僕が彼になれたなら

彼方

序章(1) - 風

 青いラップトップを開く。ディスプレイに映し出されるエクセルの表を眺めてから、傍らのグラスを口へと運んだ。白ワインの深い香りが胸を暖める。目の前の窓から見える街の景色は、既に白くなりつつあった。

 竹下賢は、会社からの帰り道にこのカフェバーで仕事を進めるのを日課にしている。ワインのアルコールと仄暗いこの店に流れる静かな雰囲気は、社内では思いつかない新たなアイディアをしばしばもたらしてくれるのだった。平たい黒いバッグから分厚い書類を取り出しながら、賢はゆっくりと深呼吸をした。

 しかし彼は頭を抱えた。「一体どこから手をつけろっていうんだ」と思わず呟く。全ては一昨日の昼休み後から始まった。

       ◇

「竹下、今から社長室に行ってくれ」

「社長室ですか?」

 初めに部長に言われたときは、間違いなく解雇されるものと直感した。そうでなければ、入社してまだ日の浅い一般社員が社長と直接会うことなどまずありうるはずがない。残念なことに、思い当たる節も確かにあった。逡巡する彼に構うことなく部長は促す。

「早く行きなさい」

 気の進まないまま乗り込んだエレベーターを七階まで昇らせ、社長室のドアを叩いた。

「海外事業部第二営業課の竹下です」

「どうぞ」

 社長のこもった声がわずかに聞こえた。思い切って重い扉を押し開く。そこには社長のほかに二人の姿があった。彼らの顔は知らないが、顔は若く見える。

 状況の理解に苦しみながら、賢が更に緊張した表情を浮かべていると、社長が沈黙を破った。

「まずは彼らの紹介からしようか。竹下君から見て右側のがっしりした男性が、神戸支社で国内営業をしている入社二年目の一条啓介君。左側の小柄な女性が、この間新卒で入ってきた早瀬さとみさん。仙台で勤務予定だったんだ。

 ただ、二人にはもう話してあるけれど、この二人は今日からこの東京本社で働いてもらうことになったんだ」

 だから何だというのか。配属替えの連絡をする相手を間違えているのではないか。真意が読めずに、賢はただ社長の垂れた目を見つめた。

「――それで、竹下君にはチームリーダーとして彼らと一緒に仕事をしてほしいんだ。わが社の業績停滞を打開する、新たな主力製品の企画を頼みたい」

「この三人で、ですか?」

「全社八二五名の中から、取締役会を経て選抜させてもらった」

「そうはいっても、私はもちろんのこと、先程のお話を伺うとこの二人も企画分野の所属ではないようですが……。開発部などからのメンバーはいないのでしょうか」

「分からないか。開発部にせよマーケティング部にせよ、そういう部署のアイディアが上がらないから、現在の停滞に繋がっているわけだ。だからこそ、君たちの若い考えを結集してほしい」

「……分かりました」

「具体的な方向性は、第三営業部の橋本部長から聞いてくれ」

 この瞬間に、『主力製品企画室』と名付けられた三人の戦いは始まったのだった。社長室の向かい側の小さな会議室を与えられた。

 部屋に入った三人は、ぎこちない会釈を交わした後で、席に座った。さりとて、チームを組んだ直後で話し合う内容などない。ひとまずこの日は解散し、それぞれで考えたアイディアを出し合うことに決めた。期限は三日後とした。

       ◇

 三日後の期限――すなわち、それは明日なのだった。偉そうに「三日後に会おう」などとリーダー風を吹かせてしまった手前、何も思いつきませんでした、では今後の求心力に関わる。どうにかして明日までにアイディアを捻り出さなくてはならない。

 窓には店内の照明ばかりが反射して、外の様子は殆ど見えなくなっていた。手元のグラスは既に空になっている。おもむろにグラスを片手に立ち上がり、カウンターへと向かう。

「ウイスキーをロックで。……ダブルでお願いします」

 すぐに、大きな氷の入ったグラスが出てきた。今ではすっかり顔見知りとなったアルバイトの店員が笑う。

「疲れているんじゃないですか? 疲れていると酔いやすいですよ」

「うん、ありがとう」

 再び席へと戻っていく。ふと見渡すと、賢の席から一つ置いた隣に、ポニーテールの女性が座っている他には客がいなくなっていることに気づいた。腕時計は午後九時半を告げている。

「どうにかして、閉店までに企画をまとめよう」

 賢は焦りの表情を隠しきれないまま、書類とラップトップに向かった。

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