55話 心理学教授

 普段、あまり乗ったことのない路線に乗り、到着したのは、彼女が通う大学でした。


 広いキャンパスの一角に建ち並ぶ校舎の一室に入ると、そこにいたのは30代後半の男性で、とても優しそうな笑みを浮かべ、



「どうぞ、座って。大体の話は、茉莉絵くんから聞いています。僕は、ここで心理学を教えている瀬尾といいます。よろしくね」



 そう言うと、茉莉絵さんに暖かいお茶を淹れるように指示した瀬尾先生。運ばれて来たお茶を見て、開口一番、



「薄っ!」


「だって、普段からお茶なんか淹れたことないし」


「しかも、熱っ!」


「文句言うんだったら、最初から自分で淹れりゃいいじゃん!」


「ごめん、ごめん。お茶の名産地出身なんで、人間ならお茶くらい、誰でも美味しく淹れられると思ってたから」


「いちいちムカつく~~!!」



 まるで大学教授と学生とは思えないようなコミカルな遣り取りに、少し気持ちが解れた気がしました。



「それじゃ、話せることから話してもらえますか? 起こった順番とかも、気にしなくていいですからね」



 正直、初対面の人に、そんなことを話してよいものかという葛藤はありましたが、茉莉絵さんの先生であることや、その温厚そうな雰囲気、何よりも、一刻も早く彼らを救ってほしいという縋るような気持ちから、私は自分が知る限りのことを話したのです。


 私たち6人のプロフィールは、すでに茉莉絵さんから聞いていた瀬尾先生。当時はまだ個人情報に関し、今とは比較にならないほど緩かった時代。おかげで話はスムーズに進みました。


 北御門家とは家族ぐるみの付き合いで、ふたりを小学生の頃から知っているだけに、茉莉絵さんのショックは大きかったようですが、瀬尾先生からすれば、こういうケースはしばしばあるのだそうで、



「もう一つ、ちょっと訊き難いことを尋ねるけど」


「はい…」


「冬翔くんは、性的虐待は受けていた?」



 迷いましたが、ここまで来たならすべてを話し、彼らの判断を仰ぐしかないと思い、幼い頃に自分が見た光景を、出来る限り詳細に話したのです。


 それを聞いて、苦悶の表情を浮かべるふたり。



「酷い…自分の息子だよ…?」


「そうだね…」


「そりゃ、冬翔、おかしくもなるよ! 誰かに発散しなきゃ、やってられないじゃん!」



 感情を露にする茉莉絵さんに、瀬尾先生は少し納得が行かない表情で呟きました。



「…かも知れないけど、何か違う気がするんだよね…」


「何? 先生、どういうこと?」


「こうめちゃん、冬翔くんの嫌がらせが始まったのは、彼の秘密を知ってからだったよね?」


「はい」


「そのときのこと、詳しく思い出せないかな?」



 そう言われたものの、覚えているのはあの日、夏輝くんがバニラエッセンスを買いに出たのと、外は雷が鳴っていて、じきに雨が降り出したこと。


 そして、ちょうど出掛けるところだった彼らの父親と遭遇し、僅かばかり挨拶程度の会話を交わし、そのすぐ後に、冬翔くんの秘密を知ったということくらいです。



「それからすぐに、嫌がらせが始まったわけだ?」


「はい」


「で、最初は些細なことだったのが、どんどんエスカレートして、最終的には本気で殺そうとまでし出した、と」


「はい」


「だから、何が違う気がするわけ?」



 少しイライラした様子の茉莉絵さんに、小さく首を傾げながら答える瀬尾先生。



「冬翔くんは、まだ何か重大なことを隠している気がしてならないんだよね」


「重大なことって、何?」


「それが分からない」


「んな、無責任な!」


「いずれにしても、あまり悠長にしてる場合じゃないことだけは確かだと思う」


「じゃあ、すぐに父親にやめるように言って…」


「それはNGだよ。虐待されてる本人が証言しない限り、父親に躾の一環だと言われるか、シラを切られればそれまでだし、警戒して、子供に口封じするかも知れないからね」


「けど…!」


「それに、一番危惧しなきゃいけないのは、冬翔くんに対する蛮行が激化することでしょ」


「あ…」


「もう一つ。いずれ、夏輝くんがその事実を知ったとき、彼が受ける衝撃や、それを知られた冬翔くんの心境が気がかりだよね」


「どうすれば…」


「とにかく、今は注意して見守るしかない」



 当時はまだ、『躾』という名のもとに、子供に対する虐待が見逃されていた時代でしたから、周囲に出来ることといえば、注意して見守ることくらいしかありませんでした。


 ですが、彼らが予想した以上に、そのときは早く訪れたのです。





 私と別れて自宅に戻った夏輝くんは、ノックもせずにドアを開けると、ベッドに寝転がっていた冬翔くんに掴み掛かりました。



「おまえ、どういうつもりなんだよ!?」


「…」


「黙ってないで、答えろ!!」


「…」


「さっき、こうちゃんがいると、みんな傷つくって言ったよな? あれ、どういう意味だよ!?」



 すると、それまで黙り込んでいた冬翔くんが、ぽつりと答えたのです。



「目障りなんだよ…」


「は!? 言ってる意味が、分かんねー!」


「だから、親戚で、幼なじみで、今はおまえの彼女か知らないけど、自分家じぶんちみたいな顔で居られると、ムカつくって言ってんだよ」


「だからって、首絞めるか、普通!? 頭おかしいだろ!?」


「つかさ、デートなら外ですれば? キスだかエッチだか、隣の部屋でイチャイチャされるこっちの身にもなれよ?」


「おまえ…!!」


「この際だから言わせてもらうけど、ジュース・デーだって、何でいつもうちなわけ? 聖も木の実も朋華も、揃いも揃って厚かましい奴らばっかだよ」


「この野郎!!」



 そう叫んで殴り掛かろうとした夏輝くんの腕をスルリと交わし、



「そうやってさ、後先考えずに殴り掛かって怪我でもしたら、こっちにどんだけ迷惑掛かると思ってるわけ? おまえの病気のことで、周りがどんだけ気遣ってるか、分かってんの?」



 淡々と正論を述べる冬翔くんに、返す言葉を失う夏輝くん。不可抗力とはいえ、病気のことを言われてしまうと、反論する余地もありません。


 これまでにも喧嘩はありましたが、こんな冬翔くんを見たのは初めてのことで、夏輝くん自身、彼の真意を掴みかねていました。



「さっきから何なんだよ? いったい何が気に入らないわけ?」


能天気ノーテンキなおまえら、全員だよ」


「おまえ、それ、本気で言ってんの?」


「ああ。いっそみんないなくなれば、清々するわ」



 あまりの暴言に、大きく溜め息をつくと、



「だったら、てめえがいなくなれよ! それが本心なら、みんなを傷つけてるのは、おまえのほうだろ! 少なくとも、こうちゃんを傷つけたことだけは、絶対許さねえからなっっ!!」



 そう吐き捨て、乱暴にドアを閉め部屋を出て行きました。


 ひとり部屋に残され、魂が抜けたようにベッドに倒れ込んだ冬翔くん。



「消えれるもんなら、とっくに消えてるわ…」



 ぽつりとそう呟き、決して口に出すことの出来ない秘密は、ただただ噛み殺すしかなかったのです。


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