19話 緊急事態

 木の実ちゃんにとって、今までどんなに頑張っても、死ぬほど我慢をしても、まったく振り向いてもらえなかった母親に認められたという充足感は、どれほど強烈に彼女の心に刻まれたことでしょう。


 と同時に、自分の娘に対し、死の縁をさ迷うまで放置しても尚、平気でいられる母親の神経に、激しい葛藤が生まれた瞬間でもありました。


 娘の入院中、レシピの締め切りを抱え、アシスタントを起用したものの、どうもしっくり来ず、今まで、調理器具や調味料の配置一つとっても、自分の使い勝手の良いレイアウトになっており、自分にとって完璧なアシストが出来るのは、娘の木の実ちゃんしかいないと思い知った征子さん。


 ネグレクトによって、母親からの愛情を受けられず、渇望していたその愛情を、母親の仕事に絡むことでのみ独占出来ることに気付き、仕事以外無能な母親をフォローしなければという使命感に燃える木の実ちゃん。


 この母娘を結びつけたのは、生活の糧である『料理』。その瞬間、二人の間には『共依存』の関係が誕生したのです。そのことを、娘は痛いほど理解し、母親は全く分かっていません。


 今も、見殺しにされかけた恐怖は、征子さんへの強い憎しみとなって残ったままで、激しく罵ってやりたい衝動に駆られもしますが、料理に関してのみ見せる母親の嬉しそうな笑顔と、たまに掛けられる『ありがとう』の言葉がもたらす媚薬のような快感が、一瞬すべてを白紙に戻しそうになるのです。


 おそらく意図してではないのであろう母親の魔性に、言葉も怒りも封印されてしまい、遣り場のないどす黒い思いだけが、鬱々と彼女の心の奥底に降り積もり続けるのでした。


 今でも変わらず、征子さんのネグレクトは続いていましたが、さすがに中学生にもなると、木の実ちゃんも体力が付いて、風邪くらいで寝込むこともなくなりました。


 体調不良が長引きそうなときは、予め食べるものの作り置きをしたり、ストックが無くなれば、連絡を受けた私が出向いて何か作るなど、臨機応変に対応。何しろ、食材だけには事欠かないお宅ですから、お金の心配は一切ありません。


 ちなみに、父子家庭で父親が不在がちな北御門家のお金事情は、息子たちがキャッシュカードを預かっていて、お小遣い含め、必要に応じて自分たちでお金を下ろしていました。ジュース・デーの飲み物やお菓子の代金も、そこから出ています。


 後で父親が明細をチェックすることになっていますが、それもほぼしていないのは、それだけ息子たちを信頼しているということなのでしょう。勿論、ふたりが勝手に大金を引き出して使うようなこともありません。


 お小遣いという部分では、私と朋華ちゃんは、決まったお小遣いは貰っていませんでした。守銭奴の私の母にとっては、余計なお金を使われるのが嫌、過干渉の朋華ちゃんの母親は、一円単位まで娘を管理したいという違いこそあれ、必要な分だけを都度手渡すということで共通しています。


 ですから、私たちにはジュース・デーに掛かる費用を負担することは出来ず、申し訳ない気持ちになりましたが、トータルしても、一回当たり6人分で1000円にも満たないからと、木の実ちゃんや聖くんからも徴収はしておらず。


 あくまで主催者として、招待している側が負担するというスタンスのふたりの気持ちに甘え過ぎないよう、率先して自分に出来ることをするというのが、私たちの暗黙のルールになっていました。


 ちなみに、聖くんと木の実ちゃんは定額のお小遣い制でしたが、6人全員に共通しているのは、ほとんど学校と自宅の往復だけで、特に欲しいものや行きたい場所があるわけでもなく、お小遣いを使うのは文房具程度。


 こうして6人で集まるジュース・デーがなければ、私たちの日常は本当に無味乾燥の連続で、ほんの2か月前までの毎日が、遥か昔のように感じられました。





 6人分ということと、夏輝くん冬翔くんふたりの誕生日ということで、特別に2段に設えた特大バースデーケーキ。大きめにカットして取り分けても、まだまだたっぷり残っています。


 食べ盛り男子三人のために作った、たくさんのお料理もつまみながら、歓談していた私たち。楽し過ぎるあまり、ほんの少し気の緩みがあったのだと思います。



~ガシャーーーン!!~



 室内にけたたましく響き渡った音に驚いた全員が振り向いた先にいたのは、夏輝くんでした。どうやら、トイレから戻った彼が、出入り口付近に飾ってあったバカラのクリスタルの花瓶を倒してしまった様子。


 さらに運が悪いことに、飛び散ったガラスの破片が当たり、手の甲あたりから出血していました。そう、私たちが何より恐れていた事態が起こったのです。



「きゃーーーっっ!!」


「血! 血が出てる!!」


「止めないと! 冬翔、どうすればいい!?」



 一瞬にして室内がパニックになる中、みんなを掻き分けるようにして夏輝くんに歩み寄り、出血している傷部分を、自分の手で握った私。流血した血が、私の腕にも滴ります。


 ゆりを引っ叩いたとき同様、自分の意思とは関係なく勝手に身体が動き、自分でも何をしているのか分からないまま、夏輝くんと見つめ合う形でフリーズしたときでした。



「そのまま! こうちゃん、そのまま手を離さないで!」



 そう言った冬翔くんの言葉に、ハッと我に返りました。どうやら、私の手が傷口を圧迫し、ちょうど良い具合に止血する形になっていたのです。


 タクシーを呼ぶために、電話を掛けに行った冬翔くん。



「ふたりとも、ゆっくりこっち側に移動して! ガラス、気を付けて!」



 木の実ちゃんに誘導され、割れたガラスを除けながら、安全な場所へ移動。


 すぐに箒と塵取りを持って来た聖くんと木の実ちゃんで、散らばったガラスを片付け始め、私たちに走り寄った朋華ちゃんは、夏輝くんが他に怪我がないか、身体に欠片が付いていないかをチェック。



「朋華、もし欠片を見つけても、絶対に触るなよ! 指を怪我したら、シャレになんねーからな!」


「言ってくれたら、すぐに取りに行くからね!」


「分かった!」



 ふたりの忠告に、念入りに目視で確認する朋華ちゃん。



「OKよ! 他に怪我もないし、ガラスも付いてないわ!」



 そこへ冬翔くんが戻って来たのですが、どうやらすべて車が出払っていて、到着するまでに時間が掛かるとのこと。



「どうしよう!? そんなに待ってられないわよ!?」


「僕に任せろ!」



 そう言うと、どこかへ電話を掛け始めた聖くん。



「…だから、緊急事態なんだよ! 大至急頼む!」



 リビングまで聞こえる大声で、誰かにここへ来るように指示し、そのまま道路に出て行きました。


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