い知らされたのです。


 それでも、人間である以上、きっと何か弱点はあるはず。


 考えて、考えて、考え抜いた末に、ある結論にたどり着いたのです。そして、見つけたのです。二度と父親に蛮行をさせないための、最も効果的なダメージを与える手段を。


 そしてそれこそが、これまで冬翔くんが頑なに、一連の事実を知らせなかった答えでもあったことを。





 もし、初めから運命の行く先が決まっていて、誰にも変えられないのだとしたら、私たちが出逢ったあの日から動き始めた運命の歯車を、ここで止めてしまいたい。


 みんなで一緒に過ごした時間ごと、永遠に…


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